遺伝子診断ビジネスの「幻想」(李啓充)
連載
2010.09.27
〔連載〕続 アメリカ医療の光と影 第183回
遺伝子診断ビジネスの「幻想」
李 啓充 医師/作家(在ボストン)(2895号よりつづく)
ドラッグストア・チェーンでの遺伝子診断販売計画
パスウェイ・ジェノミック社が消費者向け遺伝子診断キットをドラッグストアチェーン大手,ウォルグリーン社の店頭で販売すると発表したのは,2010年5月のことだった。もっとも,「診断キット」とは言っても,店頭で販売されるのは20-30ドルの唾液採取容器のみ。診断結果を得るためには,サンプルを郵送した上,79-249ドルの別料金を払わなければならないという仕組みだった。
ここ数年,米国では,消費者を直接ターゲットとして遺伝子診断を行う企業が続々と登場したが,ここまでのビジネスの主流は「オンライン販売」。大規模店頭販売を試みるのはパスウェイ社が初めてであったし,いきなり高額(200-1000ドル)の「診断パック」を売りつけるのではなく,採取容器のみを低価格で販売するという「商法」の巧みさが話題を呼んだのだった。
ウォルグリーン社がパスウェイ社との提携を決めたのも「これは商売になる」と踏んだからにほかならないが,米国には,なぜ,消費者をターゲットとした遺伝子診断がビジネスとして成立する素地があるのだろうか?
「最大の要因はその国民性」と私はにらんでいるが,米国民は,カウボーイ精神の伝統もあって「自分の命は自分で守る」という意識が非常に高い。拳銃規制を嫌う向きも,伝統医療を嫌い代替医療を好む向きも,「(お上や医者任せにせず)自分の命は自分で守る」という発想がその根っこにあるのは共通している。そういった人々にとって「自分の遺伝リスクを知ることで将来起こり得る病気に対し前もって備える」という論理はすんなりと受け入れやすい。「最新の技術を消費者自らが活用することで自分自身の健康管理に役立てる。技術の進歩を『患者のオートノミー(自律性)』向上に役立てる」とする,「幻想」がふりまかれているのである(私が「幻想」と呼ぶ根拠は後述する)。
例えば,2009年には,インターネット検索エンジンで知られるグーグルの創始者,セルゲイ・ブリン(当時35歳)が,「パーキンソン病のリスクが高い」と自らの遺伝子診断結果を公表,遺伝子診断ビジネスの知名度を高めると同時に,自らの遺伝子を解析することで,将来起こり得る病気に対して備える「実例」を示し,メディアに注目された。しかし,ブリンが使った遺伝子診断会社「23andMe」はグーグルが出資して設立された企業であったし,社長はブリンの妻。自らの診断結果を公表することに「ビジネス上の大きなメリット」が存在したのも事実だったのである(註)。
一方,パスウェイ社の店頭販売プランに対し,素早く「待った」をかけたのがFDA。「遺伝子診断キットは許認可の対象となる『医療器具』である可能性が高いので,認可を受けずに販売するのは違法」と,パスウェイ社に対し,即座に警告状を送りつけた。薬品の副作用対策などではしばしば「腰の重さ」が批判されるFDAが,すぐさま「待った」をかけたのである。強硬な姿勢にたじろいだのか,ウォルグリーン社とパスウェイ社は,「店頭販売」計画発表の翌日,販売の「無期延期」を決定した。
「おとり」調査で明らかとなった遺伝子診断ビジネスの実態
パスウェイ社騒動から2か月あまりが経った7月22日,米下院で遺伝子診断ビジネスの現状をめぐって公聴会が開催された。冒頭,証言に立った会計検査院・特別捜査部門主任,グレゴリー・クッツが,遺伝子診断ビジネスを対象とした「おとり」調査の結果を詳細に報告したので,以下に紹介する。
調査の方法は極めてシンプル。遺伝子診断企業4社に,10人のサンプルを送りつけ,その診断結果を企業間で比較したのである。さらに,5人については,同一サンプルに,年齢・人種・既往症を「正直」に添付した検体と,「架空」の年齢・人種・既往症を添付した検体とを「二重」に作成,同一サンプル間での診断結果をも比較した。
さて,その結果であるが,例えば,48歳男性からの同一サンプルについて,「将来前立腺癌になるリスク」は「平均」,「平均を下回る」,「平均を上回る」と,企業間の診断は見事に三分された(このサンプルについては,「高血圧発症リスク」についても,診断が三分された)。さらに,企業間での検査結果の食い違いに加えて,以下のような「困った」結果が報告された。
*リスク予測が,個人の既往歴・家族歴と矛盾した(例:既に心疾患を患っているのに,診断は「低リスク」)。
*人種によってはデータが乏しく「解析不能」であるのに,その技術的限界を事前には知らせていなかった。
*同一サンプルでも診断が食い違う企業があった。
*広告では診断結果についての「アドバイス・サービス」が謳われていたにもかかわらず,「専門家」がアドバイスを提供する企業はなかった。
換言すると,遺伝子診断ビジネスは,いまのところ,「患者のオートノミーを向上させる」どころか,「消費者を混乱させる」結果しかもたらしていない実態が明瞭に示されたのである。
遺伝子解析技術が格段に進歩したとはいっても,そのレベルは,各種疾患発生率を正確に予測する域には到底達していない。「黙って唾液を送ればぴたりと当たる」というのは「幻想」にしか過ぎないのである。
(つづく)
註:『タイム』誌は,23andMe社のDNA診断キットを「Best Invention of 2008」に選定したが,メディアが「新技術」を軽率に賞賛する傾向に彼我の差はないようである。
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