医学界新聞

連載

2014.05.19

The Genecialist Manifesto
ジェネシャリスト宣言

「ジェネラリストか,スペシャリストか」。二元論を乗り越え,“ジェネシャリスト”という新概念を提唱する。

【第11回】
ジェネラリストの「無知の体系」

岩田 健太郎(神戸大学大学院教授・感染症治療学/神戸大学医学部附属病院感染症内科)


前回からつづく

 ぼくらには「知の体系」というものがある。自分の知っている世界の体系が。でも,ぼくらは「自分の知らない世界の体系」というものを知ることができない。自分の知らない世界がどのようになっているのかはわかりようがない。

 だって,それがわかってしまえば,それは自分が知っている「知の体系」に転じてしまうのだから。これは考えてみると不思議な話だ。ぼくらは自分の「知の体系」しか知らない。その外にある世界がどのような「知の体系」を持っているのかわかりようがない。にもかかわらず,ぼくらはしばしば(まるでそれを知っているかのように)「他者」を批判する。

 すでに,第9回(第3068号)で「ジェネラリスト・ルサンチマン」の話をした。ジェネラリストにはスペシャリストに対する強いルサンチマンを持つ人が多い。しかし,ジェネラリストにはスペシャリストの「知の体系」は見ることができない。それを見ることができるのは,スペシャリストだけなのだから。

 では,なぜジェネラリストは自分が知ることのできないスペシャリストの有り様を察し,それを恨みに思うことが可能なのだろうか。

 よくあるパターンは,こうだ。「あの先生はガイドライン通りに治療していない」,あるいは「あの先生はエビデンスのないことをやっている。ちゃんと勉強していないんじゃないの?」。このパターンの批判は,ジェネラリストからスペシャリストに対してよく行われる。多くは陰口として,時にあからさまに。実はぼくも,この手の批判をされたことがある。「優秀」と言われ,ガイドラインや各種のスタディーを網羅している,勉強熱心なジェネラリストほど,この手の批判をしやすいものだ。

 この批判が妥当なこともある。特に大学病院の医師に多いことだが,患者ケアのアウトカムがとっちらかっているスペシャリストがいるからだ。例えば,いろいろなデータを取ることに躍起になるスペシャリストは多い。でも,何のためにそのデータを取るのかは自分でもわかっていない。「データを取るために,データを取る」というトートロジーに陥っているのである。こういう臨床センスを疑うプラクティスに,「優秀な」ジェネラリストはイラつくのである。こういうイラつきは,よく理解できる。

 しかし,である。スペシャリストが,こういうスペシャリストばかりとは限らない。エビデンスと呼ばれるものの多くは,ランダム化比較試験の結果,得られた堅牢なアウトカムのことを言う。人によっては,ランダム化比較試験の結果,得られた堅牢なアウトカム“だけ”をエビデンスと呼ぶ。

 しかし,ランダム化比較試験に参加する患者は,非常に定型的な患者ばかりである。診断基準がはっきりしており,字を読むことができ,医師の言うことを(だいたいは)聞き,合併症はないか少なく,極端な腎不全や極端な肝不全や,極端なあれやこれやを持たない,オーディナリーな患者である。 われわれの外来に来る患者はそのようなオーディナリーな患者とは限らない。専門家外来に来るようなセレクションのかかった患者であれば,なおさらである。

 ぼくは心房細動のある患者を診療していた。とある抗凝固療法で治療していた。ぼくが外来で出しているのは,...

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