医学界新聞

対談・座談会 松永 正訓,石井 洋介

2022.05.09 週刊医学界新聞(通常号):第3468号より

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 患者さんの苦しみを知る医師は何を感じ,そして何を伝えるのか。膀胱がんになった小児がん外科医の松永正訓氏が,自身の闘病をつづった『ぼくとがんの7年』(医学書院)をこのたび上梓した。そこで本紙では,15歳で潰瘍性大腸炎を発症したのをきっかけに医師を志し,臨床医の傍らがん早期発見のためのスマホゲーム「うんコレ」の開発や日本うんこ学会を設立するなど異色の経歴を持つ石井洋介氏との対談を企画。異なる患者体験を経た2人に,死の恐怖や痛み,そして患者への向き合い方の変化について語ってもらった。

松永 石井先生,初めまして。先生の多才でユニークな経歴に興味を持っていて,お話を伺えるのを楽しみにしていました。

石井 ありがとうございます。私も『ぼくとがんの7年』を読み,自身の成長を今一度見直すきっかけになりました。

松永 初めにお伝えすると,ぼくは病気が「よい経験になった」とは思っていないんですよ。

石井 あとがきにも書かれていましたね。闘病記の多くが,病気の経験をポジティブにとらえる中,「よくなかった」と締めくくる作品は初めて見たかもしれません(笑)。

 内容はとても勉強になりました。というのも,スピリチュアル・ペインがこれほど言語化された闘病記は読んだことがなかったからです。まず執筆の動機から聞かせてください。

松永 患者のリアルな悩みというものを書きたかったんです。医学部を卒業後19年間,千葉大小児外科教室に属していたぼくは,研究・教育・臨床を行うのが性に合う典型的な大学人でした。ところが40歳の時に解離性脳動脈瘤に倒れ,開業医に転じました。そして今60歳ですが,53歳の時に膀胱がんを発症し,2回の再発と3回の手術を経験したのです。がん宣告後は手術と合併症の連続で,とにかく痛いことばかり。もう癪だから本でも書いてやれ! と書き始めたんです(笑)。だから痛みを乗り越えた体験が中心で,医師の立場から読者の役に立つアドバイスは書けていないと思います。

石井 それでも啓発的な内容が随所にありました。がんの進行度を示すTNM分類やステージ分類,ACP(Advance Care Planning)の要点などが細かく書かれていて,がんの患者さんにお薦めできるなと。

松永 病気はリアルに書いてこそ痛みや悩みが伝わるとの思いがあり,できるだけ精緻に,だけど専門用語は極力使わずに書きました。

石井 リアルに書く,そこですよね。医師ならではの病気の詳細な描写,そして患者としての弱さなど,言葉の修飾に逃げない松永先生のありのままの姿がさらけ出されていて,心に刺さりました。

松永 自分自身の悩みととことん向き合い,深く掘り下げれば,何か明るい光が見えるのではないか。そう考え本書を書き進めたことで,当時の自分の悩みを言語化できたと思っています。

松永 石井先生は,闘病を経てから医師になった点がぼくと異なります。あらためてご紹介いただけますか。

石井 私は15歳の時に潰瘍性大腸炎になり,19歳で大腸全摘出術を受けました。闘病中,常に励ましてくれたのが医師で,ヒーローのようにかっこいい姿に憧れたんです。そこで一念発起して医学部をめざし,29歳で医師になりました。

松永 今は在宅医をなさっています。どのような経緯があったのでしょう。

石井 先生が大学で研究・教育・臨床の3つを柱に研鑽を積まれたのに対し,私は臨床・経営・政策の3つのレイヤーで社会的なイシュー(課題)の解決に向けキャリアを積んできました。

 高知県の急性期病院から医師人生をスタートした後,自身が大腸全摘出術を受けた病院で消化器外科医としての腕を磨くため研修を受けました。しかし,手術では救えない大腸がん患者さんもたくさんいて……。自分の手術の腕を上げる以外に,患者さんを救うアイデアは何かないかと考えるようになりました。より多くの人に消化器疾患の情報を届けようと「日本うんこ学会」を設立し,大腸がんの早期発見を啓発するスマホゲーム「うんコレ」を開発しました。

 退院した患者さんの暮らしについて考える中,病院外の医療をどう提供すれば患者さんの人生を豊かにできるかに関心を持ち,厚労省への2年間の出向を経て,今は在宅医として仕事をしています。人生の最期を診ることが多いため,死について考える機会も必然的に増えました。特にがんは,生存率が上昇しているとはいえ,患者さんは死を意識せざるを得ない病気です。先生はがんになり,死について何をお考えになりましたか。

松永 40歳で解離性脳動脈瘤に倒れた時は,自分が死ぬことをイメージできませんでした。まだ若かったからでしょう。ところが膀胱がんになった時は,とにかく「死にたくない」との思いで頭の中はいっぱいで。自分がいなくなってしまうことが怖いのではなく,ぼくが死んだらクリニックの仲間や家族に迷惑をかけてしまうとの思いからです。

石井 人間はさまざまな顔を持ちますよね。松永先生であればクリニックの院長であり,患者さんにとってのお医者さん,家庭では夫であり父親です。でも病気を機に生じた「患者の顔」は,ご自身の中であまりに存在が大きく,生活の全てが患者の顔になってしまうつらさがあったのではないでしょうか。

松永 そうですね。自分の闘病体験を振り返って何が一番つらかったかというと,やはりスピリチュアル・ペインです。あれはきつかった。がんを宣告されてからは病気がぼくのメンタルを支配し続けました。闘病中は死から逃げることばかり考えて,真正面から向き合えませんでした。

石井 医師のアドバンテージが生きた場面もあったのではないですか?

松永 いえ,それが全然ありませんでした。がんの専門家だったはずなのに,患者になった途端に自分を見失ってしまい,論理的思考もできなくなりました。毎晩寝る前に額の前で両手を合わせ,助かるようにと祈ったほどです。患者はそれほど弱い存在なのだと思い知らされました。

石井 お気持ち,すごくよくわかります。思考が前に進まなくなってしまうんですよね。私も病気の時,まるで「悩みの山手線」にずーっと乗っているような感じでした。

 著書の中で私が心を打たれたのは,「子どもは自分の人生をまとめられない。それが可哀想だ」と語った,がんの子の父親の描写です。今振り返れば,19歳の私も自分をまとめることができない存在だったなと。10代の闘病でいつしか周囲との関係性は薄れ,高校も不登校になってしまい,人生破れかぶれみたいな心境で生きていたんです。体重は32kgまで落ち,立ち上がることもできないほど衰弱した19歳のある日,大量下血をして死を覚悟しました。その瞬間「死んだらどうしよう」との不安よりも,この世に自分が生きた証拠を何も残せないまま死ぬことへの怖さを感じたのです。それが私にとってのスピリチュアル・ペインだったのかもしれません。先生は悩みのループから,どう脱したのですか。

松永 悩むことに横着になるというか,悩みに真正面から向き合わないことにしました。悩みを処理しようと後ろ向きのエネルギーを使い続けた結果,最後は疲れ果てて行き止まりにぶつかったのです。それで「あぁ,もう前を向くしかない」と,諦めと開き直りの境地に達したことで,悩みから脱することができたのだと思います。

石井 まさにE・キューブラー=ロスの「死の受容のプロセス(否認と孤立・怒り・取引・抑鬱・受容)」をたどったわけですね。私も命を失うかもしれない心境を受け止めたことで,自分の生きた爪痕を何か残したいとの思いが湧き上がり,それが社会課題を解決したいと思う今の原動力になっています。

石井 先生は著書の中で治療の際の身体的な痛みもリアルに記されています。膀胱鏡検査は相当痛いのですね。

松永 あれは人間が耐え得る限界の痛みですよ。ステンレスの真っ直ぐな棒をL字に曲がった尿道に入れるわけですから。

石井 私が今まで一番痛かったのは肛門周囲膿瘍の切開です。それと同じような痛みを受ける痔核の患者さんには,痛みの程度を自分の言葉で伝え,可能な限り痛み止めや麻酔を使って切除しています。患者を経験した強みは,患者の身体的な痛みがわかることかもしれません。先生は闘病後,患者さんへの対応に変化はありますか?

松永 子どもが痛がる採血もしたくなくなりました。外傷で来院した子も,出血が止まらない場合以外は縫わずにサージカルテープの処置にとどめることもあります。

石井 痛みを基準に,本当に必要な治療かを患者に寄り添って考えられるようになりますね。

 先生は治療の遂行中心の医療に対するアンチテーゼも,著書のところどころで投げ掛けているように感じました。例えば「24時間,ベッド上に拘束されるのはつらかった」など。

松永 実際,本当に必要な医療か疑問符のつく対応もありました。

石井 管理される側になって初めて,医師側の都合でできたロジックに気付くことがありますね。

松永 ええ。ぼく自身患者になって一番疑問を抱いたのは,医師から患者への説明の仕方です。医師が診断をつけた後,患者にいったいどれほど時間を取って病気の説明をしているのか,と。ぼくの場合,膀胱がんになっても主治医から大した説明を受けなかったんです。膀胱がんは,がんの原発巣が粘膜の内か外かで治療方針が異なります。粘膜内に腫瘍がとどまっていればTUR-BT(経尿道的膀胱腫瘍切除術)で取れるけれど,粘膜の外まで腫瘍が浸潤していると膀胱全摘出になる。内か外かで天国と地獄ほどの差があるのに,そんな大事な話さえも教えてもらえなかった。「え,これでおしまい?」と拍子抜けするほど簡単で。

石井 ご専門の小児がんであれば,ご家族の理解や治療方針への納得を醸成するために,とりわけ説明に長い時間を取るはずで,先生の診療マインドからすれば,なおさらギャップを感じたのではないでしょうか。説明する時間が少ないのは,大腸がんの治療に携わってきた私も同様の問題意識を持っていて,先生の著書を読んであらためてハッとさせられました。

松永 大学にいた時,小児がんのお子さんのご両親には最初,1時間半ほどかけて説明をしていました。DNAとは何かという病気のメカニズムに始まり,抗がん剤,放射線療法,手術を組み合わせた集学的治療の内容,そして将来の予後まで。患者数が絶対的に少ない小児がんだから,一人にじっくり向き合えたのも確かです。しかし,サイエンスに基づき時間をかけた説明を心掛けていた自分にとって,成人医療との差の大きさには驚きました。

石井 インフォームド・コンセント(IC)は,ともすれば患者が納得を得るよりも医師が自身を守るリスクの説明に重きが置かれて,結果的にこれから治療を始めようとする医師と患者との間に出発点の違いを生み出しているのかもしれません。

松永 その通りです。本当の意味でのICは十分に説明を尽くし,患者さんが納得した上で自発的に同意すること。比喩を使い,何となくわかるような説明で終わってはダメなんです。だからぼくは,レベルが高くてもサイエンスの話を持ち出して説明を尽くす必要があると今でも思っています。

石井 情報の非対称性と言われるように,患者さんよりも専門的な情報を持つ私たち医師は,比喩で納得を得ようとしがちかもしれない。私もついやってしまいます。でもそうではなく,時間をかけて説明した上で,患者さんが腑に落ちる感じが大切になるのですよね。

 多忙な医師の負担を減らすためには他職種が疑問や不安に答える機会を設けることや,動画サイトを用いた事前のガイダンスなど,テクノロジーやデザインの力を駆使した方法も解決に向けたアクションになるでしょう。

 在宅医療の現場では死に関する深いコミュニケーションを求められる場面が多いですが,長い時間を話せばいいわけでもありません。いかに「関係性を深めるか」が最近の私のテーマです。

石井 今はがんも消えたそうですが,現在の心境と医師としての今後の歩み方についてうかがえますか。

松永 闘病から7年が経ち,治療のめどもついた今は自分の死を冷静に見られるようになりました。それは一つの成長かもしれません。

石井 人の成長には,自分の腕を磨くようなスキル面と,表には見えない心の面とがあると思っています。言い換えれば,目に見える葉っぱの成長と地中の根が育つ成長です。このうち根っこの成長は自分と向き合うことでしか成し得ない。病いの体験を通じ自分と向き合った結果,人生を豊かにする心の成長があったのではないでしょうか。

松永 医師は一生をかけて一人前になるもの。そう考えれば闘病の経験が今後に生きるのかもしれませんね。最近,「いい医者って何だろう」とよく考えるんです。答えはまだ見つかっていませんが,キーワードは「誠実であること」かなと。ある講演でご一緒したクリスチャンの方が使っていたんです。そういえばヒポクラテスの誓いにも,医の倫理を規定したジュネーブ宣言の中にも「誠実」の言葉は出てこない。患者体験から内省を深め,誠実な医師像を追い求めたいと考えています。

 まだ40代の石井先生は,今後何をなさりたいのでしょうか。

石井 病院の外でできる医療にどんな形があるのか,暮らしに近い医療を自分なりに模索していくつもりです。自分が課題だと思ったことにアクションを起こすタイプなので,新しくチャレンジしたいことが次々出てくるのかもしれない。おそらく,出会った患者さんによって決まっていくのだと思います。

 最後に医師の先輩,人生の先輩である松永先生からアドバイスをいただきたいのですが,40代で「これだけはやっておけばよかった」ものはありますか? というのも,41歳になった私は「ミッド・ライフ・クライシス」と言われる,家庭環境や働き方の見直し,キャリアチェンジをどうするか悩む世代に差し掛かっているからです。

松永 とにかくがむしゃらにやったらいいと思います。40代はまだまだ馬力があるし,医師として伸びる時期。ぼくは外科医として脂の乗った40歳で解離性脳動脈瘤に倒れ,44歳でメスを置いたことが心残りです。16年経った今も手術を執刀する夢を見るんです。60歳から見たら40代は若くてうらやましいですよ。石井先生の,患者経験を生かした活躍に期待しています。

石井 なるほど,まだまだ前進あるのみの年齢なのですね。もっと頑張らねば! という気持ちになりました。今日はありがとうございました。

(了)


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松永クリニック小児科・小児外科 院長

1987年千葉大医学部を卒業し,小児外科医となる。大学病院を中心に19年にわたり小児がん外科医として研究・教育・臨床に従事。2006年に松永クリニック小児科・小児外科院長。53歳で膀胱がんと診断され,その闘病体験を『ぼくとがんの7年』(医学書院)にまとめる。『運命の子 トリソミー――短命という定めの男の子を授かった家族の物語』(小学館)で13年,第20回小学館ノンフィクション大賞を受賞。『発達障害に生まれて――自閉症児と母の17年』(中央公論新社)で19年,第8回日本医学ジャーナリスト協会賞・大賞を受賞。その他,著書多数。(Twitter ID:@mtng595

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おうちの診療所 中野 院長 株式会社omniheal代表取締役

19歳の時に潰瘍性大腸炎により大腸全摘出術を受けたのをきっかけに医学部受験を決意。2010年高知大医学部卒。横浜市立市民病院炎症性腸疾患科,厚労省医系技官などを経て,現在は在宅医療を展開する「おうちの診療所」を運営し,株式会社omniheal代表取締役,秋葉原内科saveクリニック共同代表,高知医療再生機構特任医師,ヘルスケアコミュニティSHIP運営代表などを兼務。「日本うんこ学会」を設立し,大腸がんの早期発見をめざしたゲーム「うんコレ」を開発・監修。著書に『19歳で人工肛門,偏差値30の僕が医師になって考えたこと』(PHP研究所)など。総務省の異能(Inno)vationプログラムでは19年度「破壊的な挑戦部門」の挑戦者に選出された。(Twitter ID:@ishiichangdesu

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