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黒川清氏に聞く,挑戦と改革の軌跡
対談・座談会 黒川清,永井良三,武藤真祐,乗竹亮治
2026.01.16
Web限定記事をお送りする「医学界新聞プラス」では,このたび東京大学名誉教授の黒川清氏を囲み,日本の医療の未来を語る座談会を開催しました。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)医学部内科教授を務めるなどアメリカでの経験を有し,現在も国内外で幅広く活躍する同氏から見える日本の医療の課題と可能性とは何か。そして若い世代へ伝えたいメッセージとは。自治医科大学学長の永井良三氏を司会に,医療法人社団鉄祐会理事長の武藤真祐氏,日本医療政策機構代表理事・事務局長の乗竹亮治氏を含めた4人で,黒川氏の歩みを軸に医療人材の育成や日本社会の構造的課題について議論を深めました。
永井 今日は黒川先生とご縁のある方々に,世代を超えてお話を聞く場を設けました。黒川先生は非常に広い視野で,またさまざまな立場で仕事に励んでこられました。その経験をぜひ若い人へ伝えていただきたく,このような場を設けた次第です。

黒川 清(くろかわ・きよし)氏 東京大学 名誉教授
1936年東京都に生まれる。62年東大医学部卒業後,同大大学院医学研究科修了。同大病院などで勤務し69年に渡米。ペンシルベニア大医学部生化学助手などを経て,79年カリフォルニア大ロサンゼルス校医学部内科教授就任。83年に帰国し,東大医学部第四内科助教授を経て89年同大医学部第一内科教授。その後は東海大教授・医学部長,総合医学研究所長などを歴任する。日本学術会議会長,内閣特別顧問,WHOコミッショナー,沖縄科学技術大学院大理事,東京電力福島原子力発電所事故調査委員会委員長などの要職を務めた。1997年より現職。東海大特別栄誉教授,日本医療政策機構終身名誉チェアマン。
良い仕事が評価される「真の競争社会」で生き残るための教訓
永井 本日は黒川先生の歩みに沿ってお話を伺えればと考えています。1962年に東京大学医学部を卒業した後,インターンを経て,東京大学医学部第一内科へ入局し,血液透析の研究を始められたと伺っています。当時の様子を聞かせてもらえますか。
黒川 私は吉利和教授率いる第一内科に入局しました。2年間の研修を修了した頃,吉利先生の勧めで慢性腎不全の透析治療の導入と,それに関連する研究を開始することになったのです。当時最新だった人工シャントをアメリカから取り寄せ,慢性腎不全患者に施行したのは国内では私が初めてでした。その後は三村信英先生と共に虎の門病院分院で透析センターを立ち上げ,血液透析の体制づくりに奔走し,1967年には慢性腎不全患者への血液透析に関する研究論文で医学博士の学位を取得しました。
永井 どのタイミングで渡米されたのでしょうか。
黒川 博士課程を修了し,第一内科の助手となった時期に,先輩である尾形悦郎先生(のちの東京大学医学部第四内科教授)が在籍されていたペンシルベニア大学に留学してみないかと誘われたのです。学位取得後に留学するのはよくあることでしたし,当時は東大紛争も激化していましたので,2年間の予定でペンシルベニア大学へ留学することにしました。それが1969年のことです。
予定していた2年間が過ぎ,研究テーマに据えていた「ラットにおける腎臓の細胞でのシグナル・トランスダクション」にまつわる研究成果をいくつかの論文にまとめるなど一通りの結果を出したタイミングで,臨床的なアプローチがしたいとの思いが強くなり,臨床に近い研究テーマを掲げていたUCLAに移ることにしました。臨床的なテーマを扱うことから,新天地で生き残るためにカリフォルニア州の医師免許を取得する必要があったのです。もちろん試験は全て英語ですから,恐らく一生のうちで最も勉強をした時期だと思います。1975年に医師免許を取得し,ようやくスタートラインに立てました。
永井 そうしてアメリカでの独自のキャリアを切り開かれていったのですね。
黒川 この頃にはもうポストが日本にはないと考え,アメリカでの競争社会に勝ち残っていくしかないと覚悟を決め,内科専門医,腎臓内科専門医の資格を取得し,研究・臨床・教育に励むようになりました。1973年にはUCLA医学部内科助教となり,150人近い医学生に対する講義を受け持つことに。アメリカでは講義内容に対する学生からの評価が当たり前です。評価は主任教授(チェアマン)に集約され,査定が下されます。また講義だけでなく,毎日のラウンドにおいても研修医からの評価がありました。彼らからの評価の内容を見てみると,私自身は英語で話しているつもりなのに「ドクタークロカワは日本語で話しているからわからない」と酷評されることもしばしばありましたが,「英語は下手だけど授業は工夫されていてわかりやすかった」と書いてくれる人もいました。そうしたポジティブなフィードバックは励みになりましたね。日本の大学では軽視されがちな教育者に対する評価ですが,講義内容に対するフィードバックは非常に有用だと考えるきっかけになりました。
永井 そうしたプレッシャーは,常に良いものを追い求める原動力にもなりますね。
黒川 その通りです。アメリカの大学では,努力を続けて自身の価値を高め続けなければ,より優れた人材に代替され,他大学へ移るか開業するかなどの選択を迫られます。ポストを得たからと言って,その後の人生が安泰というわけではないのです。1979年にUCLA医学部内科教授となった際にも,チェアマンから「教授就任おめでとう。ところで,あなたはどうやって稼ぐの?」と聞かれたことは驚きでした。アメリカの大学の教員はそれぞれが自分の収入と研究費を維持するために,猛烈な重圧の中で努力を継続しています。逆に言えば,良い仕事をしていれば,経歴や国籍などの背景に関係なく,評価される世界でもあります。こうした世界に身を置いたことで価値観は大きく広がり,いつしか日本の大学の保守的な価値観に疑問を抱くようになりました。
「自分は何をしたいのか」に向き合っているか
永井 アメリカで働いていくことを決意されているようにも見える中で,1983年に帰国され,89年には東京大学医学部第一内科の教授に就任されます。どのような心境の変化があったのでしょうか。
黒川 尾形悦郎先生とのご縁と説得により,東京大学医学部第四内科の助教授(当時)として帰国しました。帰国を決めたのは,恩のある尾形先生の頼みを無下に断るわけにもいかなかったためです。しかし,14年ぶりに東京大学の学生とかかわるうちに考え方が変わってきました。
永井 具体的に教えていただけますか。
黒川 とりわけ東京大学医学部の学生は日本においてトップエリートとみなされており,アメリカの学生と比較しても見劣りがしないほどに勉強ができます。けれども「自分は何をしたいのか」について確固たる意志を持った学生がとても少ないことに気がついたのです。日本の高等教育の方法,社会制度等々において,アメリカとの間に大きな差があることは明らかでした。アメリカに長く身を置いていたことで,日本の強みと弱みがよく認識できるようになり,日本に腰を据えて若者の教育に携わろうと決意したのです。6年後には古巣である第一内科の教授に推挙され,大学院大学の改革などに従事することになりました。
武藤 私が医学部6年次である1995年の夏,マサチューセッツ総合病院に短期留学をしていた頃,たまたま黒川先生がボストンで講演されている姿を拝見しました。こんなにかっこいい日本人がいるのかと,学生の身分ながら当時衝撃を受けましたね。医学部を卒業し第一内科で研修した際にも,黒川先生が行われていた教授カンファレンスが素晴らしく,大変勉強になったことを覚えています。研修時代にご一緒できた時間は短かったですが,強烈な思い出として残っています。
永井 私も東京大学時代の思い出が蘇ります。先生が第一内科の教授となられて間もない頃,私が第三内科の講師時代にメサンギウム細胞と平滑筋細胞との違いを調べていたところ,研究の様子をわざわざ研究室まで見に来て,「どう違うか見せてほしい」とプレパラートをご覧になりながら議論をしてくださったのです。教授が自身で他の医局の研究室まで足を運んでくださることはほとんどなかったので,非常に新鮮な経験だったことを覚えています。
武藤 当時は別の教室の医師と口を利くだけでも少し嫌がられる時代でしたよね。その話はとても驚きです。
黒川 やはりそうしたこともアメリカでの経験があったからでしょう。その行動を当たり前だと思ってやっていました。所属が異なっていても,優秀な人であれば褒めてあげるべきです。教室の壁を越えた交流が必要だと当時から感じていました。
世界基準で貫いた「徹底公開」への道
永井 東京大学の教授としての定年を目前にした1996年,東海大学へ移られました。背景にはどのような思いがあったのでしょうか。
黒川 東海大学から「医学部長にぜひ」とのことでお話をいただいていたこと,また「どうしても教育の現場にいたい」との思いから籍を移すことになりました。おかげさまで,私が提案した教育アイデアをいくつか実現・拡大させることができ,その頃に築いた医学生を海外へ留学させる仕組みは他大学にも広がっています。
永井 東海大学では医療安全の問題にも取り組まれましたね。ちょうどその時期は,横浜市立大学,東京女子医科大学で医療事故が立て続けに起こりました。医療の在り方が大きく変容し始めた時期でした。
乗竹 私が黒川先生と出会ったのもまさにその時期でした。2004年に東京大学先端科学技術研究センターの中に日本医療政策機構が寄付講座として誕生し,私は翌年から学生アルバイトとして日本医療政策機構にかかわり始め,2007年に新卒として日本医療政策機構に就職をしました。当時のスタッフは全部で5人ほど。いわばスタートアップ企業のようなものです。入職時に黒川先生から冗談めかして言われたのは,「慶應義塾大学を卒業したのにこんな小さなNPO法人に入職するなんて変わっているね。ご両親は心配していないの?」という一言です。私としては,近藤正晃ジェームスさん(現・国際文化会館理事長)や黒川先生たちと少数精鋭で議論できる環境が貴重であると思っていました。医療政策について,マルチステークホルダーがフラットに議論する場が必要と,時代を先取りして動かれた黒川先生に敬意を表したいと思います。
黒川 ありがとうございます。乗竹さんは学生時代にアメリカで過ごした経験もあり,外から日本を見られる視点を持っていました。そういう人材が機構に欲しかったんです。
乗竹 2006年には,日本医療政策機構も携わったがん対策基本法が成立し,国のがん対策を検討するがん対策推進協議会の委員に患者関係委員を含めることが明記されました。もちろん医療提供側の存在も大事ですが,さまざまなステークホルダーの合意のもと意思決定をしようとの背景があったのだと思います。また疾病構造の変化もこうした考え方に影響を与えたのでしょう。慢性疾患中心の世界となり,入院し治療して退院するというモデルだけでなく,病気と共生する考え方が広がってきたのがその頃だったと記憶しています。これも医療の在り方が大きく変わった出来事と言えるはずです。
黒川 そうですね。1999年末には医療安全の文化に一石を投じた「To Err Is Human」が発表されたことも,こうした動きを後押ししたと考えています。
永井 2006年からは3年間,内閣特別顧問としても黒川先生はご活躍されました。その間の大きな仕事はなんと言ってもG8環境大臣会合でのご講演です。また2011年には東京電力福島原子力発電所事故調査委員会の委員長も務められていましたね。このあたりのお話をお聞かせいただけますか。
黒川 2000年代後半からはグローバルヘルスの問題に目が向けられ始めた時代であり,サステイナビリティも同時に求められるようになりました。さらに原子力発電をはじめとしたエネルギー問題や,環境問題への意識が世界的に高まってきたことも背景にあります。
原発事故が起こった当時は民主党政権でした。こうした大規模な事故が起こったのはチェルノブイリに続いて3例目ですが,原子力発電に対して安全神話が唱えられてきた日本で起こったことが世界でも驚きをもって受け止められ,大騒ぎになりました。国際的なタスクフォースを組織すべきと菅直人首相(当時)に訴えたものの,国内のメンバーだけで組織されることになり,そうであれば透明性を確保するため全ての検討プロセスを公開していただきたいと具申し,英語の同時通訳を入れて世界中に公開する運びとなりました。現代はあらゆる情報が瞬時に共有され,隠し事のできない時代です。透明性こそが,失われつつあった日本の信頼回復には欠かせないと考えました。
「外」の視点が未来の日本を創る
永井 本日はさまざまなお話をありがとうございました。これまでのご経験を踏まえ,これからの教育の在り方についてのお考えを最後に伺えますか。
黒川 私が最もやりたいのは大学教育の改革です。個人的には1年間海外へ留学することを必須にしたいと思っています。行先は別にどこでも構いません。若い人にはぜひ外に出て客観的に日本を見られるようになってほしいのです。長い人生を歩む中で,1年という期間はどうってことはありません。さまざまな人や文化との交流は将来の財産になります。もうちょっと自分の可能性を信じて,挑戦してもらいたいですね。帰国した後にはそうしたつながりがきっと武器になります。
武藤 若い頃には武者修行が大事だと先生はよくおっしゃっていますよね。留学もその一環ですか?
黒川 ええ。意見が異なる人と議論することが大事です。海外に行くと「どこから来たの?」と必ず問われます。そうした時に「JAPAN!」と胸を張って,日本の魅力を伝えてきてください。そうして語り合った人が友人となり,将来の糧になっていくのです。
永井 黒川先生の経験と知見は,これからの医療を担う若い世代にとって大きな示唆を与えるものと思います。特に国際的な視野を持ち,オープンマインドで社会に貢献する姿勢は,現代の日本に必要とされている価値観ではないでしょうか。今後の日本の医療と教育の発展に向けて,今日の議論が少しでも参考になれば幸いです。

黒川 清(くろかわ・きよし)氏 東京大学 名誉教授
1936年東京都に生まれる。62年東大医学部卒業後,同大大学院医学研究科修了。同大病院などで勤務し69年に渡米。ペンシルベニア大医学部生化学助手などを経て,79年カリフォルニア大ロサンゼルス校医学部内科教授就任。83年に帰国し,東大医学部第四内科助教授を経て89年同大医学部第一内科教授。その後は東海大教授・医学部長,総合医学研究所長などを歴任する。日本学術会議会長,内閣特別顧問,WHOコミッショナー,沖縄科学技術大学院大理事,東京電力福島原子力発電所事故調査委員会委員長などの要職を務めた。1997年より現職。東海大特別栄誉教授,日本医療政策機構終身名誉チェアマン。

永井 良三(ながい・りょうぞう)氏 自治医科大学 学長
1974年東大医学部卒業。同大病院第三内科助教授,群馬大医学部第二内科教授,東京医歯大(当時)難治療疾患研究所客員教授などを経て,99年東大大学院医学系研究科内科学専攻循環器内科教授,2003年同大病院病院長,09年同院トランスレーショナルリサーチセンターセンター長を歴任。12年より現職。

武藤 真祐(むとう・しんすけ)氏 鉄祐会 理事長
1996年東大医学部卒。同大病院,三井記念病院にて循環器内科に従事後,宮内庁で侍医を務める。その後マッキンゼー・アンド・カンパニーを経て,2010年在宅医療を提供する「祐ホームクリニック」を設立。2016年,株式会社インテグリティ・ヘルスケア代表取締役会長就任。2017年,株式会社地域ヘルスケア連携基盤代表取締役会長就任。経済同友会幹事(経済・財政・金融・社会保障委員会委員長)藤田医大客員教授,日本医療政策機構副代表理事。東大大学院医学系研究科博士課程修了。早大大学院MBA,INSEAD Executive MBA,Johns Hopkins MPH, MSc。

乗竹 亮治(のりたけ・りょうじ)氏 日本医療政策機構 代表理事・事務局長
慶大総合政策学部卒。蘭アムステルダム大医療人類学修士。日本医療政策機構設立初期の2005年に参画。その後,米・医療人道支援財団で勤務し,アジア太平洋地域で被災地支援等に従事する。世界認知症審議会委員,22年度第32回武見奨励賞受賞。16年から事務局長,24年より日本医療政策機構代表理事に就任。
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