医学界新聞

連載

2009.02.16

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第145回

有保険患者を待つ落とし穴「差額請求」(1)

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2816号よりつづく

 1月初め,私は保険会社から次のような内容の通知を受け取った。
1)2009年1月1日以降,ネットワーク外の医療者に対する支払いは,医療者からの請求額ではなく,保険会社が定めるところの価格表(usual and customary fee schedule:通常かつ慣習的価格)に基づいて行う。もし,医療者からの請求額がこの価格表の価格を上回った場合,差額を支払う責任は被保険者にある。
2)被保険者がネットワーク内の病院でネットワーク外の放射線・麻酔・病理医のサービスを受けた場合は,これまで通り医師からの請求額に基づいて保険給付額を算定する。算定された額を直接被保険者に支払うので,医師に対する支払いは被保険者が責任を持つこと。

無保険者と変わらない境遇に陥る有保険者が急増

 日本の読者にとって,まったく「意味不明」の通知であろうことは容易に推察されるが,実は,米国の患者でも,この通知の意味を理解できる人はほとんどいないのが現実だ。いったい,保険会社が,なぜ,誰も理解できないような通知をわざわざ加入者全員に送りつけるのかというと,いま,米国では,有保険患者を待つ落とし穴,「差額請求(balance billing)」が大問題となっているからである。以下,読者の理解を助けるために症例を提示する。

メアリー・ジェローム,64歳,女性
 名門コロンビア大学の英文学部教官,ジェロームが進行期の卵巣癌と診断されたのは2006年7月のことだった。メモリアル・スローン・ケタリング癌センターで治療を受けることに決めたのは,主治医が勧めたこともあったが,「最高レベル」の治療を受けたいからに他ならなかった(註1)。同センターは,ジェロームが加入する保険のネットワークには入っていなかったが,3000ドルのデダクティブル(註2)を払った後は診療費の70%が保険でカバーされるはずだった。

 しかし,ジェロームが驚いたことに,保険はほとんど助けにならなかった。というのも,保険会社は,医師や病院からの請求額を全額は認めないからだった。例えば,化学療法についてスローン・ケタリングが3000ドルを請求したとしても,保険会社は「通常かつ慣習的価格」の1500ドルしか認めず,そのうちの7割,1050ドルしかカバーしないために,差額の1950ドルが自己負担となるのだった(ネットワークに所属している医療施設が保険会社の価格表どおりの支払いしか受けられないのは契約だから仕方ないが,ネットワーク外の医療施設はもともと保険会社と契約していないのだから,その価格表に従わなければならない理由など何もないのである)。診療を受ける度に,同センターの請求額と保険会社の支払い額の差(balance)がジェロームに請求されることが繰り返された結果,同センターに対するジェロームの負債額は,あっというまに,4万6000ドルにふくれ上がった。

 以上が,いま,米国医療界で大問題となっている「差額請求」の実例であるが,サービス供給側の請求額と保険会社の支払額の差が患者負担となるせいで,ネットワーク外で医療を受けた場合,保険に加入しているとはいっても,無保険者と変わらないような境遇に陥る事例が急増しているのである。私が保険会社から受け取った通知の第一項は,「差額請求の支払い責任は患者にある(自分たちは知らない)」という原則を被保険者に念押ししたものに他ならないが,要は,「ネットワーク外で治療を受けたあと無保険者と変わらない境遇に陥っても文句を言うな」と言っているのである。

ネットワーク内の医療施設にネットワーク外の医師

 上述したジェロームの例の場合,患者はネットワーク外での治療を受けることをあらかじめ承知していたが,差額請求の問題が深刻なのは,「ネットワーク内で診療を受けた」と信じ込んでいた患者が後になって「お前はネットワーク外で診療を受けたから,差額を支払え」と言われて,ビックリ仰天する事例が跡を絶たないからである。例えば,私が受け取った通知の第二項では,特に「ネットワーク内の病院で働く,ネットワーク外の放射線・麻酔・病理医」について言及しているが,最近は,ネットワーク内の医療施設で働く医師がネットワークに所属していないことが多いから患者にとっては油断がならない(註3)。通知では「放射線・麻酔・病理」の三診療科が特定して言及されているが,その理由は,これら三科の医師に対する保険会社の支払いがとりわけ渋いことには定評があり,「保険会社と契約すると格安の価格表を押しつけられるので食っていけない」と,ネットワーク外での「自由診療」を選択する医師が増えているからに他ならない。「ネットワーク内の病院だから安心」と手術を受けた患者が,退院後,放射線・麻酔・病理の医師たちから「差額」の請求書を送りつけられて初めて,自分の診療にかかわった医師たちが「ネットワーク外」であったことを知り,驚愕することになるのである。

この項つづく

註1:US News and World Reports誌の病院ランキングで,メモリアル・スローン・ケタリング癌センターとテキサスのM.D.アンダーソン癌センターが毎年癌部門第1位の座を争っていることは,第140回でも触れたとおりである。
註2:被保険者が一定額を負担した後にはじめて保険給付が始まる仕組み(第144回参照のこと)。
註3:米国の病院に入院した場合,患者は病院(hospital fee)だけでなく,診療に関わった医師全員にも別途診療費を支払う(doctors' fee)。

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