医学界新聞

連載

2011.12.12

看護のアジェンダ
 看護・医療界の"いま"を見つめ直し,読み解き,
 未来に向けたアジェンダ(検討課題)を提示します。
〈第84回〉
医療安全と医療者のセルフケア

井部俊子
聖路加看護大学学長


前回よりつづく

雨の大阪にて

 その日は低気圧が二つも日本列島に近づき大阪の街は激しい雨だった。新大阪駅から乗った小型タクシーのワイパーはリズミカルに動き,フロントガラスにたたきつけられる雨粒を払っていた。タクシーの運転手はしわしわのマスクを口に着けていた。もさもさした白髪は年齢を感じさせた。「ひどい雨になりましたね」と私は声をかけた。運転手は何か言葉を発したが声が小さく聞きとれなかった。けれど気のよさそうな人だと思った。彼の風貌に似合わず,車はかなりスピードを上げて雨の大阪を走った。講演の時間がせまっていた私は,赤信号すれすれで交差点を過ぎる少しアラアラしい運転を許容していた。

 新大阪駅から高架道を降りてしばらく行ったところで運転手は車を路肩に止めた。どうしたのかと不審に思っていると,運転手はつぶやくように「ちょっとトイレ」と言って,雨の中に出ていった。辺りはコンクリートの壁が続き人通りは少なかった。「あっそうですか」と私は努めてさりげなく好意的に答えた。彼がどこでどのように排尿したのかあえて追及しなかった。レディとして。

 数分で彼は運転席に戻った。そして,また聞き取れない声で「どうも」とか言って車を走らせた。用を足した後の彼の運転は変わった。年齢相応のスピードとなり,信号も守った。彼の年齢不相応な過激な運転は生理現象がそうさせたのだと私は推察した。会場に到着し,傘をさして出迎えてくれた友人とあいさつを交わしたため,尿意と運転スピードとの関連を聞きそびれた。

「自分を点検し,自分を守る」のが危機管理の基本

 それから2日後,東京で第6回医療の質・安全学会が開催された。私は教育講演「医療安全管理者の品格」の演者を務めた後,ランチョンセミナー「すべての医療者のための患者安全教育」の座長をした。WHO「医学生のための患者安全カリキュラム2009」が「多職種版」として改訂されたことを受け,その訳者である相馬孝博氏(東京医科大学医療安全管理学主任教授)が演者として解説する企画であった。

 カリキュラムでは,すべての多職種の卒前教育として必要な知識・技術・態度を次のように表している。

*患者をパートナーとして認める。
*「医療の経験」は改善されるべきことを認識する。
*改善を牽引する公正な文化のもとで,データ収集,エラー分析,フィードバックの重要性を理解する。
*職業人として,責任を取り説明責任を果たすことを理解する。
*リーダーシップ,紛争解決,複雑な環境下のチーム協働能力を育成する。
*倫理,正直さ,隠さないこと,共感が,すべての診療現場での希望と信頼の基礎となることを理解する。

 カリキュラムは2部構成であり,パートAは指導者向け指針,パートBはカリキュラムの指針として11のトピックが含まれる。

 トピック1は,「患者安全とは」である。中でも,「医療者のセルフケアの重要性を認識する」ことに注目したい。個人のエラーを減らすためには,(1)自分自身を知る(食べて寝て自身のケアを),(2)自分を取り巻く状況を知る,(3)自分の任務を知る,(4)準備とプラン作り,(5)チェックする仕組みを常に取り入れる,(6)「わからなかったら聞け!」とある(そういえば,わからないから聞いたら「そんなこと,大学でやらなかったのか?」と反論された,と新人ナースが嘆いていたのを思い出した)。ヒューマンエラー防止のチェックリストに挙げられている項目も重要である。それらは,病気,薬物,ストレス,アルコール,疲労,感情であり,空腹,怒り,遅れ,疲れである。自分を点検し,自分を守ることは危機管理の基本であるという。私自身,尿意と運転のスピードと危険度の関連を体験した直後であったので,身につまされた。

 「臨床現場にいる人間は,落ち着きがあって,休養十分であって,経験のある人ばかりではない」のだから,人間工学に基づいた良いデザインによってすべての状況に対応することが重要である。失敗が許されないという苛酷な条件下で活動しながらも事故件数を抑えて高いパフォーマンスを上げている組織には,(1)失敗を重視し,(2)物事を単純化せず,(3)業務に対する感性を磨き,(4)弾力性な仕組みをつくり,(5)専門家の意見,知識,技術を尊重しているという。タクシーに乗って街を眺めるだけでなく,安全運転と医療安全を関連させるとよくわかる。学ぶことは多い。

つづく

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