医学界新聞

連載

2016.01.18



The Genecialist Manifesto
ジェネシャリスト宣言

「ジェネラリストか,スペシャリストか」。二元論を乗り越え,“ジェネシャリスト”という新概念を提唱する。

【第31回】
番外編:イギリスの感染症専門医 後期研修カリキュラムのすごさ

岩田 健太郎(神戸大学大学院教授・感染症治療学/神戸大学医学部附属病院感染症内科)


前回からつづく

 本稿執筆時点(2015年12月)で,日本内科学会の内科専門医制度改革の議論が喧しい。しかし,その議論は「内科専門医とはどういう医者で在るべきか」という理念やヴィジョンやプリンシプルの問題というより,「どこが基幹病院になるか」とか「どの病気を見るのを必須とすべきか」といった形式論に傾いているようにぼくには見える1)。本質よりも形式が先んじるのが日本医学界の典型的なやり方であり,これも例外ではないと思う。

 そもそもなぜ内科専門医制度は改革されねばならないのか? それは現在の内科専門医制度が,内科専門医の在るべき姿を反映していないからではないのか? では,在るべき内科専門医とはどういう存在なのか? それこそがヴィジョンである。ヴィジョンを現実化させるために行う行動原理がプリンシプルである。それが見えてこない。白洲次郎が何十年も前に指摘したように,この国にはいまだ「プリンシプルがない」のである。

 さて,最近,友人のイギリス人医師に,彼の国の感染症専門医養成カリキュラムがどんなものなのかを教えてもらった。(自分が体験した)アメリカの事情ばかり見ていて,イギリスがどうなっているかなんてまったく顧慮していなかった。不明を恥じ入るばかりである。これが,すごいのである2)

 イギリスでは感染症専門医のキャリアパスは細分化されている。まずはコアとなる2年間の臨床研修を受けた後,2年間の感染症コースや,3年間の一般内科とのコンバインド・コース(まさに“ジェネシャリ”!),あるいはさらに細分化された熱帯医学(3年間)のコースなど複数のパスウェイが存在する。

 しかし,驚くべきはその先である。専門医養成コースの目的は,「一般的な目的」と「専門的な目的」に二分されている。後者の「専門的な目的」には,各感染症の診療能力について記載されている。これは普通だ。驚くのは,前者である。「一般的な目的」には,「態度(attitude)」とか「コミュニケーション・スキル」「チームワーク」「リーダーシップ」「多職種連携チーム(multi-disciplinary team)」といったキーワードが並ぶ。診療(good medical practice)は4つのドメインに大別されており,それはそれぞれ,「知識,技術,パフォーマンス」「安全と質」「コミュニケーション,パートナーシップ,チームワーク」,そして「信頼を得続ける」である。

 その後,感染症専門医にとって必要な学習項目として,慢性疾患の対応,終末期医療への配慮,生涯学習,患者の安全,タイム・マネジメント,エビデンスやガイドラインの使い方,ヘルス・プロモーションや公衆衛生などの多種多様なアイテムが挙げられている。HIVについてはウイルス学や治療薬の話だけでなく,HIVに関するカウンセリングの知識,技術,態度など感染症のプロとして必須の,しかし日本ではほとんど教わらない項目が記載してある。イギリスがどのような人物を感染症専門医と呼びたいのか,その理念は98ページあるカリキュラム「Curriculum for Specialty Training in Infectious Diseases」から一目瞭然である。

 申し訳ないけど,内科学会の2015年12月15日に公表されたカリキュラムでは,HIVなんて知識と症例経験(症例経験はなくてもよい)くらいしか記載がない。日本感染症学会のカリキュラムに至っては4ページしかなく,ほとんどが微生物と感染症名のリストにすぎない3)。どういう医者を育てたいのか,その理念もヴィジョンもカリキュラムからはまったく感じとれない。そういうものがあれば,の話だが。

 イギリスのカリキュラム。形式的には,これは感染症というサブスペシャリティの養成カリキュラムである。しかし,実際にはこれはまさにぼくがここで述べ続けている“ジェネシャリ”にほかならない。そこには総合性と専門性,全体性と部分性の見事な融合がある。もちろん,理念は理念にすぎず,現実にはいろいろあれやこれや,理念に合わないものも多々あることだろう。しかし,理念,ヴィジョン,プリンシプルがあって,けれども現実には足りていない場合と,そういうものが最初からない場合。立派なプロの医者が育つ可能性が高いのはどちらか,火を見るよりも明らかだろう。

 火を見るよりも明らかなのだから,日本の医者がやるべきはひとつである。イギリスなど,よりきちんとした専門医教育をやっている国から学べばよいのである。少なくとも,自分たちが劣っている部分は学ぶべきなのである。かつて明治時代に日本の高官たちが西欧に渡ってあらゆる事象を学んだように。

 先日,ある講演会で一人の医者が言っていた。「自分は○○先生からなんとかという研究を教わった。臨床は教わらなくても,やっているうちにできるようになる」。

 これは一面には事実である。「やっているうちに」実験を完遂したり,論文を完成させるのは不可能であろう。一方,朝の採血から回診,検査や投薬のオーダー,各種の手技といった「行い」の面ではまさに「やっているうちに」自然に覚えることが可能だ。だから,1年も病棟に張り付いていれば,誰だって“医者っぽく振る舞うこと”ができるようになる。

 しかし,これは診療行為ではなく「診療ごっこ」にすぎない。わかる医者にはわかり,わからない医者には絶対にわからないだろうけれども,臨床医学はそんなに甘いものではない。それはほかならぬ,かつてのぼく自身への猛烈な反省から身に染みてわかっている。

 かつて,ぼくは基礎医学者を志していた。「基礎に進むにしても,バイトくらいはできなきゃな。ま,数年,研修を受ければ臨床くらいできるようになるだろう」と思って,市中病院での初期研修(当時は圧倒的に少数派だった)を受けたのである。そこで思い知ったのは――当たり前過ぎる事実で赤面の思いだけど――,数年のトレーニングで臨床はできるようにならない,という単純な事実である。「診療ごっこ」は,診療とは別物なのだ。

 ぼくが恥じ入りながら悟ったこの事実。しかしそれから長い時が経った今も,この「常識」は常識として共有されていない。ここが日本の立ち位置だ。その立ち位置の自覚から,在るべき専門医の姿は本来論じられるべきなのだ。

つづく

参考URL
1)日本内科学会ウェブサイト.新しい内科専門医制度に向けて.2015
 <上記から各種資料ダウンロード可能>
2)General medical council.Infectious diseases curriculum.2015
3)日本感染症学会ウェブサイト.感染症専門医制度専門医研修制度.2015

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