健康と自殺から考える予防的介入
対談・座談会 玉手慎太郎,末木新
2024.08.13 医学界新聞(通常号):第3564号より
平常時からの「予防的なかかわり」が前提とされる点で共通する,公衆衛生と自殺。個人の自由の尊重を基本的な価値とみなす現代社会において,予防的介入が無制限に許容されることはない。本紙では,公衆衛生倫理を専門とする倫理学者の玉手氏,自殺や自殺予防を専門に研究する心理学者の末木氏による対談を企画。ヘルスケアや自殺を考える際に生じる葛藤やもやもや感について,広く議論した。
末木 私は臨床心理学を専門に,自殺や自殺予防を中心とした研究を行っています。主軸は自殺予防におけるインターネット関連技術の活用にあり,NPO法人OVA(オーヴァ)の行っているインターネット・ゲートキーパーという検索連動型広告1)を用いた自殺の危機介入にかかわっています。そうした研究・実践を通して,より良い危機介入の在り方を模索しているところです。
玉手 私はもともとは経済思想や政治思想を勉強していて,博士号を取得した後,縁があって7年ほど東京大学の医療倫理学教室でお世話になりました。その頃から公衆衛生倫理の領域に携わるようになり,22年の末に『公衆衛生の倫理学――国家は健康にどこまで介入すべきか』(筑摩書房)2)を上梓したことから,その内容について医学界新聞でインタビュー3)を受けました。自殺も公衆衛生倫理も比較的ニッチな領域ではありますが,両者をクロスさせて考えることで,新たな展望を得られればと思います。
時代や地域によって変わる自殺への価値観
末木 自殺の研究は心理学のフィールドであまりメジャーではありません。1998年の自殺者数急増,2006年の自殺対策基本法成立を受けて自殺に関する研究に関心が集まったことは確かですが,研究・実践の面で中心的な役割を担ってきたのは心理学者ではなく,地域精神保健に携わる方々でした。
玉手 そうした研究・実践において,自殺予防はどう扱われてきたのでしょうか。
末木 基本的には自殺を防ぐことを念頭に置いてあらゆる研究・実践が行われてきたと言っても過言ではないと思います。自殺を予防するにはどうすればいいのか,との観点が常にベースにあるのです。先に述べた自殺対策基本法は,国および地方公共団体が自殺対策を策定・実施する責務を有することを定めていますし,国民に対しては「生きることの包括的な支援としての自殺対策の重要性に関する理解と関心を深めるよう努めるものとする」としています。しかし,自殺は予防すべきだ・予防しなければならないとの考え方は人類の歴史において普遍的なものではなく,地域や時代によって大きく異なります。
玉手 自殺予防は所与の前提,自明の正義ではないということですね。
末木 はい。世界的に自殺対策への関心が高まったのは1990年代で,自殺対策国家戦略モデル作成のためのWHO専門家会議が開催されたのは96年です。予防の対象とされる以前のキリスト教圏では,自殺は犯罪同然の罪深い行為とされていましたし,日本では江戸時代に近松門左衛門による浄瑠璃『曽根崎心中』の影響で恋愛心中が増加した際に心中禁止令が出され,心中既遂者の遺体や未遂者に対して処罰が行われました。しかし,さらにさかのぼると,ローマ帝国の国教とされる以前の初期キリスト教においては,自殺を罪とし罰を与えることはありませんでした。こうして簡単に過去を振り返るだけでも,自殺予防に対する考え方に時間的・地域的普遍性がないことはおわかりいただけると思います。数百年~数千年後の人類社会においても自殺が予防すべきものと考えられている保証は全くないわけです。こうしたことから,「自殺はそもそも予防すべきなのか?」との問いを,常に持ち続けています。
生命の公共化と,拭いきれない違和感
玉手 ちょうど今,担当するゼミでジョン・ロック(註1)の著作を読んでいるのですが,古典的リベラリズムにおいては個人の領域と国家の領域がはっきりと分けて考えられていたことがよくわかります。ロックは個人が不幸になることに待ったをかけるのは国家の役割ではないと明言しているのです。いわゆる公私二分論で,現代にもつながる考え方のはずですが,歴史上どこかの段階で公私を二分できない部分が生じたのだと思われます。自殺が私的問題から公的問題とされるようになったことに見られるように,われわれの生命がいわば公共化していると言っていいかもしれません。
末木 生命の公共化ですか。言われてみると,そうなのかもしれません。
玉手 昔であれば,たばこを吸って結果的に肺がんになろうがそれはその人の勝手であり,他人の知るところではなかったわけです。それがいつの間にか,予防可能ながんによる経済的負担を減らすために適切な予防策を……といった方向で,公共の問題として扱われるようになりました。その基底にあるのは,われわれの身体は国家の資産,資源であり,労働力および生殖を行う再生産力として国家管理の対象とするという,フーコーの指摘した近代社会の在り方です。もちろん私的領域には外部から口出しできない,という状況はある種の抑圧の温床としての側面を持つため,公共化が総じて問題かと言うとそうではありません。例えば家庭内における女性の抑圧を公共の問題としたフェミニズムによる公私二元論批判(註2)は,適切な指摘であったと考えます。
末木 自殺に関しても,予防を促進するためのロジックを構築してきた歴史があります。自殺直前の人間の心理状況を異常/病的なものとして,合理的な判断を下せる状態ではないから予防するといった方向の議論は随分昔から存在します。最近では,自殺者は社会的な構造によって追い込まれているのだから予防の必要があるといったロジックも目につきます。予防が大切だということ自体に異論はないものの,本当にそれでいいのか,予防に傾きすぎているのではとのもやもやを抱えています。
玉手 ヘルスプロモーションの基本もやはり予防です。しかし,国家による健康への予防的な介入が無制限に許されると考える人はほとんどいないでしょう。本人の利益になることを相手の同意なしに強制することをパターナリズムと呼びますが,無制限のパターナリズムは許容されません。日本国憲法には国民が基本的人権を有することが記されており,個々人の感覚としても個人の自由が尊重されるべきだとの考えを多くの人が持っているものと思われます。リベラリズムが基本OSとしてインストールされているような状態です。だからこそ,個人の自由を制限する予防的な介入に対して,どこか引っ掛かる感覚や気持ち悪さを抱くのではないでしょうか。
致命的な局面ではクリシェでしゃべれなくなる
末木 気持ち悪さに関連した話題なのですが,最近は生成AIを相談事業にどこまで活用して良いのかについて考えることが増えました。「いのちの電話」の類の相談事業は,日本では1970年代から存在します。もとは死にたいと言っている人の話を聞こうというスタンスで宗教関係の方々が始めたもので,ボランティアによる草の根運動のような形でした。それが今では,一般への認知が広がるにしたがって相談件数が増加し,なかなか電話がつながらない状態が恒常化しています。共働き世帯が増えて時間的余裕のある人が少なくなった影響などもあり,ボランティアの担い手も少なくなっているのです。
そうした状況があるため,生成AIを用いた相談事業の運営が現実味を帯びてきています。相談相手が生身の人間ではなくAIであったとしても,いつまでもつながらないよりはよっぽど良いのでは,との考えが私の根底にあります。しかし,技術的に可能であったとして,現実に実施してしまっていいのかどうか,倫理的な部分での判断がつかず,先に進めていません。自治体も事業者も,足踏みしているのが現状です。
玉手 実務的なところでは,AIであることを隠して詐欺的に運用するのは論外で,AIの人格性をどう公開するのか,責任の所在をどう設定するのかをまず考える必要がありそうです。その上で,返答に用いる語の限定や,発言内容の制限,また人命がかかっている以上,失敗事例を生まないための強固な安全策の構築など,箇条書きのチェックリストを作るのがよくある対策です。
そもそもの話として,AIによる相談に正の効果はありそうなのでしょうか。
末木 事業を行ってから効果の検証を科学的に行うことは大前提ですが,個人的な予想としては,効果はある気がしています。私,ChatGPTに質問を投げるとき,ついつい丁寧語を使ってしまうんです。どことなく人らしさをAIに対して感じているのでしょうね。ですからAIから送られてきた文面だとわかっていても,利用者が救われる部分はあるのではないでしょうか。死にたくなる理由は複雑ですが,人とのつながりがないことが大きなファクターとして挙げられます。とりあえず人らしい何かから返答がくることの意味は,少なくないと考えます。
玉手 なるほど。AIによる相談事業について考えていて,『急に具合が悪くなる』(晶文社)4)という書籍を思い出しました。「病」をめぐる人類学者と哲学者の往復書簡なのですが,やり取りを重ねる間に哲学者が患っていたがんが悪化してしまいます。亡くなる最期の段階まで続いた,ぎりぎりの対話が掲載されています。その中で興味深かったのが,親しい人に致命的なことが起こるとクリシェ(註3)ではしゃべれなくなるという議論です。私たちは日常的には定型句によってコミュニケーションをとっています。風邪を引いたと聞けば,「お大事に」「ゆっくり休んでね」と返すという形で。一方で,余命数か月と宣告された人に対して「お大事に」とは言えないですよね。借り物の言葉でしゃべることが難しくなる瞬間が確かにある。それはおそらく人の魂と魂が接近する瞬間で,そのときに自分の言葉を紡いでしゃべるからこそ信頼関係を構築できるのだと思います。相手にかける言葉を真剣に考えるのは大変な作業です。定型句はそうした大変さをスキップして,コミュニケーションを円滑化しているのです。
ChatGPT等の生成AIは,ある種のクリシェの集合体ですよね。人々が日々用いている言葉を集積しているわけですから。そうであるからこそ,会話も上手なのです。しかし果たして,自殺を考えている人と対峙するに当たって,クリシェによる会話を提供するだけでいいのか,という疑問が一つのポイントになる気がしています。定型句で話しかけていい問題なのか。それが根源的な問いとしてあるのではないでしょうか。
もやもや感を手放さない
末木 心理職の行うカウンセリングには,ある種のパターンが存在します。自殺対策であれば生きる方向に動機づけるなど,セラピスト側が誘導したい特定の方向づけを行う会話のテクニックです。そういう意味では定型句も用いながら会話を行っているわけで,それをAIに置き換えるという発想です。
玉手 そもそもが相談事業と言えど,クリシェで会話している部分があると。
末木 ええ。相談をさばき切れないためにいつまでも電話がつながらないデメリットと,AIを用いる気持ち悪さやデメリット,それらを天秤にかけたときに,AIでもいいからつながるほうがまだましなのではと思ってしまう部分があります。
玉手 目の前に困っている人がいるから実行するしかないのでは,と言われると,根源的議論はたいてい道を譲ります。相談電話をかけてくるような人は周りに相談できる相手がいなくて最後の手段に近い位置付けで連絡してくるわけですから,本来であれば一人の血の通った人間による人格的対応が望ましい。しかし,人的・時間的リソースが圧倒的に足りていないから,AIによる対応に踏み切る。その時,何か亀裂を跳び越えてしまっているような気がします。現に困っている人が存在するのだから,跳ぶしかない。しかし同時に,本来跳んではいけないところを跳んでしまっているとの感覚もあるのです。
末木 私も玉手先生も必要に迫られれば最終的には跳んでしまうのでしょうけれど,そこには葛藤やためらいがあります。亀裂をえいやと跳び越えるために,あれこれロジックを組み立ててしまうのかもしれません。
玉手 私が個人の自由を侵害するような公衆衛生政策について考えているときにも,必要があれば実施に反対はしないけど,同時に忸怩たる思いを抱えているようなところがあります。葛藤を抱えて生きると言うと陳腐な話にも思えますが,その葛藤を持つこと自体が大事なのではと考えています。
末木 もやもやした気持ちを抱えていることが,オルダス・ハクスリーが描いたようなディストピア(註4)の到来を防ぐ側面があるのではないでしょうか。効率的なのだからAI相談に切り替えればいいではないかと何の躊躇もなく突き進んだ先にある世界を思うと,恐ろしいです。
玉手 一方で,そうしたもやもやに価値を見いださないという考え方もあります。もやもや感は合理性に対するノイズ,ブレーキなので削るほうが望ましいという思考です。功利主義ベースで考えるとそうした結論に行き着きやすいです。コロナ禍では明確なガイドラインが存在しないために,現場の医師が目の前の患者さんに関する判断を一手に引き受けることでバーンアウトの問題が生じました。そうしたとき,自分で決めなくて済むようにしてくれるガイドラインが存在すると確かに医師の負担は減じます。しかし,そうした葛藤を医師が手放してはいけないのではないかとの声も聞かれました。
末木 もやもや感を保持しておくためにも,政策評価を有効性とコストベネフィット分析のみによって行うのではなく,それらを評価項目の一つとして,一つひとつの政策を総合的に検討する必要があるのかもしれません。
玉手 そもそも有効性の評価すら満足にできていないのが現状ではとも思います。先は長いですが,跳ぶときは跳ぶ一方で葛藤も抱えつつ,地道に前進していきたいです。
*
玉手 本日はあまりお話しできませんでしたが,自殺が良いのか悪いのかという議論自体も興味深いです。自分が納得したタイミングで人生を終わらせることは不老不死よりも良いという考え方が末木先生のご著書の中で紹介されていますが,そこには強い個人主義を感じました。自分の人生としては終わりにしたいけれど,他の人のために生きなければという状況はいくらか想定できますから。
末木 自殺の悪さの成分の一つとして,他者への負の影響が挙げられます。逆に言うと,周囲の人たちを納得させてから実行に移すのであれば,負の影響は幾分緩和されます。
玉手 だとすると,周囲を納得させようと働きかけているうちに,それならば他者とともに生きていけばいいのでは,という気持ちが湧き上がってきそうですね。
末木 おそらく結果として予防的に働くのではないでしょうか。だからこそ,苦しくなったときに性急に事を進めるのではなく,一呼吸置いて,ゆっくり時間をかけて考えられる社会環境を作っておく必要があると,ありきたりではありますが,考えている次第です。
(了)
註1:英国の哲学者(1632-1704)。国家は国民の所有権の調整・保護のために存在するとし,個人の自由を国家が侵害しないことを主張した。
註2:第二波フェミニズムは,家族関係の在り方など「私的」とみなされていたものを,社会構造に埋め込まれた「公的」なものと認識することを促した。「個人的なことは政治的なこと」というスローガンが有名。
註3:ありきたりな決まり文句,常套句,陳腐な表現を指す。
註4:オルダス・ハクスリー著『すばらしい新世界』は,テクノロジーの発達と管理統制による繁栄を享受する人間が自らの尊厳を見失うさまを描いたディストピア小説。
参考文献・URL
1)末木新.インターネット・ゲートキーパー事業から生み出された研究の概要について.2022.
2)玉手慎太郎.公衆衛生の倫理学――国家は健康にどこまで介入すべきか.筑摩書房;2022.
3)玉手慎太郎.公衆衛生倫理の問題系を知る――有効な政策と自由の尊重の間で.2023.
4)宮野真生子,磯野真穂.急に具合が悪くなる.晶文社;2019.
玉手 慎太郎(たまて・しんたろう)氏 学習院大学法学部政治学科 教授
2014年東北大大学院経済学研究科博士後期課程修了。博士(経済学)。東大大学院医学系研究科生命医療倫理教育研究センター特任研究員等を経て,21年より現職。近著に『公衆衛生の倫理学――国家は健康にどこまで介入すべきか』(筑摩書房),『ジョン・ロールズ――誰もが「生きづらくない社会」へ』(講談社)。
末木 新(すえき・はじめ)氏 和光大学現代人間学部心理教育学科 教授
2012年東大大学院教育学研究科臨床心理学コース博士課程修了。博士(教育学)。12年和光大現代人間学部心理教育学科講師等を経て,21年より現職。公認心理師,臨床心理士。主著に『自殺学入門――幸せな生と死とは何か』(金剛出版),『「死にたい」と言われたら――自殺の心理学』(筑摩書房)など。
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