医学界新聞

名画で鍛える診療のエッセンス

連載 森永 康平

2021.04.12 週刊医学界新聞(レジデント号):第3416号より

 「視点の多様性」。言葉面だけではイメージが湧きにくいかもしれません。しかしアート作品を前にして対話を行うと,「さまざまな視点が存在し得る」ことが,鮮明に浮き彫りとなっていきます。

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 今回の名画では,まず中央にいる猫にならって外を眺めてみましょう。近くには田園の景色が広がっており,はるか遠くには空をバックに複数の鳥が舞い,美しい山がそびえています。筆者は空の様子から朝焼けかなと考えていたのですが,猫を飼っている筆者の友人は「朝には猫は暖かいところに縮こまっていて,窓沿いにいるはずはないから夕方だろう」という見事な推理を披露していました。

 また左下にはかんざし,右下には茶碗と手ぬぐいが置いてあります。友人は「1本だけ外れているかんざしは女性が試しに着けてみたもの?」「手ぬぐいと茶碗は少し前まで使われていた余韻を感じる」と,それぞれの物語を見いだしていました。

 実はこの絵は,鷲明神・富士山方面を眺める吉原遊郭の控部屋を表しています。吉原遊郭という情報を踏まえると,絵の印象や気付きが変化しませんか? 猫はただ外を眺めているのではなく,ここで働いている女性の「外に出たい」心情を代弁している,という見方もできるかもしれません。かんざしは女性の商売道具,手ぬぐいと茶碗は男性客のものでしょうか。

 同作品を見てもそこからの気付きや見いだされる物語が人によってさまざまなのは興味深いです。また個人の気付きも知識や心のコンディションなどで変化していきます。

 複雑な背景や多種の因子が絡み合う医療の世界では,正しいのか間違っているのかという二元論で語れない疑問はますます増えていくことでしょう。疾病の治療については,各分野で日進月歩に研究が進められています。しかし目の前の患者さんの多くはその最新情報を知りません。むしろ親しい人とのやり取りや新聞記事,TVでの特集番組などから持った,医療者からすれば違和感を覚えるイメージが占める割合が大きいです。それを黙殺して一方的に「医学的にはそうではありません」と言い切ってしまうと,患者さんには「あなたが見聞きし,感じたり考えたりした視点は間違っている」という叱責として伝わってしまいます。結果患者さんを萎縮させ,自然な反応や発言を封じ込めてしまいかねません。

 私たち医療者には専門的な知識や技能に基づく判断力だけでなく,「視点は人によって異なる」という原則を敬い,まずは異なる考え方が存在していると認める度量も必要でしょう。病いに悩み,診察室に緊張しながら入ってくる患者さんにとって,発言をそのまま否定せずに聞いてくれる空間はとても安心できる場所となります。

 安田弘之の漫画『ちひろさん』(秋田書店,2018)に,「私たちは皆 人間という箱に入った宇宙人なんだ。『同じ人間だから』ってよく言うけど一人ひとりが皆来た星がバラバラなんだからわかり合えないのが当然なんだ」というセリフが出てきます。これは人との接し方で日々悩む私たちに力をくれます。短い時間で患者さんのことを理解し切ることに躍起になるよりも,「違いがあって当然」と意識するだけで,肩の力を抜いて診療に取り組めるのではないでしょうか。


今回の名画:浅草田圃酉の町詣(歌川広重)

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