医学界新聞

連載

2010.09.13

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第182回

オバマが重責を託した医師(2)

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2893号よりつづく

前回のあらすじ:医療制度改革法を成立させた直後,オバマ大統領は,公的保険を管轄するCMS(註1)長官に,ドナルド・バーウィック医師を指名した。


長官就任を大歓迎した医療界,「超急性拒絶反応」の共和党

 前回も述べたように,バーウィック医師は,医療の質・患者安全改善運動のパイオニア的存在である。

 医療の質,特に,質の「計測」に関する論文を発表するようになったのは1980年代中頃であるが,やがて,研究家として論文を発表するだけでは我慢できなくなったのか,実際に,「現場」での医療の質を改善するための「運動」に邁進するようになった。1991年には,非営利シンクタンク,Institute for Healthcare Improvement を設立,以後,質改善運動の中心的存在として米医療界をリードしてきた。

 また,「患者安全(patient safety)」の向上運動についても指導的役割を果たし,米国で同運動が高まるきっかけとなった『To Err Is Human』(1999年,米科学アカデミー医療部門刊)の出版にも大きく貢献した。2004年には,医療過誤の犠牲者を減らすべく「10万人の命キャンペーン」を,そして,2007年には同キャンペーンをさらに発展させて,医療事故全般の減少をめざす「500万人の命キャンペーン」を全米で展開した。

 と,長年,医療の質改善運動において指導的役割を果たしてきただけに,バーウィックは「米医療界にあってその名を知らぬ者はない」存在となっている。彼が医療関係者の間でどれだけ尊敬されているかを示す好例が,Modern Healthcare誌「医療界でもっとも力を持つ人物10人」の「第3位」に選ばれた事実であろう。しかも,「他の著名人が,保健省長官とか上院議員とか,地位の高さや権限の大きさで選ばれたのとは違い,バーウィックは『思想の中身』の重要性で選ばれた」のだった。

 オバマがバーウィックをCMS長官に指名したことについて,医療関係者のほとんどがもろ手を挙げて歓迎した理由も,その名が医療界に知れ渡り,尊敬される存在であったからにほかならない。米医師会,米病院協会はもちろん,往々にしてこれら二医療団体と対立する米民間医療保険協会でさえもバーウィックの指名を歓迎したのである。

 しかし,医療界の好意的反応とは対照的に,バーウィックの指名は,政治的には,共和党の「超急性拒絶反応」を引き起こした。というのも,「市場原理至上主義(新自由主義)」を重んじる共和党にとって,公的保険新設や,合理的「配給制」(註2)を主張してきたバーウィックは,「極めて危険な思想の持ち主」だったからである。CMS長官職への就任は上院での承認を要件とするが,共和党は「バーウィック承認を妨害すれば,オバマの医療制度改革をも妨害できる」と,上院でバーウィックの人事をつぶす姿勢を明瞭にしたのだった。

オバマが待ち焦がれた「上医」

 バーウィックの指名直後,ある保守派サイトに,「危険思想」の持ち主であることを示す「証拠」のビデオがアップされた。「証拠」として使われたのは,2008年7月,イギリスの皆保険制度発足60周年記念式典に招かれた際の祝辞だったが,以下,その祝辞から彼の「危険思想」の中身を引用しよう(反語表現が多いことに注意されたい)。

「(イギリスのように)医療費にGDPの9%しか使わずに国民が医療にアクセスする権利を保証する代わりに,(アメリカのように)医療費にGDPの17%も使いながら,国民が医療にアクセスする権利を保障しないというやり方もあります。……市場の『見えざる手』に委ねることで,本来政治家たちに課されている説明責任をあいまいにするだけでなく,消失させてしまうことさえできるのです。……私企業が支配する暗黒の下で,誰も説明責任を負おうとしないシステムに委ねてしまうこともできるのです」

「病者ほど貧しい傾向があり,貧しい人々ほど健康を損なわれている事実を直視しようとせずに,お金のある人や健常者のみを保護することも可能です。けれども,公平かつ文明的かつ人道的な医療費のシステムは,富める人から貧しい人・不運な人へと富を再分配するシステムでなければなりません。優れた医療制度は,『医療制度』という名を使う限り,富を再分配する制度でなければならないのです」

 以上,バーウィックの主張は,非常に理にかなった内容としか聞こえないのであるが,米国では,例えば「富の再配分」と言った途端に,保守派から「社会主義者」のレッテルを貼られてしまう厳しい現実があり,上院での承認プロセスがスムーズには進まない事態が危惧されたのだった。

 こういった状況に対して,オバマは,7月7日,「休会中指名」(註3)という「裏技」を使うことでバーウィックを強引にCMS長官に就任させた。共和党が激怒したのは言うまでもないが,オバマにとって,医療制度改革は政権の最優先課題であったし,重要人事を政争の具とされる事態は何としても避けたかったからにほかならない。「国を癒す」という重責を託した「上医」バーウィックに,一日も早くその名医の技を振るってもらいたかったのである。

この項おわり

註1:Centers for Medicare and Medicaid Services の略
註2:保守派の「配給制嫌い」とは裏腹に,市場原理の下で,「価格に基づく医療の配給」によって低所得者・弱者のアクセスが妨げられている事実については,拙著『市場原理が医療を亡ぼす』(医学書院刊)に詳述した。
註3:議会休会中に,「緊急処置」として上院での承認プロセスをバイパスして人事を断行することが制度上認められている。バーウィック就任時,議会は独立記念日休暇で休会中だった。

開く

医学書院IDの登録設定により、
更新通知をメールで受け取れます。

医学界新聞公式SNS

  • Facebook