医学界新聞

寄稿

2014.09.22



【寄稿】

エボラ出血熱の看護に当たって
過去最悪の拡大を見せる感染症,現地ではどのような対応が求められたか

吉田 照美(国境なき医師団・看護師)


 ギニアから流行が始まったエボラ出血熱は,西アフリカ以外にも広がり,過去最悪の感染拡大を見せている。新規患者は増え続け,9月初めには死者が1900人を超えた。シエラレオネ政府は7月末に,WHOでは8月に非常事態宣言を発令している。こうした中,国境なき医師団(以下,MSF)では,流行当初から,ギニア・シエラレオネ・リべリアに,医師,看護師,疫学専門家,ロジスティシャン()などで構成された緊急対応チームを派遣。患者の症状マネジメント,エボラ出血熱についての啓発活動,感染拡大の予防,接触者の追跡,各集落への訪問など総合的な対策を展開してきている。

 看護師の私はその一員として,6月中旬-7月中旬の1か月間,MSFがシエラレオネ東部のカイラフンに設立したエボラ出血熱専門の「症例マネジメントセンター」(以下,センター)での活動に参加した。本稿では,現地の様子と活動の模様を報告する。

感染拡大に至った3つの理由

 まず,エボラ出血熱がなぜこの地域でここまで拡大したのか,その背景を整理しておきたい。理由は大きく3つ挙げられる。ひとつは,エボラ出血熱がギニア・シエラレオネ・リベリアの国境近くで発生したことだ。この3か国の国境付近は,日常的に国境を越えて移動する部族が存在しており,繰り返し行われるその集団の移動が拡散につながった。もうひとつは,遺体を遺族たちが洗い清めて弔うという現地の葬儀の伝統習慣だ。エボラ出血熱で亡くなった方であっても遺体に触れていたため,現地の方々は感染する可能性が極めて高い状況下に置かれていた。

 さらに,西アフリカではエボラ出血熱の発生が初めてで,住民だけでなく保健行政もエボラ出血熱に関する基本的な知識を持っていなかったことも理由に挙げられよう。頭痛・発熱・全身痛など,マラリアに似た初期症状を呈するケースもあるエボラ出血熱は,誤診を避けられなかったのだ。こうした3つの大きな理由があり,長期の内戦の後,医療体制が十分でなかったなどの環境要因も重なったことで,エボラ出血熱がこれほどまでに拡大したと言える。

体感温度50℃にも及ぶ防護服をまとって

 さて,私が活動したのは,感染確定者もしくは感染の可能性のある症例(以下,両者を患者とする)を収容し,医療を提供する施設である。感染確定・不確定を問わず,ガイドラインに沿って患者の症状を見極め,入院の必要性の有無を判断する作業を行った。作業は,感染者の見逃しや,必要のない入院を避けるため,必ず複数のスタッフで行う。なお,患者との接触を防ぐため,フェンス越しでやり取りを行い,マスクと手袋を着用することで唾液や汗などの暴露も避けるよう徹底されていた。仮に患者の体液に触れたとなれば,即刻,次亜塩素酸ナトリウムで消毒しなければならない。

 患者を収容する区域は,「要注意区域(High risk zone)」とされていた。この区域に入るスタッフは,全身を防護服一式で覆い,一切の露出がないように整える。着用時,体感温度が50℃にも及ぶ防護服は,極度に体力を奪い,医療行為の実施を行いづらくさせるほどのものであった(写真)。こうした装備をまとう他,スタッフの身を守るため,「要注意区域内での連続滞在時間は1時間まで」という規則もある。制限時間を迎えたら,作業を終えていなくてもいったん区域から出なければならないのだ。

要注意区域に入る前に防護服を入念にチェックする(写真:国境なき医師団提供)。

 限られた滞在時間であるため,常に優先順位を考慮する必要に迫られた。しかしながら,現場は多くの突発事項も起こるもの。点滴処置や採血,内服や飲食の介助,清潔の介助だけでなく,ベッドから落ちていたり,呼吸が止まりそうになったりしている患者,衣類を全部脱いで自分で点滴針を抜いた患者,トイレに行けずに失禁した患者など,彼らへの対応も常に求められた。繰り返し起こる突発事項と,曇るゴーグルと疲労の中では,作業がスムーズにいかないこともままあった。人員も限られるため,1日12時間以上の勤務で,都合3回,区域内に入るということもまれではなかった。

予防策を徹底することで,リスクは最小限に抑えられる

 区域を出る際は,自分の身体が汚染されぬよう細心の注意のもとに防護服を脱ぐ。ウイルス拡散を防ぐため,持ち込んだものも一切外に持ち出せない。区域外においても,消毒液でこまめに手を洗う他,フェンスで区切られたポイントで履物の消毒と手洗いが義務付けられており,握手やハグも禁止されている。当初は過剰ではないかと思ったものだが,感染の拡大を見ているうちに,妥当な予防策であることを実感した。

 事前に医療スタッフの感染リスクはゼロではない,という説明を受けていた。これを聞いて,私にも恐れは確かにあった。しかし,恐怖感を抱きすぎることなく,ある程度の緊張感としてとらえ直し,対応に臨もうと自分なりの覚悟を決めていた。結果的に思うことは,詳細に定められたMSFの予防策を徹底すれば,リスクを最小限にできるということである。

湧き起こる,やるせなさと怒りを超えて

 エボラ出血熱に対し,現時点では明確な治療法は存在しない。われわれにできるのは対症療法のみである。そのため,活動から日を追うごとに入院患者数は増え,死亡者数も増加した。一家で入院し,一人ひとり順に亡くなっていくケースもあった。面会に来た夫が妻の死を知って泣き叫ぶ,「家族のために生き抜いて」と声を掛けたその男性が数日後に亡くなり,1歳9か月の女児が1人取り残される――。こうした場面を日々,目の当たりにし,やるせなさと怒りの混じった行き場のない感情に襲われる瞬間もあった。

 ただ,それでも,自分で飲食できる患者であれば回復する可能性が高い感触もあった。スタッフ間では可能な限り症状をマネジメントし,飲食を介助しようという共通の認識の下,対応に臨んだ。

 もちろん,回復して退院できる患者もいる。日々,スタッフは患者たちをできるだけ励まし続けた。そして,回復の兆しを見せ,退院に至った患者が区域外へ出てくることができれば,スタッフは拍手で迎える。それに応え,患者も手を振る。胸が熱くなる瞬間であった。

地域へは地道かつ慎重,そして迅速な啓発活動が必要

 私は現地スタッフの看護師チーム約30人の指導も担当した。彼らにとってもエボラ出血熱患者の対応は初めて。注射針の取り扱いを含めた感染防御策,チームワーク向上の方法から,記録物の管理や記入,聴診器なしでの血圧の測り方まで指導に当たった。滞在中,彼ら現地スタッフの家族がエボラ出血熱に感染して入院してくる,という事態にも遭遇した。そうしたスタッフへの精神的なサポートも私に課せられた重要な役割であった。スタッフとして参加した彼らには,「収入を得なければならない」という経済状況もあったのかもしれない。しかし,私には自分の地域と家族,国を守るという強い意志があったからこそ参加したと感じられた。

 ただ,現地で誰もがそうした志を持っていたわけではない。エボラ出血熱を正しく理解している方は少なく,風当たりも強かった。患者や家族,医療スタッフに対する差別や偏見と拒絶,地域住民の誤解,伝統文化と公衆衛生の間のジレンマなど,さまざまな問題をエボラ出血熱はもたらしたと言えよう。本人や家族は感染したことを隠そうとし,感染者がいると発覚した家族は村八分にされる。現地スタッフが「エボラ出血熱にかかわっている」と地域から拒絶されるケースや,「MSFがエボラを持ち込んだ」という噂が立ち,MSFの車両が襲われる事件さえも起こった。

 感染を防ぐためとはいえ,こうした中で地域の方々に向け,前述した伝統的な慣習まで一方的に禁止する通達をMSFが出すのは,混乱と誤解を生むことになると容易に想像がついた。われわれには地道かつ慎重に,そして迅速に,エボラ出血熱とは何か,感染予防法,感染の可能性がある場合の対処法について啓発活動を行うことが求められていた。

 エボラ出血熱は,感染の疑いのある患者に適切に対応し,基本的な公衆衛生が整っていれば制御可能な感染症である。今回の爆発的な拡大に対し,国際社会が多方面から全力で鎮静化に取り組むことを祈っている。

註)ロジスティシャンは,物資調達や,施設・機材・車両管理などの幅広い業務を担う職種。


吉田照美氏
1997年青年海外協力隊員・看護師としてフィジーへ派遣。帰国後,日赤看護大看護学部へ編入。2002年血液・骨髄移植科勤務,06年訪問看護ステーションにて訪問看護・介護支援専門員業務を経験。12年6月から国境なき医師団に参加し,これまで南スーダン,パキスタン,ウクライナ,シエラレオネへの派遣経験を持つ。

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