看護のアジェンダ
[第209回] たいていのみちは,はじめての みち
連載 井部 俊子
2022.05.30 週刊医学界新聞(看護号):第3471号より
2022年度が始まり,長野への新幹線通勤も4年目に入った。来春には卒業生を送り出すことになり,今年度が看護学部開設の完成年度である。レールを敷きながら電車を走らせるという新たな体験は,いよいよ終盤に入った。
はじめての みち
絵本『大きい1年生と小さな2年生』(作=古田足日/絵=中山正美,偕成社)に,「子どもには,たいていのみちは,はじめての みち」という章がある。「1年生になったまさやは,ふたりの2年生のはなしをきいてびっくりします。『このみちは,一どしかとおったことのないみちだから,おもしろいわね』『一どもとおったことのないみちのほうが,おもしろいわ』。まさやは2年生になったら,ぼくも,そうなれるのかしら,と思いましたが,ふときがつきました。いま,まさやは,ちょっぴりしんぱいだけど,このはじめてのみちが,おもしろくなっているのです」。そして2年生のあきよちゃんとまりちゃんに向かって,こう言う。「ぼく,大はっけんしたよ,子どもにはね,たいていのみちが,はじめての みちなんだ」。
私の中でこのフレーズが長く尾を引いていた。2017年4月にこの絵本を手にした時から,子どもだけでなく大人になっても「たいていのみちは,はじめての みち」なのではないかと思ったからである。
普通であること
話を戻そう。
北陸新幹線の座席ポケットには,雑誌「トランヴェール」が入っている。毎月,更新される。この雑誌が入れ替わっているのをみて,月が変わったことに気付くこともある。表紙をめくり2頁目を,私はいつもちょっとどきどきしながら,開く。そして巻頭エッセイ「〔旅のつばくろ〕沢木耕太郎(文・写真)」に目をやり,本文をていねいに味わう。これが月初めの車中での楽しみである。
2022年3月号のタイトルは「記憶のかけら」であった。日光を旅したあとに乗った日光線の鹿沼駅で筆者は「記憶のかけら」のようなものの存在に気付き,終点の宇都宮に到着する寸前に思い出したというてん末である。
筆者は大学生時代,長い休暇になると日本橋の決まった百貨店でアルバイトをしていた。そうしたある日,港区の三田にある高級アパートに荷物を届けることになった。奥から出てきた初老の男性が品物を受け取ったあと,しばらくしてノートサイズの薄い箱を差し出し,「よかったら,これをもらってくれますか」と言うので受け取った。それはイタリア製の高級ブランドの靴下セットだった。筆者は「アルバイトの学生に対する物腰の普通さに強く感動していた。普通でいて,優しかった」と強く印象に残ったのである。そして,その男性こそ,ソニーの創業者の一人,井深大であった。その井深大記念館が鹿沼にあることを思い出した。
筆者はこうふり返る。「人に会い,人から話を聞いたり,話をしたりするということを中心に仕事を続けてきた中で,もしひとつだけ心がけてきたことがあったとしたら,それは誰に対しても同じ態度で接するということだったような気がする。(中略)それは単に仕事の上のことだけではなく,私の生き方の基本のようなものになっていたかもしれない」。さらに筆者はこう続ける。「その生き方における大切な心構えは,驚いたことに,ほんの数分だけ会ったにすぎない井深さんの影響だったかもしれないのだ……」と(私はここまで書いて,はたと気が付いた。私が沢木耕太郎の作品に惹かれるのは,この「誰に対しても同じ態度で接する」という生き方に共鳴しているからかもしれないということである)。
旅の終わりに
沢木耕太郎の連載「旅のつばくろ」第72回のラストが衝撃であった。欄外に小さくこう記されていた。「読者へ これが『旅のつばくろ』の最終回です。長い間お読みくださり,ありがとうございました。またいつかお会いしましょう。 筆者」。ここで私は涙が出そうになった。慕っている人に別れを告げられたような気持ちだった。一方であまりにもさりげなく「普通に」連載を終わることを告げた筆者のやり方に清々しさを感じ,自分もいつかこのやり方を真似しようと思った。
2022年4月号の「トランヴェール」は,いつものように北陸新幹線の座席ポケットに収まっていた。もう沢木はいないのだと自分に言い聞かせて表紙をめくった。もしかすると別の新しい連載が始まっているかもしれないという期待もあった。4月号は,「湯・花・食でめぐる,お殿様の旅」の特集であった。表紙をめくると「祝 御開帳」の広告があり,次に駅弁紹介の頁が続く。次である。私は息をひそめて,そっと頁をめくる。巻頭エッセイ「旅のつばくろ」があった頁である。その頁はJR East Informationに変わり,鉄道開業150年を祝っていた。
というわけで,北陸新幹線通勤のささやかな楽しみがひとつ消えた。人生のみちにある,ちょっとしたオアシスであった。
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