他者理解を促すためのブックガイド
[第2回] “エンパシー”と映画『ファーザー』
連載 小川公代
2022.11.28 週刊医学界新聞(看護号):第3495号より
私たちはみな,この世に生を受けたからには,老いも病いも,そして死も避けることができない。それなのに,健康なときに病人の苦しみや死の淵に立たされる際の絶望を想像することは滅多にない。ましてや他者の苦しみを想像するなんてことは至難の業である。
他者の苦悩を想像する,あるいは苦悩に共感すること(=エンパシー)を「他者の靴を履く」と表現したブレイディみかこは,その大切さを語っている1)。今回は,アンソニー・ホプキンス主演の映画『ファーザー』が喚起する“エンパシー”について考えてみたい。この映画にはいわば物語の〈ゴール〉というものはなく,認知症を発症した老人が見る世界,彼の戸惑いや葛藤が映像化されている。
ヴァージニア・ウルフというイギリスの作家も時系列で進む物語を語るというより,むしろそれを回避しつつ,登場人物たちの内面の世界を探究した。例えば小説『灯台へ』では,焦点はラムジー家の人々に何が起こるかよりも,ラムジー夫妻や彼らを取り巻く人々の内面世界に生じる現象――彼らの気遣い,困惑,怒り,驚きなど――に当てられている。
エンパシーはある意味で,他者の内面世界に思いをはせること,すなわち「我々が複数の視点(自分の視点と他者の視点)の間を行き来することを可能にする」能力である1)。また言葉の力が働き,エンパシーが喚起されることもあるだろう。レビー小体型認知症と診断された樋口直美は,その症状を経験した当事者として,時間感覚が低下した状態を「濃霧の中に一人で立っているよう」だと表現する。「過去の出来事も未来の予定も自力では見えず,存在を感じることができ」ず,「いつも迷子でいるような,寄る辺のない感覚」を覚えるのだという2)。その語りの力によって,健常者である私たちは少しだけそのつらさを想像することができる。
ウルフや樋口の語りが乗り越えようとするのは,近代科学が切り開いた「経験を可能な限り人間の外に」移し換えようとする認識や時間感覚である。ジョルジョ・アガンベンは,このような計測可能な客観的時間を「クロノス的時間」,反対に,身体を伴って経験する主観的な時間を「カイロス的時間」と呼んだ3)。樋口の「砂漠の真ん中で『ここに指輪,あそこに金貨を埋めた』と言われても覚えようがない」2)という例えも私たちに彼女のカイロス的時間を共有することを可能にする。
映画『ファーザー』の鑑賞者は,認知症の主人公のカイロス的時間を経験する。認知に変調を抱えているアンソニーが見る世界が,本人の視点から,そして周りの人間の視点から切り取られている。彼の認知の世界を成り立たせているものが少しずつ崩れていくさまを,われわれ鑑賞者は――さながらVRのように――疑似体験する。「キッチンで紅茶を作っていたら,独りきりだったのに突然音がしてきてみるとお前〔アン〕の夫がいた」と,焦燥感でいっぱいになりながらアンソニーが娘のアンに伝えている。しかも,実際には彼女は離婚して5年以上たっていて夫はいないと知り,混乱する。数分前に確かにアンがチキンを渡した男性が夫であったと思い込んでいても,その時間感覚を娘と共有できていない。
こうして鑑賞者は,アンソニーの「すべての葉を失っていくようだ」と感じる「現実」に入り込む。そして,健常者と同じ時間を生きられない彼の苦悩を知る。看護師が「まず着替えましょうね……。服を着たら,公園へ散歩に行きましょう」とアンソニーを励ます時,彼だけでなく,人間はみな等しく,かけがえのない有限の時を刻みながら生きていることに気付かされるのだ。
参考文献
1)ブレイディみかこ.他者の靴を履く――アナーキック・エンパシーのすすめ.文藝春秋;2021.
2)樋口直美.誤作動する脳.医学書院;2020.
3)ジョルジョ・アガンベン(上村忠男訳).幼児期と歴史――経験の破壊と歴史の起源.岩波書店;2007.
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