医療人類学と保健・医療・福祉の学際研究が開く
ヘルス・エスノグラフィの可能性
寄稿 道信 良子
2020.10.26
【寄稿】
医療人類学と保健・医療・福祉の学際研究が開く
ヘルス・エスノグラフィの可能性
道信 良子(札幌医科大学医療人育成センター教養教育研究部門 准教授)
今,地球も,地球に生きる生命も切実な事態に直面している。地球温暖化に伴う気候変動があり,新型コロナウイルスをはじめ新興・再興感染症も広がっている。人間社会はかつてさまざまな絆につながれ,大勢の人と一緒に暮らしてきたが,人と協働して生きる仕組みは今では失われつつある。
そのような中にあって,人々がこれからも生命をつないでいくための力となる「生きた学問」となるために,人類学はどう発展していけばよいのかを筆者は模索している。それと同時に,人間の健康と医療をテーマとする専門領域である医療人類学が人間の生命に関心を持ち,より良い在り方をさらに追求できるものになるために人類学から独立し,ヘルス・サイエンスの領域で発展していく可能性を思考し続けている。
布を織り成すように人間の生の営みを表現する
筆者の研究のキーワードは「生命(いのち)」である。生命を支え,守り,育むというケアの視点を共通項として,生命とは何であり,どのように育んでいけばよいのかということを真剣に議論し,その先に新しい視点や方法を開いていきたい。そのような希望を込め,医療人類学の新しい質的研究アプローチである「ヘルス・エスノグラフィ」を探究している。すなわち,人間の生命を諸学問の概念で分断するのではなく,その営みの場から統合的に把握していく作業が重要と位置付けている。
筆者が大切にしていることは,人々の生きる周りの風景や,時間の流れの中で人間の生命をとらえ,その多様な営みをそこで生きる人々と共に育んでいくことである。質的研究は,資料のピースをつなぎ合わせるというよりも,複数の糸を縒(よ)り,結び,絡み,組み合わせて,特有の質感をもつ布をつくる工程に似ている。一つひとつの糸を手にし,そこにどのような思いがあったかを突き詰めていくと,人々の生命の育みとその多様な価値が明らかになる。
人それぞれの人生のストーリーラインは,その人にとってかけがえのないものであり,さらに地球という大きな環境の中で他のさまざまな事象とつながり合っている。グローバル・ヘルスや,地域医療に携わる人々が,患者,住民,そして自分自身の生命の営みを大地に描けることは重要である。
新型コロナの影響と医療人類学による質的研究の意義
新型コロナウイルス感染症の世界的な蔓延を経験し,その背景を理解し,人間と環境との関係をどのように見直すかを突き詰めるには,医療人類学の総合的な視点が重要になる。
筆者は,1997年からおよそ12年間,タイ北部の都市で,HIV感染の予防に関する調査を行ってきた。HIV/AIDSは,人類学,公衆衛生学の観点からも,新型コロナウイルス感染症との類似点がある。その一つは,人間の密な関係で広がること,もう一つは,グローバルに拡大していることである。いずれも病原体(ウイルス)が人を介して体内に侵入するため,ひとたび人間の集団に入り込めば,人から人へと広がっていく。その感染源および経路を特定することが公衆衛生学上重要であるが,特定の集団が感染を広げたとして,差別や偏見の対象になりやすい。
タイ北部の農村から都市に出稼ぎに来る若い女性の工場労働者たちが,同じように出稼ぎをして性産業で働き,ハイリスク集団と特定されることになった女性たちと同一視されないように振る舞うことで感染対策が疎かとなり,かえって感染リスクを高めている状況を,筆者は明らかにした。
背景にある都市と農村の経済格差,多国籍企業の進出,工場労働に従事する若い女性の親孝行の観念,自立と誇りなどを,タイ北部の土地に位置付けてとらえることで,若い女性の振る舞いの意味,予防対策に必要なメッセージが明らかになる。筆者は,タイ北部に何......
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