医学界新聞

連載

2014.03.17

The Genecialist Manifesto
ジェネシャリスト宣言

「ジェネラリストか,スペシャリストか」。二元論を乗り越え,"ジェネシャリスト"という新概念を提唱する。

【第9回】
アンチ・スペシャリスト・ルサンチマン

岩田 健太郎(神戸大学大学院教授・感染症治療学/神戸大学医学部附属病院感染症内科)


前回からつづく

 これまで,二元論という白黒くっきり分けるやり方が,医療の世界にはうまくフィットしませんよ,という話をしてきた。いよいよ,ジェネラリスト・スペシャリストの二元論を切っていく。

 ちなみに,プライマリ・ケアとか家庭医療とかも一つの専門領域で,患者を診るスペシャリストだ,とかなんとかいう議論は,ここではまったく関係ない,irrelevantな議論なので,スルーします。「そういう話」をしたいのではない。

 ジェネラリスト・スペシャリストの二元論,すなわちジェネラリストに対してスペシャリスト,という切り方は,しばしばジェネラリストのほうからふっかける議論である。スペシャリストのほうから,「われわれスペシャリストに比べて,ジェネラリストは……」という言い方はあまりしないものだ。

 逆に,ジェネラリストはしばしばこういう語り方をする。常にスペシャリストに照らし合わせて自分たちのアイデンティティを確認しようとする。この話法は,意識的,無意識的に非常に頻繁に行われる。

 アメリカの医療はこれまで都市における大学・大病院の医療といった立場からでしか日本には紹介されておらず,数年といった短期臨床留学者のほとんどがそうであるように臓器・疾患専門医的視野でしか語られていない感がある。それは大病院にしかしがみつかない専門医志向の日本人留学者の犯しやすい過ちだと思うし,また残念ながら本当のアメリカの地域医療・プライマリケアの第一線の現状は,そこで仕事をする日本人が極めて少ないがゆえ正しく語られてはいない。(中略)日本がアメリカから学ぶべきものは大病院の専門医療ではなくプライマリケアの現場なのである。日本の大病院勤務医が語るかぜの管理と地域のプライマリケア医の語る医療にはおのずと違いはあるはずであるが,(中略)臓器・疾患専門医療によるゆがんだ医療を改めていく一助にでもなればと願い……

佐野潔.治療.2004;86(1);7-9.

 これはぼくがアメリカにおけるかぜ診療について書いたレターに対する回答である。ここでは,「かぜ」というコンテンツはあまり重要ではない。ま,もっとも,岸田直樹先生(手稲渓仁会病院総合内科・感染症科)や山本舜悟先生(京大大学院医療疫学分野/日赤和歌山医療センター感染症科)らのおかげで現在再注目されている「かぜ診療」がいかにあるべきか,という議論が10年前はどうだったかという意味では,このコンテンツは面白い。興味ある人は『治療』誌(南山堂)のバックナンバーをどうぞ。

 で,ここで注目すべきは,文章からほとばしる「臓器・疾患専門医」に対する凄まじいまでの憎悪の感情である。まあ,これは極端な例だったかもしれないが,大なり小なり,このようなプライマリ・ケア医の「臓器・疾患専門医」に対するルサンチマンは,あちらこちらから感じられるのである。

 率直に言うと,このような恨み節の情も,ある程度無理なからぬところはあるとぼくは思う。

 特に90年代以前の日本医療は極めて縦割り的,タコツボ的で,基礎医学研究の延長線上としての分割された,セグメンタルな「臓器・疾患」に対する医療が行われることが多かった。教員の評価は(ほぼ)インパクト・ファクターのみでなされ,インパクト・ファクターは先鋭的な基礎医学研究によって得られる。今でもそうだが,プライマリ・ケア領域の学術論文は高いインパクト・ファクターにはつながりにくく,それは相対的に低い人物評価へとつながる。不当に低い人物評価は当然,ルサンチマンの温床となる。

 神戸大学病院は開けた港町という土地柄もあり,前身が医師養成場を兼ねた神戸病院という,むしろ一般研修病院のような存在だったこともあり,そこはよい意味でホンワカとしていて,タコツボ土壺の悪弊からはわりと遠い。でも,今でもあちこちの大学病院に行くと,90年代以前の古い価値観を引きずったまんまの「臓器・疾患専門医」に出くわすことは多い。ああいうのがふんぞり返っているのを見ると,ムカッとくるのもしょうがないよね。

 しかし,専門医療も突き詰めていけば,「臓器」や「病気」だけ見ていても,上手くいかないのは自明である。心臓ばかり見ていても心臓疾患の患者はよくならないのだ。そもそも,近年の専門領域は「臓器」だけで切ることが困難である。オンコロジー,緩和ケア,栄養……専門領域をトポロジー的な臓器で切り分けることは不可能になっている。

 よく引き合いに出すのは,ぼくが診ているHIV/AIDS診療である。HIV/AIDSはかなりマニアックな「専門疾患」だが,頭のてっぺんからつま先まで,あらゆるところに合併症を起こす。社会保障制度,家族や夫婦関係,差別,愛の在り方やセックスの方法まで,実に包括的なアプローチをとらねばならない。ぼくは冗談半分,本気半分で,「HIV/AIDS診療は究極のプライマリ・ケアの一様相である」と言っている。

 でも,これはHIV/AIDSに限った話ではなく,喘息診療だって,関節リウマチのケアだって,結局は同じことだと思う。質の高い専門医診療は,どのみちプライマリ・ケア的なのである。それができない「臓器・疾患専門医」がたくさんいるのは承知している。でも,そういう存在をもってスペシャリストの医療をくさすのは,下手な演奏家が存在する,という理由で音楽そのものを否定するようなものだ。

 ルサンチマンにはいつだって,ルサンチマンを抱くような歴史がある。割と得心のいく理由もある。ここで思い出すのは故ネルソン・マンデラである。27年間も牢獄に入れられていたマンデラは,白人を恨みに思う十分過ぎる理由を持っていた。しかし,彼は南アフリカ共和国の未来のために,白人の罪を許し,そして共存の道を選択したのである。

 ぼくを含め,人間はルサンチマンの感情に屈服しやすい。マンデラのような気高い精神は極めて希有な精神である。しかし,マンデラの気高い精神をめざしていけない理由はどこにもない。少なくとも,ルサンチマンの先には医療の明るい未来はないのだから。

つづく

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