みんな水の中
「発達障害」自助グループの文学研究者はどんな世界に棲んでいるか

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ASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動症)を診断された大学教員は、彼をとりまく世界の不思議を語りはじめた。何もかもがゆらめき、ぼんやりとした水の中で《地獄行きのタイムマシン》に乗せられる。その一方で「発達障害」の先人たちの研究を渉猟し、仲間と語り合い、翻訳に没頭する。「そこまで書かなくても」と心配になる赤裸々な告白と、ちょっと乗り切れないユーモアの日々を活写した、かつてない当事者研究。

*「ケアをひらく」は株式会社医学書院の登録商標です。

シリーズ シリーズ ケアをひらく
横道 誠
発行 2021年05月判型:A5頁:270
ISBN 978-4-260-04699-2
定価 2,200円 (本体2,000円+税)

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●『シリーズ ケアをひらく』が第73回毎日出版文化賞(企画部門)受賞!
第73回毎日出版文化賞(主催:毎日新聞社)が2019年11月3日に発表となり、『シリーズ ケアをひらく』が「企画部門」に選出されました。同賞は1947年に創設され、毎年優れた著作物や出版活動を顕彰するもので、「文学・芸術部門」「人文・社会部門」「自然科学部門」「企画部門」の4部門ごとに選出されます。同賞の詳細情報はこちら(毎日新聞社ウェブサイトへ)

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水は、心にも良いものかもしれない……
(サン・テグジュペリ『星の王子さま』原文フランス語、Saint-Exupéry 1946: 77)

はじめに

 I部は「詩のように。」、II部は「論文的な。」、III部は「小説風。」――三種類の様式を使って、ASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動症)の診断を受けている私という人間の体験世界を伝える。それが本書の目的だ。

 私はいわゆる発達障害者だ。もしかすると私の「仲間」でも、多くの人は、私のような考え方や感じ方に無縁という可能性もある。だが、それで良い。それこそが「脳の多様性」なのだから。

 本書は、本文内でも触れるさまざまな著作に影響を受けており、それらなしでは生まれることがなかった。しかし、上述した三つの異なる様式から「私」に迫ろうとしたこと、自助グループおよび文学と芸術によるケア、セラピー、リカバリーという見通しを示したことは、本書の大きな特徴だ。

 文学の専門家が、文化人類学から学んだ手法で自分自身に対するフィールドワーク記録を作る。哲学や言語学から学んだ知識も動員して、医療や福祉について考察する。詩人やエッセイストや小説家の流儀を取りいれながら書く。なんともかんともな写真や短歌や絵(落書き)やマンガ(?)まで載せてしまう。「やりすぎ」と言われるかもしれない本書だが、読んだみなさんが「みんな水の中」だと実感していただけるならば、とてもうれしい。

*本書で「原文+言語」と表記している引用はすべて拙訳による。
*原文の傍点やルビなどは無視していることがある。

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はじめに

I――詩のように。

II――論文的な。
 一 脳の多様性
 二 水中世界
 三 エスの圏域
 四 植物
 五 宇宙
 六 五感
 七 謎めいた統一体
 八 動物
 九 他者
 一〇 祝福
 一一 呪縛
 一二 依存症
 一三 トラウマケア
 一四 ジェンダーとセクシュアリティ
 一五 死
 一六 医療、福祉、自助グループ
 一七 文学と芸術
 一八 言語
 一九 未来

III――小説風。

あとがき
参考文献

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●新聞で紹介されました

面白くないわけがない
書評者:斎藤環(筑波大教授・精神科医)

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《ずっと不思議だったのだ。発達障害当事者の書く本はなぜあれほど面白いのか。テンプル・グランディン、ドナ・ウィリアムズ、綾屋紗月、東田直樹らが教えてくれる彼らの世界は、いわば「別の世界線」をかいま見せてくれるようなスリルがある。その系譜に連なる新たな傑作が本書である。

著者はASD(自閉スペクトラム障害)とADHD(注意欠陥多動性障害)の診断を受けている。彼は、先人の「当事者研究」を踏まえつつ、彼自身の世界のありようを詩のように、論文のように、小説のように記していく。著者自身による漫画やイラストも満載だ。複数の形式を用いることで、彼自身の世界が立体的に立ち上がる。

この奇妙なタイトルも、彼自身が常に感じている、水の中を漂っているような感覚に由来する。これに限らず、彼の感覚はわれわれの日常的な感覚とはかなり異質だ。彼らは何が起きるか予測がつかない「魔法の世界」に生きている。水への強い憧れと水に関連する青色を好み、周囲の世界との隔絶感、孤独感をしばしば抱いている。過集中による至高体験をしばしば経験するが、いわゆる「タイムスリップ現象」(トラウマのフラッシュバックに近い現象)にも苦しめられている。また性自認に関しては、男女いずれとも定めがたいXジェンダーが多いという。

本書でもっとも興味深いのは、こうした特異な世界の記述に際して、数多の文学作品が縦横に引用される点だ。従来の当事者研究が自然科学的な記述を目指すのに対して、横道は「文学および芸術と関係づける」ことを目指す。近年注目を集めている「中動態」概念も、発達障害者にとっては日常的なモードということになる。彼らはまるで、哲学の概念を感覚的に基礎づけ、観念の受肉を試みるかのようだ。

そう、私たち定型発達者(マジョリティー)にも、文学や芸術を通じて発達障害者の世界の一部を共有し、横道のいう「脳の多様性」に思いを馳せることができる。その時過去の傑作群は、まったく異なる相貌をもって立ち現れるだろう。これが面白くないわけがない。その意味で本書は批評の書だ。

作品や作家を診断するのが「病跡学」なら、ここにあるのは病跡学を反転させた「当事者批評」という新しい可能性の端緒なのだ。》
(日本経済新聞 2021年6月5日 書評欄より全文転載)

どのように生きられているか
書評者:尹雄大(ゆん・うんで;インタビュアー、ライター)

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《本書は「水の中」に住む者の記録である。「水の中」とはASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠陥・多動症)がもたらす世界だ。著者、横道誠の日々は、さながら水の中の出来事なのだ。音はくぐもり、視界はぐにゃりと曲がり、急に明るみが差したと思えば陰る。医学はそのような感覚を視聴覚の過敏さとそれがもたらす疲労が「現実を水のなかの世界のように錯覚させているのだ」と説明する。

錯誤が現実認識を過(あやま)たせ、社会生活を困難にさせる。ならば「発達障害者」の成長を促す感覚統合療法を幼い頃から受けていればよい、という発想があり得るだろう。著者は言う。「受けていたらこの世界に参入することはできなかったのだから、受けなくてよかったと思う」

ASDは「人間関係を発展させ、維持し、それらを理解することの欠陥」があるなど散々な言われようだ。他者の言動への類推や共感の欠落は「心の理論」の障害として知られている。だが、外界からは水の中がそう見えるだけかもしれない。「おそらく定型発達者は他者の意図を三択問題のようにして解いており、対して私たちはそれを十択問題のようにして解いているのではないか」

本作はASDとADHDがいかなるものかという説明よりは、どのように生きられているかを描きだす。横道のトラウマやジェンダー観が語られるさなかに挟まれる温冷水浴や雨期への嗜癖(しへき)、流血など水への連想が読み手に浸透し、気づけば水中にいる感覚が宿る。だが溺れてはいない。とすれば、水の外の社会は数多(あまた)ある世界の一つにすぎず、そこで「息苦しい」と人々が言うのはなぜか、との疑問が湧く。

本書の冒頭は詩のような書き振りで始められる。ふぞろいな字、広く空いた空間。ページの余白に文字が水中の泡のように浮かぶ。同じ表現の繰り返しは、著者の身悶(みもだ)えを思わせる。身体感覚は論理的に語れない。詩ならば包括的に語れる。

水の中を含む私たちの住まう世界は、本当は論理の外で流動している。この世界を真摯(しんし)に捉えるならば、詩を綴(つづ)るような試みが必要だ。》
(信濃毎日新聞 2021年6月19日 書評欄より全文転載)

生きるための、実存的な真剣さの奇跡
書評者:藤田直哉(文芸評論家)
週刊読書人2021年9月3日号


ASDはSF的、ADHDは落語的。(雑誌『精神看護』より)
評者:高野 秀行(ノンフィクション作家)

 文字通り、貪るように読んでしまった。こんな不思議な読書は初めてである。ものすごくわかるところと全然わからないところが斑に入り交じっている。生まれ育った1970年代の東京八王子の田舎とM78星雲みたいな異世界が混在しているような感じとでも言おうか。共感と刺激。安心と冒険。ノスタルジーとエキゾチスム。交感神経と副交感神経。この相反する2つの要素は人間にとって必須だから、両方がほどよく混ざっている本書は私にとって一種、理想の世界であった。

 著者の横道誠さんはASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠陥・多動症)を合わせ持つ強豪である。そして、2年ほど前に気づいたのだが、私は非常にADHDが色濃い。というより、診断こそ受けていないが間違いなくADHDだろう。本書に掲載されているアメリカ精神医学会の『精神疾患の診断・統計マニュアル第5版』(DSM-5)を見てもほとんどが当てはまり、横道さん同様、暗澹たる気持ちになる。

自分手品師のADHDな日々
 まず、とにかく忘れっぽい。そう言うと定型発達者は「そんなの誰にでもあるよ」と言うのだが、横道さんや私の場合は「忘れることがデフォルト(初期設定)」なのである。ゴミ袋だろうがタマゴだろうが、メモしないかぎり永遠に買うことができない。買い物メモを作ってスーパーに行こうとしても、メモを持っていくのを忘れてしまうのもしょっちゅうだ。買い物メモに10項目があったとして、10個全部買えることはめったにない。スーパーの店内で赤ペンでチェックしているにもかかわらずだ。もし全部買えたら「パーフェクト!」と喜んでしまい、その気の緩みが帰宅後の別の物忘れにつながったりする。

 モノをなくすのも日常茶飯事。先週は銀行通帳をなくした。正確に言えば、先週通帳が必要になって探したら見つからなかったのである。紛失したのはその日かもしれないし半年前かもしれない。間違えて捨ててしまったのかもしれないし、どこか書類の中に紛れ込んでいるのかもしれない。すべてが藪の中である。

 もし私が京都に住んでいたならぜひとも横道さんの主催する自助グループに参加させていただきたかった。その際、私のコードネームは「自分手品師」にしたい。本当によく起こり、毎回驚くのだが、今さっき、10秒前まで手にしていたものが忽然と消えてしまい、どこにも見当たらないのである。まさにマジック、まさに自分手品。タネも仕掛けもない。というか見つからない。

 先日は古紙回収用に古雑誌を紐で束ねようと、自分のデスクからハサミを持ちだして古雑誌置き場に向かったはいいが、そのたった数メートル、時間にして十数秒ほどの間に、手にしていたハサミが消えていた。唖然である。妻に「俺が今の今まで持っていたハサミ、知らない?」と聞いたら「あたしが知るわけないでしょ!」と言われた。そうだよなあ。ハサミは数日後、たんすの靴下コーナーの中から発見された。あくまで推測だが、古紙回収作業の直前、急に靴下がはきたくなって引き出しを開け、邪魔なハサミをそこに放りだしてそのまま引き出しを閉めてしまったのではないか。途中で靴下をはいた記憶が抜け落ちているようだ。

命をかけた夢想
 また、横道さんほどひどくはないが、私も不断に「夢想(と名づけている)」にとらわれている。それは時に原稿のネタになりそうなアイデアだったりもするが、たいていはどうでもいい過去の失敗の記憶(3年前ある人に失礼なことを言ってしまったとか)や、目の前に世界にただ反応した感想など(トヨタ・レクサスのLはなぜいつ見ても三菱ランサーを思い出させるのかとか)である。そして、その夢想がそれまでの思考や行動を分断してしまうので、生活上の障害となる。

 例えば、今は6月であるが、こんなことが起きる。用があって午前中の早い時間に家を出て歩いていたら、風が思いのほか涼しい。「秋風みたいだ」と思った瞬間、今が11月であるという想いに襲われた。「もう暮れか、今年も早かったな」とか「いつも1年が早いが年々早くなる。人生における1年が相対的に短くなっているせいだな」などと考えているうち、Tシャツ姿の通行人などを見て「いや、今は11月じゃない!」と我に返るのはいいが、「あれ、俺、今どこへ向かっていたんだっけ?」とそれまでのことを何もかも忘れている。場合によっては今自分がどこにいるかも一瞬わからなくなり、認知症の人の気持ちが理解できてしまう。

 夢想はとても危険である。私は早大探検部に所属しアフリカやアマゾンに通っている頃から、「自分が死ぬ時、死因は感染症でも犯罪・テロでもなく、単なる不注意に違いない」と思っていた。なにしろ、常時ぼんやりしている。よく青信号なのに赤信号と間違えて止まって待つことがある。そして信号が赤に変わると反射的に歩き出し、車に轢かれそうになる。日本にいても日々その繰り返しだ。

 最近最も危険な夢想は─なんとも皮肉なことに─ADHDについてのあれこれだ。学生時代からの親しい友だちが診断を受けたADHD者であり、私にいろいろと先達としてADHDの知識を教えてくれる。彼とADHDの話をするのは自助グループの集会みたいなもので異常に盛り上がる。彼のケースと私のケースはおおむね重なっているが、ずれているところも多々あり、「ADHDとは何か」を考えるのがすごく面白くなってしまった。

 ところがADHD系夢想の没入感はハンパなものでなく、いったんそれを考え出すと、他のことが何も手につかなくなる。いつでもどこでも脳内で始まってしまい、抑制の方法がないという意味では、酒や麻薬よりタチが悪い。なぜ、ADHD者にとってADHDがそれほど夢中になれるネタなのだろうか。その辺も研究してみたいが、なにしろ危険なので二の足を踏んでいる。

地図が読めない冒険者たち
 その他、マルチタスクが苦手であること。苦手であるのに同時にいろいろなことに手を出すこと。極端な方向音痴であること。レシピやマニュアル、地図が全然読めないこと。主夫なのに料理の段取りが極度に苦手なこと。雑談が不得手なこと(何か1つテーマを決めて集中的に雑談したいとよく思う)。アルコールでもドラッグでも依存しやすい体質であること。何にでもムダにエネルギーを消費するのですぐ疲れてしまうこと。自分で考えて自分ツッコミする癖があること。40歳ぐらいでようやく歯が磨けるようになり、54歳で部屋が片づけられるようになるなど「発達障害も発達する(ただし異常に遅い!)」という真理に驚いていること。というように、横道さんがかかえるADHD者としての悩みを私はほぼすべて共有している。

 もっとも、悪いことばかりではなくて、取材する時や原稿を書く時にわりとたやすく「ゾーン」(過集中状態)に入れるとか、コレクター性癖のおかげで言語マニアであることなどは、横道さん同様、仕事の役に立っている。というか、そういうポジティブな側面が若干あるので、私たちはこの定型発達者が支配する世界でなんとかサバイブできているのだろう。

 それから本書を読んで初めて知ったのだが、ADHDは「冒険主義的」だという。私が小心者のくせに冒険的なのも実はADHDのせいだったのか。そう言えば、日本を代表する冒険家・作家である角幡唯介(私の早大探検部の後輩)も「極端な方向音痴で、ひじょうに忘れっぽく、人の話を聞いていると上の空になり、持ち物をすぐなくす」と言っているので、やはりADHDなのかもしれない。
 では、なぜADHDは冒険的なのか、そしてそんな不注意な脳の持ち主になぜ冒険や探検ができるのか。その辺は今後、じっくり調べてみたいが、なにしろ危険が伴うので……(以下略)。

ASD、この美しき異世界
 さて、ここまでが共感部分であるが、横道さんはADHD者よりADS者の素養がはるかに勝っているようだ。そしてその部分は私にとっては完全に未知の領域である。

 まず本書の統一テーマである「水の中」という感覚は全くわからない。ふだん、水のフィルターに覆われたような不快感を持っているのに、本物の水は大好きというのは一体どういうことなのだろうか。私は十数年前から水泳を始め、今も週に3回ぐらいは2000メートルほど泳いでいるので、水中世界は日常の範疇なのだが、水の中が気持ちいいと思うことはめったにない。泳ぐことも腰痛防止や体力増進のためにやっているだけで、別に好きではない。だからなおさら横道さんらASDの人たちの感性には驚かされる。

 ASDの人たちはADHD者よりはるかに生きていく上で苦難が多いと察せられるが、彼らの感性や世界観は美しい。

 横道さんは、もし生まれ変わったら「うるおう水際のシダ植物になりたいと答える」と書いている。雌雄両性を備え、ワラビのように先端をくるくると楽しく巻きながら生き、通りすがりの野良ヤギにむさぼり食われて、一生を終えたいという。

 ADS者は「蛍光色に陶酔を誘われる」「魔法の世界に住んでいる」「光や砂や水に愛着を感じる」「肉体の桎梏を自覚し、そこから解きはなたれようともがいている」「現実がつねに夢に浸されているような体感」などと表現する。多くの場合、それらは苦しみなのだが、でも極めて文学的でありファンタジックである。また、自分を「地球に生まれた異星人みたいなもの」と思う人も多いらしい。

 ASDの世界はSF的なのである。だからASDの人の書く本は異世界感に満ちており面白い。私は「発達障害」という概念が世間に広まるよりずっと前から泉流星さんの『僕の妻はエイリアン─「高機能自閉症」との不思議な結婚生活』や、ニキ・リンコさんの『俺ルール!─自閉は急に止まれない』などを愛読してきた。そこには私を魅了する「未知の世界」があった。しかもそんじょそこらのSFよりも明晰な論理構成と美しい感受性に彩られた世界である。

 素直に羨ましいと思う。翻ってADHDは至って「落語的」である。横道さんも少し書いていることだが、ADHD者の先輩である友人によれば「ADHD者が書いた当事者研究の本は1冊もない」という。あってもマンガだそうだ。他はみな、ADHD者がどうすれば生きやすくなるかというノウハウあるいはライフハック本らしい。

 無理もない。ADHD者の話はくだらない。通帳が見つからないだとか自分手品だとか、ツイッターで「菅政権はどうかしている」を「須賀政権はどうかしている」と書き間違えて恥を書いたとか(あくまで例。こんなツイートしたことはない)、そんな卑近で低レベルなネタのオンパレードである。稀に、自分と妻の全財産をなくしそうになったという壮大な失敗未遂談もあるが(この話は長いのでいつか別の機会にしよう)、たいていは5分か10分で終わる。とても本など書けたものでない。

 実際に落語を聴いていると、自分によく似た人が出てくる。相手を間違えてしゃべってしまう人とか、訪ねる家を間違えている人とか、勘違いで激怒している人とか。そういう時は正直言って笑えない。いやあ、そういうことって普通にありそうじゃんと思ってしまうし、そもそもせっかちで喧嘩っぱやいという江戸っ子の典型自体がADHDじゃないかなどという夢想に浸ってしまい、落語の続きが耳に入ってこなくなるからでもある。

 ASDはSF的でADHDは落語的。そうツイートしたら、横道さんから「そうです。私は落語的に生きる異星人なんです」というようなリプライをいただいた(横道さんの正確なリプは不明。保存しておいたはずなのにどこかへ消えてしまったから)。

コクーン文学者としての村上&大江
 本書で最も驚いたのはASDと文学・芸術の関係についてである。

 横道さんはこう書く。「文学と芸術は、混沌とした宇宙に明晰さを与えるものにほかならない」。
 いや、私は文学をそんなふうに考えたことは一度もなかった。そういう評論やエッセイも見たことがない。文学や芸術には孤独な人やマイノリティに希望や共感を与える機能があるとは思っていたし、そういう意味で私もそれらを愛好していた側面がある。でも「宇宙に明晰さを与える」とは。

 もっと具体的には、村上春樹と大江健三郎についての言及に心底驚いた。

 私は村上作品を長らく愛読していたが10年ぐらい前からあまりに同じ世界観、あまりに同じような登場人物、あまりに同じような会話に辟易し、長篇からはすっかり離れてしまった(短篇は今でも好きな作品が多い)。村上作品はすっぽりと包まれたような心地よさがある。逆に言えば、「絶対自分のセーフティゾーンから出ない」という強い保守性も感じられる。私の知人は村上作品を「コクーン(繭)文学」と呼んでいるし、その凝り固まった内向きの嗜好を批判する人は多い。

 でも横道さんが村上作品の執拗な繰り返しをすごく好んでいることを本書で知り、「あー、村上作品はASD文学だったのか」と目から鱗であった。考えてみれば、コクーン文学とは世界から自分を守ることを第一義とするのだろうし、もしASD文学と考えるなら批判しても仕方がないではないか。村上作品はそれを好きな人だけが読めばよくて、好きじゃない人は読まなきゃいいだけではないか。村上さんはエンドレスに自分の世界観を紡ぎ続ければよく、愛読者はずっと癒やされていればいい。外野があれこれ言う必要はない。

 大江健三郎についても同様だ。実は私は大江作品が好きではない。あまりに「文学的なポーズをとりすぎている」と感じられるし、言い回しが難しすぎる。昔、大江氏が新聞か雑誌のインタビューで「私は最初に書いたものを次にわざと難しく書き直す」というようなことを述べていた。それを読んでますます嫌いになった。読者を遠ざけ、難解に見せることが文学だというのは間違った姿勢だと思ったからである。

 だが、横道さんは大江作品にも大いなる共感を示している。そこで気づいたのだが、「わざと難解に見せて読者を遠ざける」とは、それもまた「コクーン文学」なのではないのか? 難解さは他者から自分の世界観を守る繭だと考えれば辻褄は合う。となれば、大江作品を見る目もガラリと変わる。ASD文学なら間違っているかどうかなどナンセンスである。「難解さ」という殻を時間をかけて解きほどくことによって、中に滴る果実を著者と共有できるという仕組みなのかもしれない。

辺境ノンフィクションはメタ当事者研究だったのか!?
 ……などと、さんざん他人の作品を俎上に挙げて言いたい放題であったが、自分は一体どうなのであろうか。私だって自分が好きなものしか書いていない。

 例えば、今で言うと、ミャンマーの反クーデター運動に共感を抱き、支援活動も行っているが、かといって、日本の政財界がミャンマーの軍と不適切すぎる癒着関係になっていることを追及するノンフィクションなど絶対に書きたくない。「汚らわしい」と思ってしまう。個人的には追及に参加しても、誰か別の人に書いてほしい。そんなものを自分の作品のラインナップに入れたくないである。そういう意味では私もまた、自分の世界観を維持することに汲々としており、コクーン的なノンフィクションと呼ばれても仕方ないのかもしれない。

 最後に、もっと大事なことを告白したい。本書で私が驚いた「文学と芸術は混沌とした宇宙に明晰さを与える」という横道さんの考えだが、実を言えば、私は自分が文章を書く時にそれを感じていた。不注意と多動であるだけに私の日常は混沌としている。脳内も同様だ。だからこそ混沌とした脳内情報を整理して明晰にしたいという思いは人一倍強い。いくら口で喋っても混沌はひどくなるいっぽうだが、時間をかけて書いていくと不思議なことに明晰な世界を形作ることができる。

 さらに、こうも考えてしまう。

 アジアやアフリカなど辺境世界の未知の地域や謎を解明したいという私の異常なほどの欲求も、自分の世界が混沌としているからこそ生まれるものなのではないか。もしかすると私の辺境ノンフィクションも当事者研究の一種ではないかとも思えてくる。現地の状況を解き明かしつつ、それを解き明かす自分の脳内も解き明かすというメタ当事者研究である。

 この仮説(というか夢想)をもっと掘り下げてみたいと思うが、同時に危険極まりない夢想でもあり、今後いっそうの注意警戒を払いながら、研究していきたいと思ったのである。

(『精神看護』2021年9月号掲載)

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