他者理解を促すためのブックガイド
[第1回] 他者の主観的経験〈クオリア〉を共有する
連載 小川公代
2022.10.31 週刊医学界新聞(看護号):第3491号より
「他者とは,自分でない人,自分と別の人のことである。他人を見たとき,私はそこに人間以外の生物でもロボットでもなく,私と同類の人間を見ている」と書いたのは木村敏である。「人間を見ている」とはどういうことか。「自分とは別の,独立した主体/主観であるという意味」で,そのことは決して「自明」ではない1)。この他者の主観的な経験は〈クオリア〉と呼ばれているが,それぞれ独立して存在しているため,他人はいつも「私にとって絶対に知り得ない固有の主観的内面を生きている」とも言える1)。
今回ご紹介したい本は,文学者であり,かつ当事者研究をされている横道誠さんが最近刊行した世界周航記『イスタンブールで青に溺れる』2)である。自閉スペクトラム症と注意欠如・多動症を診断された横道さんは,ご自身のことを「ニューロマイノリティ」(脳の少数派)と形容する。第1回になぜこの本を選んだかというと,これほど豊かな〈クオリア〉が語られている本にこれまで出会ったことがないからだ。ここには,ニューロマイノリティであるにもかかわらず,というより,むしろニューロマイノリティだからこそ語ることができる生き生きとした主観的内面世界があり,旅行記の範疇をはるかに超えている。「世界文学の体験記」という様相を帯びている2)。横道さんの言葉は,「絶対に知り得ない」別個の主体の内面がどんどん心に浸透してくるように届けられる。
例えば,横道さんには「フロー」と呼ばれる「大きな流れに運ばれているような感覚」があるというのだが,この体験を「法悦あるいは恩寵によって祝福されている」3)と語っている。もちろん「フロー」をニューロマイノリティに特異なものとして,あるいは「問題」ととらえることもできるだろう。そして,医療はそういう「個人を変える」場であると考えるのがこれまではより一般的だったのかもしれない。しかし,もしニューロマイノリティの人のクオリアが,横道さんや障害を持つ多くの人の言葉を介してニューロティピカルな(定型的な脳を持つ,マジョリティ側の)人たちと共有され得るとしたらどうだろうか。
発達障害当事者のテンプル・グランディンは,ニューロティピカルな世界でどう振る舞っても「順応できない」と書いている4)。つまり「個人」を変えようとする努力には限界がある。個人を変えるのが“セラピー”であるなら,環境や周りを変えていくのが“ケア”である3)。横道さんの言葉を借りれば,発達障害の諸特性は「克服すべきもの」とされるよりむしろ「心の扉を開いて,豊饒なイメージを湧き立たせ,その水流は僕を未知のワンダーランドへと解き放ってくれる」2)ものとしてとらえるほうがいいのかもしれない。私はイギリス人作家ヴァージニア・ウルフの研究をしているが,精神疾患を抱えていたウルフの小説『波』や「壁のしみ」には同じような「霧散する」自己表象があり,読者の心をも解放する。
横道さんはグラナダを旅行中に,ご自分の体験とウルフが『波』に綴る自己像とを重ねている。「深い流れが,何かの障害物を圧迫する。ぐいっと引っぱる,たぐる。けれど何か中心にある魂が抵抗する。ああ,これが痛み。これが苦悶! …ほら,わたしの身体が溶けていく…」2)。だから,精神の「快晴」を与えてくれるものの一つは「愛着を抱いた文学・芸術作品」なのだという。他者の「融解」体験の存在論的な限界や孤絶感が文学の言葉を通して,環境や社会側の見方を変えていくこと,ここに他者理解への鍵があるように思われる。
参考文献
1)木村敏.関係としての自己.みすず書房;2005.
2)横道誠.イスタンブールで青に溺れる――発達障害者の世界周航記.文藝春秋;2022.
3)横道誠.みんな水の中.医学書院;2021.
4)Temple Grandin. Thinking in Pictures:My Life with Autism. Vintage Books;1995.
小川 公代(おがわ・きみよ)氏 上智大学外国語学部 英語学科 教授
1995年英ケンブリッジ大卒。英グラスゴー大Ph.D. in English Literature。2007年より現職。著書に『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社)。
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