医学界新聞

連載

2014.04.28

The Genecialist Manifesto
ジェネシャリスト宣言

「ジェネラリストか,スペシャリストか」。二元論を乗り越え,"ジェネシャリスト"という新概念を提唱する。

【第10回】
ジェネラリスト・パッシング

岩田 健太郎(神戸大学大学院教授・感染症治療学/神戸大学医学部附属病院感染症内科)


前回からつづく

 前回は,ジェネラリストのスペシャリストに対するルサンチマンの話をした。もちろん,たいていのジェネラリストはスペシャリストを頭から否定することはないし,「スペシャリストとの共存」を望んでいる。建前としてはそうなんだけど,でもその言葉の端々に,スペシャリストに対する「恨み節」が感じとられる。「おれは差別をするよ」と公言する差別者がまれなように,そうとは公言されないだけだ。

 で,このようなジェネラリスト・バッシングに対して,スペシャリストのほうはむしろ「パッシング」な状態である。最初から噛みついたりしないことが多い。しかしながら,「愛の反対は無関心」である。スペシャリストがジェネラリストに対して全く無関心なこと「そのもの」が,この問題が深刻であることを示唆している。

 スペシャリストのスペシャリティは数的に評価しやすく,外的にも理解しやすい傾向にある。特に,外科などスキルを示す領域は執刀数や手術の成功率といった数値評価を行いやすい。また,先端的な研究者であれば,インパクト・ファクターやサイテーション・インデックスといった数的評価が可能である。

 ジェネラリストの場合,診ている患者が多様なこともあって,そのような数的評価は比較的難しい。患者を診た数は労働量の評価にはなるが,技能の評価にはならない。いや,専門科外来のほうが,午前中80人診た,みたいに「数を稼ぐ」のはより容易である。もちろん,容易であるというのは「そうすべきだ」という意味ではないし,正直,患者を診た数で医者を評価するのはよしておいたほうがよいのだけれど。

 よいジェネラリストというのは存在する。よい音楽家やよいスポーツプレイヤーがいるのと同様に,存在する。そして,それは感得することができる。感得の仕方が数的,量的でないだけの話だ。

 でもよく考えたら,ぼくらはバイオリニストを1分間に出せる音の量で決定しているわけではない。90分間に走る量でサッカープレイヤーを評価しているわけでもない(実際にはやってるけど,そこが「キーポイント」なのではない)。よいバイオリニストや優れたサッカープレイヤーは存在し,そしてそれは質的に評価できる。見る人が見れば,わかるのである。同様に,優れたジェネラリストも,その優秀さを数値化しにくいだけで,「見ればわかる」のである。

 さらに,もっとよくよく考えてみれば,これはスペシャリストにおいても同じである。優れた外科医の手の動きは数値化しにくいが,ゴッドハンドがゴッドハンドであることを感得できるのはオペ室の中でであり,後で分析したエクセルファイルの中には「神の手」はいない。優れた外科医の所作は,ぼくのような内科医が見ていても感得できる。メッシのドリブルを誰もが感得できるように。もちろん,ぼくは外科医の素晴らしさの全てを睥睨(へいげい)できるような能力は持っていない。細かい素晴らしさ,マニアックな素晴らしさは同業者にしか感得できず,それはピア・レビュー的に共有される。だが,「メッシのドリブル」的感得にせよ,プロのマニアックな眼によるピア・レビューにせよ,スペシャリストのスペシャリストっぷりは質的に感得され,そこはとても重要である。評価のポイントにおける質量問題は,スペシャリストとジェネラリストを考える場合,あくまで「程度の問題」に過ぎない。

 普遍的だったジェネラリスト・パッシング。しかし,これからのスペシャリストは,ジェネラリストを決して無視できない。その理由は大きく2つある。

 一つ目は,地域医療の問題である。医局制度が良くも悪くも充実していたころは,地域医療は医局からの派遣事業で成り立っていた。派遣先は「関連病院」である。タコツボ的に「医局のやり方」に閉じこもっていても,そこでの医療の質が担保されていなくても,皆は困らない。「関連病院」にあるのは「私と同じ世界」だからである。「関連病院」は医局の延長線上にあり,医局と同じように振る舞うことができる。地域では大学病院のように先鋭的にある領域に特化した医療はできず,「いろいろ」診ることが要請される。しかし,そこはやっつけ仕事,「うちの医局のやり方」を踏襲しても,誰も文句は言わないのである。

 しかし,医局制度が良くも悪くも崩壊に向かい,これからはそういうやり方での地域医療は成立しなくなる。ある領域に特化したスペシャリストは,地域医療の現場で孤立する。「おれはこの病気は診れないよ」も通用しなければ,「自分の専門領域以外はやっつけ仕事」も許してもらえない。生暖かーく許してくれた「医局ワールド」はそこにはない。

 二つ目は,ちょっと皮肉な話だが,「専門領域のレベルアップ」である。医学の世界はどんどん細分化され,各領域の専門性はどんどん高まっている。20年前の医学知識と,現在の医学知識では総量にして桁違いなのである。

 専門性が高まるということは,「やっつけ仕事が難しくなる」ということであり,「他領域の勉強が難しくなる」ことでもある。かつては,食事のオーダーや疼痛管理,発熱時の抗菌薬の使い方,輸液の仕方などは「テキトー」に行われていた。いや,今も行われている。しかし,栄養の,疼痛ケアの,感染症診療の,輸液治療の専門性が高まり,「やっつけ仕事」が難しくなり,時に許されなくなってきた。自身の専門領域だけが進歩しているのではない。どの領域も進歩しているのである。

 タコが足を伸ばすように,それぞれの専門領域はどんどん伸びていく。かつては近くに見えていた「隣の脚」は遥か遠くにあって,もうその先端は見えない。では,どうすればよいか。選択肢は3つしかない。自分の専門外の周辺領域を必死に勉強するか,周辺領域の専門家にアウトソーシングするか,その両方か,である。これがジェネラリストへの第一歩となる。チーム医療の萌芽となる。

 チーム医療とは,「他者へのまなざし」である。自分の患者は,自分の専門領域だけでは手に負えないのである。少なくとも,質を担保する形では。他者へのまなざしは,ジェネラリストにも向かう。チーム医療において大切なチームメイトである。ジェネラリスト・パッシングが終焉するかどうか,そこにマルクスチックな歴史的必然性はない。しかし,ジェネラリスト・パッシングが終焉しなければ,やはり医療の明るい未来は存在しないのである。

つづく

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