医学界新聞

連載

2016.10.24



看護のアジェンダ
 看護・医療界の"いま"を見つめ直し,読み解き,
 未来に向けたアジェンダ(検討課題)を提示します。
〈第142回〉
看護部長はどのようにして最期を迎えたか

井部俊子
聖路加国際大学特任教授


前回よりつづく

 2016年9月2日夜,高屋尚子さんが,自分の勤務する病院の病室で静かに息を引き取った。享年54歳であった。

 高屋さんは神戸市立医療センター中央市民病院において,現役の院長補佐兼看護部長であった。約700床を有する急性期病院のマネジメントを担い,彼女の部下である看護スタッフはおよそ1000人であった。高屋さんは亡くなる3日前,病室を訪れた副看護部長の手のひらに指で,「アリガトウゴザイマス。ナカナイデ。」と書いた。句読点まで正確に記すところが彼女の誠実さを表していた。

 この日,私はあいまいにしていた彼女との約束である講演会の日程を決めるようにという伝言を副部長からもらい,病室に駆け付けた。目を開けているのもつらそうな状況であったが,「あなたとの約束を果たすから」と伝えたあと結局参加が叶わなかった「CNSと管理の会」のことを報告すると,高屋さんは力強くうなずいた。「洗礼を受けて楽になった?」と問うと,より力強くうなずいた。これが私と高屋さんとの最後の会話となった。

 高屋さんは病院の霊安室でナースたちとの別れを告げた。高屋さんは,買ってからまだ一度も袖を通していなかった黒のワンピースを着て,パステルカラーのスカーフを巻き,格式高い美しい姿であった。ストッキングから下着まで全て用意し,母親に託していた。顔は霊安室の光を受けて,「おはよう」と言って今にも目を覚ましそうであった。霊安室には絶えず大勢のナースがお別れに来た。そのナースたちの表情や様子から,いかに看護部長とナースの距離が近いかがわかった。彼女たちは心から看護部長の死を悼んだ。みんなのすすり泣く悲しみの中,ひつぎは神戸の教会へと向かった。

穏やかで粘り強いリーダー

 高屋さんは,1984年聖路加看護大(当時)を卒業して聖路加国際病院に就職。外科系病棟,ICU勤務ののち,聖路加看護大大学院修士課程を修了。1997年から看護部教育担当となる。その後,内科系病棟師長,教育研究センター教育研修副部長を歴任し,人材育成を担った。私は,2003年3月まで看護部長として高屋さんと共に仕事をした。穏やかで粘り強いリーダーだった。

 2012年3月に高屋さんは聖路加国際病院を退職し,神戸に移った。2年間は副部長として看護部の教育を担当した。

 高屋さんが,神戸市立医療センター中央市民病院の看護部長に就任したのは2014年春であった。そのころ,私へのメールに「看護部の理念」「看護部の方針」「ビジョン」を構想していることを伝えてきた。高屋さんは,「私たちは,市民をはじめ病院を利用する人々から,信頼が得られる最適な医療を提供するために,患者さんの心と体に向き合い,その声に耳を傾け,個を引...

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