研究という営みを再考する
対談・座談会 西村ユミ,小熊英二
2024.07.09 医学界新聞(通常号):第3563号より
看護師を含む医療職は,臨床で働きながら研究者として論文を書くことを求められることが少なくないです。一方で,論文とは何か,引いては研究とはどういった営みなのかについてクリアな見通しを持たないまま研究に勤しんでいる方も少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。小熊英二著『基礎からわかる論文の書き方』(講談社)1)は,実際的な論文の書き方にとどまらず,研究とは何か,学問とは何かを明快に伝える好著です。本紙では,長く看護研究に従事しながら多くの学生の研究指導を行ってきた西村氏と小熊氏による対談を企画。学問という営みを鳥瞰的に眺めることで,研究に臨む医療者が自身の立つ場所を改めて確認できる内容をめざしました。
小熊 私はさまざまな種類の研究をしてきましたが,基本的には社会というものを考えてきました。「日本人」とされる人々が集団的に存在するのかどうか,存在するとして,彼らは一体どんな集合的な意識を持っていたのかといった事柄です。
西村 私は学部を卒業してから2年間臨床で看護師として働いて,大学で助手をしてから修士,博士課程へと進みました。修士課程では生理学的な研究を行っていましたが,博士課程では生理学から看護学に戻ってきて,人文学の知識を取り込みながら,臨床で起きている物事について考える方向にシフトしていった次第です。
まず何かしらの前提を置くのが学問
小熊 本日の対談は,西村さんへの問いから始めたいと思っているのですが,よろしいですか。
西村 ええ。お願いします。
小熊 命って,存在するのでしょうか。
西村 ……難しい問いですね。しかし,存在するとは思います。
小熊 では,命は科学的に観測できるでしょうか。
西村 それは難しいのではないでしょうか。
小熊 なぜですか。
西村 命を何かであると仮定すれば観測可能です。生物の行動等,観測できる側面はたくさんありますから。けれども,行動や代謝,応答などは命そのものとは言えません。
小熊 そうですね。命は観測できない。しかし,あるということを前提にしないと,さまざまな事象が説明できない。そういうものだと私は考えています。
西村 看護学や医学は,命があることを前提にしないと取り組めません。治療の最終目標は命を救うことですから。
小熊 そこが看護学,医学の面白いところだと思います。経験的には観測できないことを前提にしないと成り立たない学問なのです。しかし私が考えるに,現実世界を扱うあらゆる学問は,同様に観測できない前提を置いているのです。
西村 小熊さんが専門とする社会学もそうなのですか。
小熊 ええ。社会そのものは観測できません。人々の行動のある側面は観測できるけれども,それがイコール社会ということにはならない。
西村 では,政治や経済も同じですね。
小熊 そうなります。存在するかはわからないけれど,それらがあることを前提にしないと学問ができないというわけです。
多くの人が義務教育の数学の中で学習するユークリッド幾何学は,5つの公理(公準)を前提に置いています。「全ての直角は互いに等しい」「任意の2点が与えられたとき,それらを端点とする線分を引くことができる」などです。これらの公理から出発して,「三角形の内角の和は2直角(180度)である」といった論証を行います。しかし公理そのものは証明の前提であって,証明の対象にされることはありません。同じように,命の存在は看護学,医学の前提であって,証明する対象ではないと言えるでしょう。
そのように,ある前提の上に体系的に築き上げられるものをアリストテレスは「学(エピステーメーepisteme)」と呼びました。現代では「学問体系(ディシプリンdiscipline)」という言葉がそれに相当するでしょう。「ディシプリン」は特定の学問体系を指すだけでなく,それを教え込む「訓練」「規律」といった意味でも使われます。指導教員を選んで弟子入りし,特定の学問体系にのっとった訓練を受けることは,現代の大学院でも広く行われています。
西村 学問体系が異なればその前提もまた異なる。当然,それに応じて採るべき方法論も変わるというわけですね。
小熊 その通りです。例えば西洋医学と東洋医学では「命」や「健康」についての考え方が違いますから,その結果,診断や治療のアプローチ法もまるで異なってきます。しかし「命とは何か」は論証の対象にはならないため,どちらが正しいとは言えない。同様に,ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学は前提が違う別の学問体系であって,どちらかが「正しい」わけではありません。
臨床での実感を明らかにするための研究デザイン
小熊 西村さんの研究遍歴としては,最初に生理学的なアプローチを取っていて,そこから臨床のほうに移っていったとのことでした。生理学的に得られるデータを組み立てるのでは,ご自身の知りたいことにたどり着けないと考えたのでしょうか。
西村 大枠ではそうなります。私の関心は,意識障害により他者との交流が不可能になってしまったとされている,いわゆる「植物状態」の患者さんと看護師の間にある何らかのコミュニケーションを明らかにすることにありました。初めは微細な心拍変動のぶれや脳波を計測するといった生理学的手法で患者の意識を測定しようとしたものの,うまくいきませんでした。
小熊 つまり,狭義の科学的方法では観測できなかった。
西村 因果関係も法則も見つからず,いろいろな測定器を付けることで患者さんも嫌がっているようにしか思えなくて,患者意識の測定という方法を断念するに至りました。
小熊 そこで,実際に患者―看護師間でコミュニケーションが成り立っているように見える事例を研究することで調べようとしたと。
西村 コミュニケーションが成立していると感じている看護師たちが実際にいることから,かかわる看護師の側が何をどう感じているのか,どんな経験をしているのかを手掛かりに,患者さん側のことを知ろうと考えました。
小熊 そこで応用したのがメルロ=ポンティの現象学だったわけですね。
西村 はい。現象学では,知覚された経験をそれ自体として存在するものではなく,「それを思ったり感じたりする人間の側の志向との関係の中で現象すること」としてとらえます。患者―看護師間でのコミュニケーションについても,そうした関係を持ち得るか否か,看護師の知覚に客観的な根拠があるか否かではなく,かかわり合いの中で看護師に感じ取られること,つまり看護師にとっての現れそれ自体から出発することを重視します。このような考え方は,「思い込み」と切り捨てられがちな看護師たちの経験に新たな角度から光を当ててくれました。
小熊 現象学を説明する例え話として“木が動くから風が吹く”というものがあります。私たちが観測できるのは木が動いたり,頬が冷たかったりすることだけで,その原因を「存在する」と想定してそれを「風」と呼んでいる。しかし風そのものは目に見えない。同様に,人間に問い掛けて反応があればそこに意識があると想定できるわけですが,意識そのものを観測することはできません。
西村 にもかかわらず,私たちが風や意識というものがあると認識してしまうのはどういうことかを問うたのが現象学です。
小熊 西村さんの著書『語りかける身体――看護ケアの現象学』(ゆみる出版)2)からは,そうした研究ビジョンが明確に読み取れました。正しく科学的な研究だと思います。
西村 何をもって科学的と言えるのでしょうか。
小熊 先ほどもお話ししたように,ある前提を置いて,その前提のもとに論理体系を作ったり,観測された事実を積み上げたりするのが学問です。そうした論証の過程と結果の公開,相互的な追検証により近代科学は成立し,進歩してきました。西村さんの研究は,「植物状態」の患者にも何らかの形で「意識」があることを前提に,観測した事実を積み上げて患者―看護師間にあるコミュニケーションを緻密な構成で示してみせている。その点で,極めて学問的,科学的であると私は思いました。
科学は曖昧さから逃れられない
小熊 私なりの翻訳をすると,西村さんが研究を通じて確認したのは「ウェルビーイング」,つまり「善くwell在ることbeing」とは何かということでもあるのではないでしょうか。いわゆる健康状態に戻る可能性は低いかもしれない。けれど,その状態なりの「善い在り方」とは何かを考えた研究なのかなと。
西村 なるほど。たとえ回復の見込みが少なかったとしても患者さんにとってより善い状態を実現するにはどうすればいいのか,との問いは確かに研究の基盤にありました。
小熊 80歳の「健康」は20歳の「健康」とは違います。「健康」や「治る」ということは数値だけで示せるものではない。たとえ数値が良くなくとも,患者や家族が相互行為やコミュニケーションを通して「治った」と合意できたときに達成されるものです。西村さんの研究デザインでは,収集できるのは数値ではなく,「意識障害の患者さんと心が通った気がする」といった医療者の語りになるわけですが,それはそれで一つの立派なデータと言えます。
西村 調査の中で,フィールドである病院内のさまざまな医療者に話を聞きましたが,中には,意識障害の患者さんとの意思疎通があるのはなんとなくわかる気がするものの,自身は科学者のため測定不可能で目にも見えないことに言及するのは難しいとおっしゃる医師もいました。患者さんとの間の機微は受け持ちの看護師にしかわからない部分も多く,通じ合えている程度が個々人で異なるので,どの程度でわかったと表現していいのか難しくもあるのだろうと思っていました。
小熊 しかし本来,科学は曖昧な部分から逃れられません。ある理論的前提のもとに観測結果を集めて,それを数値化したデータをその理論の論理体系に乗せることはできます。しかし,理論の前提そのものは数値として共有できるものではない。数学のように現実から切り離された論理体系は別ですけれども,現実の現象を相手にする科学ではそうはいきません。
西村 現場に近いところほど論理的に共有できない曖昧な部分が多くなるのはわかります。でも反対に,現場ではそうした難しい共有を高度な水準で達成しているのではとの思いもあります。
小熊 現場,つまり人間が生きている世界ではそれが成立しています。人間は数式ではなく自然言語で意思疎通を図っている。つまり,意味が曖昧な記号をやりとりしているのですが,それでもコミュニケーションが成立しています。なぜそんなことが実現しているのかわからないけれど,できているのです。
こんな形で成立している現実世界を相手に科学がデータを集めている限り,2つの次元で曖昧さから逃れられません。1つ目は,症状や患者の言葉といった形で表出した観測結果を数値としてデータ化する段階で生じる曖昧さ。2つ目は,学問が最初に置く「命」「社会」「経済」といった前提の持つ曖昧さです。研究というものは,現実を観察する部分と,観察された現実を数値化して論理操作を行う部分の両輪で回っています。その2つを分業することはできるだろうけれど,全過程を数値と論理で貫徹するのは不可能です。
西村 看護学や医学の場合,現実から得たデータを処理する部分は論理的に行えるけれども,次にそこから得たエビデンスを現実に適用する段でまたしても曖昧な世界に戻って行かざるを得ません。両方がないと成り立ちませんね。
小熊 両方とも必要ですし,そこに優劣はありません。現実を説明するには,協力する必要があります。
研究手法とは流派であり,道具でしかない
西村 看護学では,研究は量的研究,質的研究の2つに大別して考えられることが多いです。一方で,医学においてEBMが普及してから看護実践や研究においてもEBN,EBPが広く根付きつつあります。EBMの考え方ではRCTのエビデンスレベルが最も高いとされ,それを受けて医学,看護学の研究においても量的研究への価値の偏りがあるように感じています。そのような状況を小熊さんはどう考えられますか。
小熊 症例研究からRCT,そしてRCTメタアナリシスという段階は, 現実の質的な観測から得られたデータを数値化・論理化していく段階とも言えます。しかしこれは分業であって,どちらが偉いということではない。
科学の画期的な進歩は,それまでの理論体系(パラダイム)では説明できない現象を説明しようとしたときに起こりました。つまり現実を観測する現場からのフィードバックがないと,理論の進歩は止まってしまいます。統計的には例外とも言える,めったに観測されない現象を無視していたら,科学の進歩はなかったでしょう。
西村 臨床現場の調査を行う者としては,現実世界にある法則性を取り出そうとするのが科学だとの感覚があります。反対に,所与の法則性に社会のほうが従う,現実世界が論理体系に沿っているはずだとの考え方もあるのでしょうか。
小熊 皮肉な話ですが,学問としての完成度を徹底して追究すると科学ではなくなるという側面があります。論理体系の構築を徹底しようとすると,現実を無視するほうが簡単だからです。中世ヨーロッパのスコラ学などはまさにその典型で,論理体系を築くことを重視して現実を説明できるかどうかにあまり関心がなかったとされています3)。しかし,論理体系よりも現実のほうが優位だと決断したところで近代科学が始まりました。
西村 現実をどれだけ説明できるのかが,科学としての学問にとって大切だということですね。
小熊 そう思います。天動説は,論理体系としては相当の完成度を持っていました。しかしそれが地動説に取って代わられたきっかけは,地球から見た惑星の運行,つまり現実の現象をうまく説明できなかったことでした。
西村 量的研究への価値の偏りがあるとして,そこにはどのような原因があると思いますか。
小熊 単なるはやりということに加えて,即物的な理由もあるのではないでしょうか。集めたデータを統計的に処理して一定の形式に沿って書けば論文を大量生産しやすいですし,大学院生の指導や論文審査も行いやすいですから。
西村 大学院への進学率が上昇し,効率的に学生指導しなければならないという必要性が理由に挙げられるかもしれないということですね。
小熊 留学生がたくさんやって来る米国などでは英語を母語としない学生が多くいるわけで,そうした学生には量的な研究のほうが与しやすいといった事情もあるのではないでしょうか。ただ,公平を期すために申し上げますと,一定の型に沿って書いてしまえばそれで良いといった量産型の論文は,質的研究でも少なからず存在するのではと私は思います。
西村 おっしゃる通りで,必ずしも量的研究だけの問題ではありません。例えば方法論として現象学的方法やグラウンデッド・セオリー・アプローチ(GTA)に沿ってさえいれば良いといった考えで研究を行うのでは本末転倒だと思います。研究手法が確立されると,そうした事態が起こりがちなのかもしれません。
小熊 研究手法は研究の道具でしかないです。特定の研究方法を用いていれば立派な研究だというようなことは,特定の医療機器を使っていれば名医だというのと同じくらいあり得ないでしょう。RCTでもGTAでも,それは同じではないでしょうか。
*
小熊 一定の手続きに沿って,調査を着実に積み重ねていくことは大切です。とはいえ,型通りの方法で集めたデータをもとに,型通りの形式で書く論文は,AIでも書けるようになるはずです。一方で画期的な研究というものは,例外的な現象に注目して意味を与えるところから生まれます。それは人間にしか行えません。
西村 小熊さんの著書を読んでいて,また本日お話をしていて,並立するさまざまな学問体系の存在を認識しつつ,研究や科学といった営みを少し引いた目線で眺めることは,自身の立ち位置をクリアに認識することにつながりますし,学際的研究を行いやすくする効果もあると感じました。小熊さんの見ている時間軸の長さに驚いた対談でもありました。ありがとうございました。
(了)
参考文献
1)小熊英二.基礎からわかる論文の書き方.講談社;2022.
2)西村ユミ.語りかける身体――看護ケアの現象学.ゆみる出版;2001.講談社:2018.
3)中山茂.歴史としての学問.中央公論社;1974.pp97-8.
西村 ユミ(にしむら・ゆみ)氏 東京都立大学健康福祉学部 / 人間健康科学研究科 教授
1991年日赤看護大卒。神経内科病棟勤務を経て,97年女子栄養大大学院栄養学研究科(保健学専攻)修士課程修了。2000年日赤看護大大学院看護学研究科博士後期課程修了。同大講師,静岡県立大助教授,阪大コミュニケーションデザイン・センター准教授を経て,12年より現職。『語りかける身体――看護ケアの現象学』(ゆみる出版,講談社),『看護実践の語り――言葉にならない営みを言葉にする』(新曜社)など著書多数。近年の研究テーマは,地域包括ケアに対応する急性期病院の協働実践ワークなど。
小熊 英二(おぐま・えいじ)氏 慶應義塾大学総合政策学部 教授
1987年東大農学部卒。出版社勤務を経て,東大大学院総合文化研究科国際社会科学専攻博士課程修了。博士(学術)。専門は歴史社会学。97年慶大総合政策学部専任講師,2000年同大助教授を経て,07年より現職。『単一民族神話の起源――〈日本人〉の自画像の系譜』『〈民主〉と〈愛国〉――戦後日本のナショナリズムと公共性』(いずれも新曜社),『基礎からわかる論文の書き方』(講談社)など著書多数。近年の研究テーマは,雇用・自営・公務セクターから構成される日本の不平等レジームの国際比較と歴史。
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