医学界新聞

看護のアジェンダ

連載 井部 俊子

2021.07.26 週刊医学界新聞(看護号):第3430号より

 新型コロナウイルスワクチン接種の「高齢者枠」に該当する年齢になると,たいていのことに驚かなくなります。とりわけ医療現場での経験が,人の生き死にについて冷静に考え対処することの底力をつけてくれたように思います。つまり,身の回りで起こることで「お手上げ」になる“案件”はほとんどなく,合理的な意思決定をしてきたと思っていました。後輩には「遠慮と貧乏はしないように」などと言って生きてきました。

 それなのに,私にとって久々の「お手上げ」状況が起きたのです。

 それは,2021年6月の水曜日の夜でした。毎週,必ず見ることにしているBSテレビ『刑事コロンボ』の「死者のギャンブル」を見終わったのが午後10時33分でした。

 途中,台所で「コトン」と小さな音がしました。冷蔵庫で氷がつくられた音だろうと思って気にしませんでした。午後11時からの「おかえりモネ」の再放送を見て寝ようと思い,台所に向かった時です。足もとの床に水がたまっていました。「なに,これ」と最初は落ち着いていました。

 ところが,台所のシンク下の扉の隙間から水が静かにひたひたとあふれ出てきたのです。扉を開けると,見たこともない光景がありました。ちょっとした“噴水広場”でした。勢いよく水が吹き上がり,シンクの底にぶつかり流れおちています。そして台所の床を占拠し,水浸しの範囲を拡大していきます。

 ひとまず水を拭きとろうと考えて,古いシーツやバスタオルを動員して“土手”をつくりました。しかしまたたく間に土手はぐしょぐしょになりました。次に,なりゆきに抵抗するよりは,あふれ出る水を容器で受け止めて排水しようと考え,鍋をいくつか並べて,“ひとりバケツリレー”をしました。

 対症療法だけでは根本治療にはならないと考え,近所の方に「ピンポン」して,「水があふれて困っている」ことを伝えました。その方が,この集合住宅の管理会社に通報してくれました。管理会社の「24時間365日対応」コールセンターより,管理会社とビルメンテナンス会社から人員を派遣するという返答がありました。

 待つこと30分くらいだったでしょうか。ずいぶん長く感じました。その間,私はひたすら「ひとりバケツリレー(正確には鍋リレーですが)」を続けていました。この洪水は下の階に被害をもたらすのではないかという大きな気掛かりを背負いながら。

 夜の12時半をまわった頃,まず警備会社の社員が到着しました。りりしい制服姿の彼は,玄関脇にあるパイプスペースをあけて,水道の元栓をぐいっと閉めました。それであの噴水は止まりました。なんと頼もしく思えたことでしょう。私も“対症療法”中に「元栓を閉めることが必要」と考えたのですが,そしてパイプスペースを開けてみたのですが,元栓が固くてビクともしなかったので閉めることをいとも簡単に放棄したのです(これが大きな反省点のひとつです)。

 管理会社からの指示で派遣されたビルメンテナンスの専門家が到着したのは午前2時頃でした。「クロダです」と名乗った彼は,黒色のタオルを頭に巻き黒装束をつけた男性で,忍者のようでした。水が止まって落ち着きを取り戻していた私は,「忍者のようでかっこいいですね」と話す余裕がありました。

 クロダさんは台所の下に潜り込んで,すぐに漏水の原因を“診断”しました。給湯ホースに亀裂が生じているというのです。彼がライトで照らして見せてくれた箇所には,数か所の亀裂がありました。クロダさんは給湯ホースの止水栓を閉めたあと,玄関の外にあるパイプスペースに向かい水道の元栓を開けました。

 「これで大丈夫です。キッチンもトイレもお風呂も使えます」と言いました。私が「夜遅くに駆け付けていただき助かりました」と礼を述べると,「夜勤専門ですから」と淡々と話してくれました。さらに,水漏れの影響を受けた下の階から順番に対応してきたので,水漏れの源である私の部屋に到着するのが遅くなったのだと説明してくれました。もっともな対処だと思いました。こうして事態が収束したのが午前2時半,就寝は午前3時でした。

 3日後,ビルメンテナンス会社の専門家シバタさんがやってきて,台所のシンクの下に潜り込み,仰向けになって,劣化した一連の蛇口からホースまでを取り替えてくれました。シバタさんによる「シングルワンホール混合栓」の資料説明で,台所のお湯と水の供給がどのようなメカニズムによるのかを理解できました。

 ひとびとの安心・安全(菅首相の定番のフレーズです)な生活を維持するためのネットワークと,かけがえのないエッセンシャルワーカーに出会い,私は心から感謝したのです。彼らには確かな技術と矜恃がありました。

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