世界医師会ヘルシンキ宣言の2024年改訂
寄稿 井上悠輔
2024.12.10 医学界新聞:第3568号より
本年10月,世界医師会のヘルシンキ宣言が改訂された。正式名に「人の参加を伴う医学研究のための倫理原則」とあるように,研究において配慮すべき事項がまとめられている。1964年の採択時は十数項目の簡素なものであったが,検討範囲の拡大を背景として改訂ごとに長くなり,現在は37のパラグラフより構成される(以降,括弧内はパラグラフ番号)。前文と原則では,研究参加者の健康と権利を保護する役割は医師・研究者の側にあること(4, 9),医学の進歩には人を対象とする研究が不可欠であること(5),研究者は倫理・科学両面での資質を備えていること(12)などが示されている。続く各論では,計画の事前評価や同意取得など,日本でもよく知られる内容が含まれている。一方,研究の恩恵へのアクセスやプラセボ試験を巡る記載など,解釈を巡って論争が続く文章でもある。
◆主な改訂のポイント
前回の改訂から10年余りが経過し,医学研究もさまざまな課題に直面してきた。筆者が特に注目する改訂ポイントは以下のとおりである。
1)被験者から「参加者」へ:これまでの「被験者」(human subject)の表記が「参加者」(participants)に変更された(1)。参加する人の主体性や役割に注目した変更とされる。
2)緊急事態でも原則は大事:公衆衛生上の緊急事態においても,この宣言の諸原則は重要であり続けるとする記載が加えられた(8)。コロナ禍で展開した一部の研究への懸念を受けた加筆とされる。
3)研究に伴う不平等への警戒:研究参加者は,一種のボランティアとしてリスクを引き受けることになる。誰が参加し,害はどこまで許容されるのか。参加者も恩恵を得る手立てはないか。研究には,こうした害と恩恵の非対称性を巡る課題が伴う。今回の改訂で,研究に絡む「構造的な不平等」(structural inequities)への対応を求める記載が加わった。研究者は,特定の人々に過度の負担がかからないよう,適切な負担配置と恩恵の再配分を考えることが求められる(6)。
4)弱者の「保護」とは:参加者の保護は,より多くの配慮を要する人々(弱者)を対象とした研究の際に特に課題となる(例:判断能力,立場の弱さなど)。今回の改訂では,「弱さ」にも多様な側面があり,固定的な基準のみではなく,個人が属する集団や構造的な弱さにも注目すべきとされた(19)。研究者は,強引な組み入れの害への懸念と,「保護」の名の下に研究から過度に遠ざける害の両面に注意が必要である。
5)研究に参加する側の視点を知る:参加者側の希望や価値観を計画立案や配慮に生かすため,研究者には参加者やそのコミュニティの人々による「意味のある関与」の企画と実践が求められる(6)。
6)医学研究の情報・試料リソースの確保と管理:AI研究やバイオバンクなど,人に由来する情報や試料の蓄積を生かした研究が増加している。本人意思の尊重に加え,個人再識別への警戒など,必要な配慮がより詳細に設定された。また,倫理審査の役割明確化,同じく世界医師会による「台北宣言」(ヘルスデータベースとバイオバンクについての倫理的考察に関する世界医師会の台北宣言,2016年)の遵守など,運営体制に関する記載も追記された(32)。
7)未確立医療に関する要件の精緻化:従来の記載(専門家の助言や他に有効な手段がない場合に限るなど)に加え,既存の臨床試験への影響回避など,要件が改めて整理された(37)。
このほか,チームや関連組織の主体的役割(2),倫理審査委員会の運営体制の充実(23),生態系・環境への負荷軽減(11)に関する記載も増えた。
◆宣言を巡る議論にも注目を
宣言の改訂は国際的にも医学界の注目の話題であり,これを機に一読をお勧めする。ただ,今回が8回目の主要な改訂であることにも表れているように,とらえどころの難しい文章でもある。それぞれの内容が理念を示したものか,クリアすべき要件を示したものか,このことにも多様な受け止めがある。「ヘルシンキ宣言に則り」という言葉は一種の枕詞となっているが,研究倫理を考える出発点として,宣言を巡る議論の展開にも関心を持っていただきたい。
参考文献・URL
井上 悠輔(いのうえ・ゆうすけ)氏 京都大学医学研究科・社会健康医学系専攻(医療倫理学)教授
2001年京大文学部卒。10年同大大学院医学研究科博士課程修了。博士(社会健康医学)。東大医科学研究所准教授,ウプサラ大客員研究員等を経て,24年より現職。編著に『医学研究・臨床試験の倫理 わが国の事例に学ぶ』(日本評論社)など。
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