医学界新聞


日常生活の記述から従来の世界観を問い直す

対談・座談会 今江 秀史,細野 知子

2021.09.27 週刊医学界新聞(看護号):第3438号より

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今江氏が勤務する元離宮二条城(京都市)の二の丸庭園にて撮影

 日常生活の根底に潜む出来事を記述し,現状の実践を好転させたい――。その目的に応える学問的手法の一つに現象学的研究がある。現象学の知見と方法論を基に,根源的な経験にまでさかのぼり解明する現象学的研究は,看護でも近年蓄積が進む。
 日常の語りから「生きられた経験」を明らかにする現象学的研究を用いることで,従来の世界観はどう変わるのか。糖尿病とともに暮らす人々の経験を分析する細野氏と,文化財である庭の維持・継承に現象学を援用する今江氏の2人による異分野の対話から見えてきたのは,自身の専門から一度身を離し,日常生活の声に耳を傾ける大切さだった。看護と庭,異なる領域から,現象学的研究のアプローチの有用性と実践に生かすヒントが語られた。

細野 私と同時期に博士号を取得した今江さんとは,2015年の「臨床実践の現象学会定例研究会」で知り合いました。研究のテーマが庭と知り,文化財保護の実践を記述するにも現象学が使えるのかと驚いたのを覚えています。

今江 日常の生活世界を対象とする看護分野の現象学的研究には,研究会を通じて私も大きな刺激を受けています。

細野 ご著書の『京都発・庭の歴史』(世界思想社)を読み,庭を見る目も変わりました。庭の管理や文化財保護に携わる今江さんが,現象学を今のお仕事に取り入れた狙いは何だったのですか。

今江 庭で生じているさまざまな出来事の本質を,現象学的な手法から分析したいと考えたことです。庭の修理や管理に関する伝統的な技術や考え方を,後世へ継承できる記述方法をもともと模索していました。

細野 現象学との出合いはいつ頃のことだったのでしょう。

今江 庭の勉強を始めた学生時代です。当時ハイデガーの『存在と時間』(ちくま学芸文庫)を,木田元先生の『現象学』(岩波新書)や『ハイデガーの思想』(同)を手引に悪戦苦闘しながら読んでいました。その経験が後に修士課程で庭を研究する際に,偶然にも現象学と庭を結びつけたのです。

細野 学生時代から現象学が身近にあったのですね。それをなぜ,庭に用いようと思い至ったのか詳しくお聞かせください。

今江 庭の歴史や維持・継承を考える上で真理的な裏付けが不可欠と考えたからです。従来の庭の研究では美しさや意匠などの印象が多く語られるか,空虚な数値が提示されるだけで,庭が人々のどのような意志や動機に基づき今のような姿形,そして使われ方に至ったかはあまり語られてきませんでした。

細野 それにはどのような背景があったのでしょうか。

今江 庭を対象とする学問が自然科学の客観の名の下,数値化や類型化に重きを置いてきたためです。

 私たちの目の前にある庭の研究と,近代科学としての「庭園研究」は,実は似て非なるもの。庭園研究は,空間という“想定の実験室”を研究者が設定した上で,庭や庭にかかわる人々を空虚な物体として取り扱うのです。それは,歴史を通じた日常生活の声を反映した実態とは根本的に質が異なります。

 庭は本来,人々の生活に根差して造られ,継承されてきたものです。日常生活とは異なる想定の庭の研究では,成果を実践に役立てることは永久にできません。そこで,日常生活の庭そのものを研究する術があるはずだと考え,最初は自説の理論武装として現象学に着目しました。

細野 すると今江さんは,従来の庭の研究手法や近代の庭園研究に納得がいかなかったわけですか。

今江  そうです。庭にある池の水は揺らぎ,樹木は伸び続け,人々が使い続けています。その動いている状態を止めず,誰もが日常生活の水準で納得や共感できる理論を見いだす。そして実践に展開しながら将来にわたり再現可能な記述スタイルを確立したいと考えました。これまでの研究に対する反骨精神が私の現象学的研究の出発点であり,その一つの答えが博士論文と自著『京都発・庭の歴史』なのです。

 一方の看護学の分野では現象学的研究が既に数多くなされていますね。細野さんが現象学を看護に用いた経緯は何だったのですか。

細野 慢性期看護が専門の私は,糖尿病を病む人の経験に関心がありました。気が付けば入院を繰り返す患者さんへのケアに,臨床時代から没頭していました。退院しても食事療法や薬物療法が続かず,また入院する「困った患者さん」に興味があったのです。

 そこで臨床を経て進んだ修士課程では,糖尿病とともに暮らす人の病いの経験をライフヒストリー研究で明らかにし,博士課程では現象学的研究によって日常のより根源的な経験まで掘り下げた理解を試みました。

今江 糖尿病の看護に現象学を用いた先には,何をめざしているのでしょう。

細野 糖尿病とともに暮らす人が生活をうまく調整し,血糖値を改善できるような道具の開発です。具体的には,血糖値などを記録する手帳です1)

 現象学は,私たちが身のまわりのものとどうつながり,習慣がどう作られるかを教えてくれる学問です。日常の根源的な仕組みがわかれば,どのような道具が役に立つか構想が膨らみます。

今江 現象学によるものの見方は実際,糖尿病の看護にどう生きるのですか?

細野 科学的根拠だけではなく,経験を根拠にした糖尿病看護の創出です。病気を治す目的の医療は,技術の進歩によって生命体が持つ弱さを克服するような力を持つ一方で,さまざまなことが絡み合う人間の生活はコントロールしきれるものではありません。人間は老い,病む存在であり,たとえ気をつけていても糖尿病合併症が進んでしまうこともあります。医療でコントロールを図ったり,時には図れなかったりしながらも,元気でいようと細心の注意を払い糖尿病や老いを生きる姿こそが人間には自然です。このような“でこぼこした”素朴な生活経験の記述から,その人の経験に沿ったケアにつなげたいと考えています。

細野 今江さんのご著書からは庭を介した日常生活とのつながりを大事にされている様子がうかがえ,共感を覚えました。庭の所有者や庭師,利用者などさまざまな登場人物の日常生活に耳を傾ける大切さを強調していますね。私も糖尿病とともに暮らす人々の背景にある,日常生活の丁寧な記述を心掛けています。今江さんがなぜ,日常生活に関心を寄せるか興味を持ちました。

今江 庭にかかわり続ける人々の,日常の意識に潜む悩みや痛みに共感したいとの思いからです。現象学的手法により,専門家・研究者としての意識をいったん保留することで,日常生活に耳を傾けやすくなると考えています。ともすると専門家は科学の手法や実績を信頼するあまり,自身の直観や実体験を度外視して科学分野の取り決めを優先してしまいます。その結果,見落としや蛇足が増えて物事が進みにくくなってしまうことがあります。看護でも同様の葛藤はありませんか。

細野 医療を提供する側と受ける側という関係に固着することで,医療者が患者の経験を十分理解できない場面でしょうか。例えば医療者は,検査値だけで糖尿病予備軍の方をあたかも「患者」であるかのように対象化したり,自己流の治療や取り組みをする方を「問題患者」と見なしたりしがちです。

今江 なるほど。

細野 そうした見方からは,その人の生活する振る舞いは「患者としての行動」としか映りません。常に「患者」としてしか見なされないとわかると,医療者にはそのうち「患者」としての姿しか見せてくれなくなります。生涯続く糖尿病治療では,生活する姿を生き生きと見せてもらうことが大切です。

 今江さん自身が共感を求める「痛み」とは,具体的にどのような場面で生じるものですか。

今江 例えば庭の修理や管理に携わる方々と方針を検討する時です。庭を文化財に指定された所有者にとって,毎年の維持管理や修理などに必要とされる経済的な負担は実に大きなものです。また,庭を修理する職人さんは四季を通じて,暑さや寒さ,病害虫の被害への対策などを講じながら庭木の健康状態を見守っています。行政の立場で主に助成金の交付や助言を仕事とする私は,これらの負担や苦労の全てを経験できるわけではない。よって,どうしようもない後ろめたさを感じざるを得ないのです。

細野 不全感のようなものでしょうか。

今江 はい。言わば自我と他我における分かち合えない意識差です。この溝を埋めるために自他二元論にとらわれない現象学の概念が使えるのではないかと考えました。意識差を乗り越える過程は,細野さんの実践でも想定されるものですか。

細野 そうですね。目の前に苦痛を抱える人がいれば,看護師は寄り添ってその苦痛を緩和したいと強く意識する職種です。時には同じ痛みを感じられず無力感に襲われることもありますが,苦痛の経験は誰しもあるもの。痛む箇所にそっと触れて観察したり,そばにいて苦痛を和らげようとしたりして,苦痛にふさわしいかかわり方を自ずと行います。

 苦痛について同じ意識は持てなくても,身体のレベルでわかり,応じている。そうした根源的な行為が看護実践にはあるのです。これはメルロ=ポンティの言う「間身体性」の概念にも通じるでしょう。

 既存の見方を相対化する現象学を用い,今までと異なる見方から患者さんの生活や看護実践を見いだせれば,ケアの在り方も変わるはずだと私は信じています。

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元離宮二条城二の丸庭園

細野 今江さんが実践で直面した「後ろめたさ」の克服を,現象学にどう求めたのですか。

今江 痛みや負担を乗り越えられるほどの充実感や喜びを,庭の維持にかかわる皆さんに得てもらうことです。そこでフッサールの「志向性」に着目し,複雑な対人関係における数々の主観に一貫性を見いだそうと腐心しました。

細野 何かへ向かう意識の根本的働きである志向性の理解が,日常生活に耳を傾ける大切さにつながるのですね。今江さんは志向性をどうとらえているのでしょう。

今江 日常世界に人の数だけある個人の主観は,言葉を代表とする「記号」を用いることで,自らの閉じた主観から他の主観へと超越が可能になると考えています。私の主観と他の主観が互いに超越し合う関係,つまり「間主観」の働きにより意思疎通は成り立っていると言えます。

細野 間主観から同じ目的を見いだせれば,関係者の充実感も高まるだろうと考えたのでしょうか。

今江 その通りです。目的よりも「志」が適当かもしれません。志は異なっても落としどころが同じであれば,庭の修理や維持管理にかかわる全ての関係者が何らかの充実感を得られます。各人が抱える情熱や不安も個々に受け止められる。だから私は対人関係の構築に役立てるべく「志向性」の概念に立脚し,関係者の立場と役割,庭に対して抱く悲喜交々の思いや充実感に耳を傾けるよう努めました。

細野 それを現象学的手法で研究したのが,ご著書にもある壬生寺の庭の修理の事例でしょうか。

今江 はい。大学院で同じゼミに属する現象学の理解者を聞き手に,庭の所有者と庭師,さらには私自身をも含む聞き取り調査を行いました。聞き取りデータの分析を通じて浮き彫りになったのは,修理現場の中での主観の押し付け合いや無関心から,互いの意思がうまく通い合っていなかった点です。

 そこを私が所有者と庭師の主体性を触発したことで,主観の網の目が整然と現れ相互の志が定まりました。その結果,皆の意思が束ねられ修理がよどみなく進む良いスパイラルが生まれたのです。

細野 すると,志向性を束ねることは一般的に「合意形成」とも置き換えられるかもしれません。

今江 そうですね。志向性は絶えず変化を繰り返すもの。だから私は原理主義的な「目的」の言葉を用いません。

 この調査から,日常での行動が志向性に裏付けられていると気付かされました。それから何年も修理を続けるうちに,現場で最善策を導くための整理,判別,判断がしやすくなりましたね。

細野 現象学の概念に頼ることで,それぞれの志を自覚し好転させられた体験は,今後にも活用できるのではないですか。

今江 おっしゃる通り,所有者や庭師の間に生まれた成功体験を積み重ねられれば,どのような庭でも抜本的な修理が可能になり,将来の継承に寄与できると期待しています。

 成功体験のスパイラルには一種の普遍性があり,庭の保護以外にもさまざまな実践に置き換えられると確信しました。それは看護にも当てはまるでしょう。現象学的研究はさまざまな実践に役立つ可能性を秘めているのです。

今江 細野さんは現象学を研究に用いたことで,看護の実践に新たな視点が得られたエピソードはありますか。

細野 「食事療法を継続できない糖尿病患者」という見方から変わる理解が得られた例です。博士論文の研究で糖尿病の高齢女性に同伴して,入院中の食事場面から退院後の定期診察までフィールドワークとインタビューを重ねました2)

今江 何か特徴的な語りを抽出できたのでしょうか。

細野 私が注目したのは自宅での食生活に関する女性の発言です。家では「みかんなら2個,3個」,残り物のカレーやら家族が職場でもらってきたケーキがあり,あれば「食べちゃう」と語る内容から,糖尿病治療での食事療法がめざすのとは異なる,身のまわりに食べ物がある家で暮らす様子がありありと浮かび上がりました。

今江 環境の影響が大きいとされる生活習慣病の,まさに生活そのものを目の当たりにしたわけですね。

細野 ええ。糖尿病と暮らす人の食事を「食事療法」とみなす見方をいったん留保し,食事経験として現象学的に記述しました。経験の中に現れる意味を徹底的にとらえることで,次の方針を初めて考えられると考察しました。

今江 自身の先入観を一度取り除き,庭の修理に向き合った私の間主観の考えとも共通します。語りから見えた家での生活を踏まえ,その環境を転じることで患者さんの食事療法に対する姿勢を変えるきっかけをつかめるのではないでしょうか。

細野 そうですね。糖尿病治療の基本である食事療法の継続は,その人の意志や能力に起因すると見なされがちです。しかしケア提供者が,その人の食事経験を食事療法という見方だけで理解するのは,糖尿病とともに暮らす人々の食事の意味をとらえ損ねる可能性があります。食事療法継続の難しさを理解するには,食べているその人の経験をわかることがまずは必要であり,ケアする側の糖尿病治療に対する見方が問い直されなければなりません。糖尿病とともに暮らす人々の生活世界を現象学的に書くことで,その食事経験をとらえる新たな見方を提示できれば,その人の生活と調和した治療やケアのアプローチも検討できるでしょう。

細野 今日の対話から,歴史的価値のある庭を守るために多様な人々の複雑に絡み合う志向性を整えながら,数十年,数百年にわたり庭を継承しようとする今江さんの実践にあらためて感銘を受けました。

 庭の木々や池の様子,庭にかかわる人々の生活を記述しようとする姿勢は,糖尿病の治療を続けながら暮らす人々の営みを描写したいと考える私の問題意識とも通じると実感しました。

今江 細野さんが研究で着目した患者さんの分析のように,自分たちの生活世界と自然を含む他の環境は密接に結びついています。閉じられた生活世界に身を投じて暮らす患者さんは,自宅,病院,職場などさまざまなつながりの中で病気の状態が変わってくるのではないでしょうか。私から見れば生活世界それ自体が本人にとっての「庭」でもあるんですよね。よって,日常生活で起こる事象の根底から,共通性や狭義の普遍性が見いだせるはず。それは庭の研究だけでなく医療の世界でも同様で,共に行動し語りを分析する手法には,看護にも親和性や汎用性を持つのではないでしょうか。

 庭の現象学的研究は,看護界にも寄与できる面がありそうだと思いました。

細野 生活世界を日常にある「庭」としてとらえる見方は,看護にも新たなアイデアをもたらしそうな予感がします。当たり前の経験として私たちの中に埋め込まれた意味を書き起こせるのが,現象学的研究の魅力です。私たちが気付いていない,生活を彩る事象はまだ無限にあります。身近な日常生活の記述から従来の世界観を問い直し,新たな看護を提示できそうな手応えを,今江さんとの対話から得ました。本日はありがとうございました。

(了)


1)細野知子.糖尿病手帳をつける経験の現象学的探究――自己血糖測定時のつぶやきを通じて.現象学と社会科学.2021;4:69-87.
2)細野知子.食事療法の難しさを伝える糖尿病者における食事経験の現象学的記述.日糖病教看会誌.2019;23(1):43-51.

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京都市文化市民局元離宮二条城事務所

「自我と他我における分かち合えない意識差の溝を埋めるために,自他二元論にとらわれない現象学の概念が使えるのではないか」

京都芸術短大(当時)専攻科ランドスケープデザインコース卒。京都造形芸術大(当時)大学院芸術文化研究科修士課程修了。2017年阪大大学院人間科学研究科博士後期課程修了。博士(人間科学)。02年より京都市役所に勤務し,現在は元離宮二条城事務所にて,京都市内における文化財庭園の保護,二条城の営繕と歴史研究に携わる。専門は庭の歴史や仕組み,修理・維持管理,職人言葉の研究。著書に『京都発・庭の歴史』(世界思想社)がある。

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日本赤十字看護大学 看護学部 講師

「既存の見方を相対化する現象学を用い,今までと異なる見方から患者さんの生活や看護実践を見いだせれば,ケアの在り方も変わる」

東京医歯大医学部保健衛生学科卒。病院勤務後,静岡県立大看護学研究科修士課程,自治体の非常勤保健師などを経て,2017年首都大学東京大学院(当時)人間健康科学研究科博士後期課程修了。20年より現職。博士(看護学)。現象学的研究による糖尿病の人々のための道具開発の他,東日本大震災で原発事故に見舞われた福島県で糖尿病発症者の語りの記述に取り組む。共著に『現象学的看護研究』(医学書院),『“生きるからだ”に向き合う』(へるす出版),『現代看護理論』(新曜社)など。