医学界新聞

連載

2015.04.06



The Genecialist Manifesto
ジェネシャリスト宣言

「ジェネラリストか,スペシャリストか」。二元論を乗り越え,“ジェネシャリスト”という新概念を提唱する。

【第22回】
三角形の表現形は多様であってよい

岩田 健太郎(神戸大学大学院教授・感染症治療学/神戸大学医学部附属病院感染症内科)


前回からつづく

 ジェネシャリストとは,横に広いジェネラリストな部分と,縦にとんがっているスペシャリストの部分,両方を併せ持つ三角形のような存在だと,第15回(第3092号)で説明している。

 ただし,三角形と言ったって,いろいろな三角形がある。横に平べったい三角形もあればロケットのような細長い三角形だってあるだろう。どちらが正しいということはない。いろいろあったほうがよい。にんげんだもの。みつを。

 冗談はさておき,ジェネラリストのよくやる議論に,ミニマム・リクワイアメントは何か,という議論がある。たいていは「自分目線」である。

 「外傷が診れない奴がジェネラリスト語んな」「子ども診ないでジェネラリスト言うな」「在宅やらないとジェネラリストとは認めん」「妊婦も診て初めて本物のジェネラリストだ」――。この手の議論は尽きない。

 問題は,だ。こうした意見は全て言いっ放しの意見表明に過ぎず,それが学的,論理的に正しいという根拠がゼロであるということである。要するに「何をもってジェネラリストと呼ぶか」に自らの定義をぶち込んでいるだけなのである。構造主義におけるシニフィアンに相応するシニフィエが恣意的であるため,「ジェネラリスト」という名称にコレスポンドするシニフィエも人それぞれってことである。また人それぞれでよいのである。にんげんだもの。みつを。

 問題は,だ。そういう言いっ放しで恣意的でまったく無根拠な言説によるイデオロギー論争が尽きないことにある。根拠がないのに信じてもいいのは宗教だけである(根拠がないと信じられない,という「神を試すような行為」を信心とは呼ばない。よって宗教は厳密に無根拠でなければならない)。

 「コモンな病気を診るのがジェネラリストだ」という意見もあるが,これも「コモン」「診る」の定義が曖昧な言いっ放しである。前立腺肥大はコモンな病気と呼べようが,TURP(経尿道的前立腺切除術)はジェネラリストに要求される「診る」の範疇に入らない(普通)。なぜ入らないか。その厳密な根拠はない。なんとなくジェネラリストの営為っぽくないと多くの人に感じられる,からである。

 乳がんもコモンな病気だが,乳房触診はジェネラリストに必要な「ミニマム・リクワイアメント」であろうか。イエス,と答えた方は,では「マンモグラフィの撮影や読影は?」と問いたい。それでもイエスと答える方は,「乳房超音波やMRIは?」と問いたい。それでもそれでもイエスと答える方は,では「ハーセプチンの投与や乳がん切除術は?」とさらに問いたい。それでもイエスと答えるあなたは,立派な乳腺外科医です。

 繰り返すが,このようなミニマム・リクワイアメントは何か,の議論に厳密な根拠はない。あるのは思い込みと,その思い込みを共有できる仲間たちとのコンセンサスだけである。そのコンセンサスを共有できない人に対し,村社会の仲間たちは「あいつらは本物のジェネラリストではない」とレッテルを貼る。構造的には宗教論争とまったく変わりない。

 プライマリ・ケアは包括的であることをしばしば要請するが,完全に網羅的に包括的であることは不可能である。セッティングの難しさもある。都会でしか遭遇しない「コモンなプロブレム」もあれば,田舎でしか遭遇しないそれもある。離島にたった一つある診療所では画像の読影を全て自分でやるのがプライマリ・ケア医として必要な技術かもしれないが,都会のど真ん中でそれをやれば不誠実な医療とも取られかねず,放射線科医の読影に助けられる「べき」かもしれない。

 国内特有の問題もあれば,海外にしかない問題もある。エボラ出血熱はシエラレオネではコモンで深刻な問題で,ほとんど全ての医療関係者(および非医療者)が取っ組み合っている問題だが,日本でエボラ出血熱に対峙するのは先鋭的なスペシャリストであろう。これらを全て体験しようと思えば,あちこちを放浪する「永遠の研修医」状態となり,そのときにはプライマリ・ケアのもう一つの大事な要素,「継続性」を犠牲にしなければならない。

 まあ,ここまで書いても食い下がってくるファンダメンタルな「ミニマム・リクワイアメントはこれだ!」論はなくならないだろう。なにしろ“宗教”なんだから。自らの正当性を信じて疑わない者を説得するツールはほとんどない。ただ,自らの正当性を疑うことがない,自己完結した人物を人は「井の中の蛙」と呼び,それは知性の放棄とほぼ同義である。前にも書いたけれど,大事なことなので繰り返し指摘しておきたい。繰り返し指摘したって原理主義者がどうこうなることは,(めったに)ないのだけれど。

 「正しい」ミニマム・リクワイアメントはどこにもない。初期研修医の経験目標なんてただのムダである。あの軽薄な制度のせいで,毎年,年度末になると「統合失調症の患者はどこだ」「ムンプスの患者はどこだ」と病気探しでウロウロするケシカラン二年目研修医どもが出現する。出現させているのは初期研修の制度設計をしている輩であり,そういう輩が「医師としてのプロフェッショナリズム」とか口にするから,極めて始末に悪い。

 「統合失調症をさらっと垣間見ました」みたいな経験目標の達成は,余計な達成感という幻想を与えるためにむしろ始末に悪く,「統合失調症は見たことないので自信がありません」というままに初期研修を修了する研修医のほうがずっとましだとぼくは思う。人生は短いようで長い(そして長いようで短い)。初期研修が終わってから,統合失調症の患者との邂逅をパッシブに待ち,そのとき謙虚に患者から学ぶ態度を養ったほうが,絶対にロングタームでは良い医師になる可能性が高い。初期研修は研修そのものが目的ではなく,良い医師になるための手段にすぎない。

 横の広がりも,縦の突っ込み方も「少しずつ足していく」もので,ワンセットでコンプリートな「リクワイアメント」などは幻想にすぎない。感染症屋は今日も「見たことも聞いたこともない菌」と遭遇し,勉強する。ガウディのサグラダ・ファミリアのように,われわれはちょっとずつ経験を足していくだけなのである。

 ひな形なんて,どこにもない。三角形でありさえすれば,それでよい。

つづく

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