医学界新聞

連載

2015.10.12



Dialog & Diagnosis

グローバル・ヘルスの現場で活躍するClinician-Educatorと共に,実践的な診断学を学びましょう。

■第10話:「悪い空気」について②

青柳 有紀(Consultant Physician/Whangarei Hospital, Northland District Health Board, New Zealand)


前回からつづく

前回(第9話)はルワンダで出合ったマラリアの症例を題材に,診断プロセスにおける,いくつかの重要な概念について触れました。今回は,同じ症例を引き続き用いて,検査前確率(pretest probability)という概念と,その周辺について,皆さんと一緒に考えてみたいと思います。

[前回の症例のまとめ]41歳男性。主訴:嘔気・嘔吐,下痢。ルワンダ東部の軍基地に勤務し,昼夜周辺地域のパトロールを担当している。3日前から嘔気・嘔吐が出現し,引き続いて激しい下痢症状がみられるようになった。基地内の医療施設を受診し「胃腸炎」と診断されたが,症状が改善しないため,首都の軍病院に転送された。来院時のバイタルでは平熱だったが,回診時に再検すると39.1℃の発熱を認めた。既に基地内の医療施設および軍病院到着後の計2回,血液スメアが施行され,いずれもマラリア陰性という結果であったが,再度血液スメアを検査したところ陽性と診断された。

検査前確率とは

 検査前確率とは,その名の通り,ある疾患を想定して診断検査を行う前に,どれくらいその疾患の可能性があるかという確率です。例えば,ルワンダ南部の複数の医療施設で行われた研究では,この地域のてんかん患者のうち,約20%が神経囊虫症によるものであったいう報告があります1)。つまり,同地域でてんかん症状の患者に出合った場合,その原因が神経囊虫症である検査前確率は20%程度と予測することができます。

 このように,さまざまな疾患の検査前確率を考える上で参考になるデータが常に利用できれば便利なのですが,現実にはそうではありません。エビデンスは限られていますし,上記と同じ手法の研究を,例えばフィリピンや日本で実施すれば,大きく異なる結果が得られるでしょう。なぜなら,これらの国では,神経囊虫症の有病率(この文脈において,それは検査前確率と同じ意味です)がそもそも異なるからです。また,どのような医療施設における患者を研究対象とするかによっても,得られる結果は変わってくるでしょう。例えば,同じフィリピン国内でも,下水設備が十分に整った社会経済的条件が豊かな地域と,下水設備が不十分で豚食が盛んな地域では,やはり異なる結果が得られるはずです(ちなみに,神経囊虫症は豚肉の生食それ自体がリスクなのではなく,非加熱の豚肉を食べた人間の糞便に汚染された食材を経口摂取すること,すなわち不衛生がリスクとなります2))。

 現実をもっと難しくしているのが,「一人一人の患者は異なる」という厳然たる事実です。皆さんの目の前にいる患者は,一人一人違います。日本の都市部で生まれ育ち,下水設備が整っていない途上国に一度も渡航したことがないてんかん患者を前に,神経囊虫症を鑑別に挙げるのは得策ではないでしょう。なぜなら,この場合の検査前確率は限りなく低いからです。「ひづめの音を聞いたらシマウマではなく馬を考えよ」という聞き慣れた教訓は,この事実について雄弁に語っています。

 一方で,...

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