この先生に会いたい!! 公開収録版(青木眞)
インタビュー
2014.09.08
【シリーズ】
青木眞先生(感染症コンサルタント)に聞く
シリーズ「この先生に会いたい!!」の公開収録を医学書院で開催しました。演者は,日本の感染症領域を牽引し,若手医師の教育にも尽力されてきた青木眞先生です。
今回のテーマは,「進路選択のPrinciple」――。
青木先生ご自身の波瀾万丈な歩みを基に,医師人生を進む者が携えるべき“指針”“原則”を提示し,集まった医学生・研修医に力強いメッセージを送りました。
まず最初にお伝えしたいのは,皆さんが人生で経験する苦労の90%は,“まだ起きてもいないことに対して抱く不安や心配である”という点。つまり,われわれは想像によって苦労しているにすぎないということです。「あの病院に勤務したら大変そうだ」「留学したら怖い思いをするかも」「へき地での診療は荷が重いだろう」――。そうした思いは今も胸中を巡っているかもしれません。しかし,それらも次のステージに移ってみると,なんてことはなかったりするものです。
私は医師になって約35年になります。感染症コンサルタントという職に就くまで,さまざまな場所・規模の医療機関に所属してきました。当然,私も不安になったことはあった。でも,やはり想像にすぎなかったと思うのですね。皆さんには行動を起こす前から案ずることなく,果敢に雄飛していただきたい。今日は私のpast historyを通し,力強く羽ばたくためのメッセージをお伝えできればと思っています。
初期研修の2年間は医師にとって重要な時間
初期研修の2年間は,その人の医師としての生き方,価値観を決めてしまうほどに重要な時間です。皆さんにも心して挑んでいただきたいと思います。
今の私の基礎を形作ったのも,他でもない沖縄県立中部病院で過ごした初期研修の2年間でした。このころに出会ったロールモデルの存在,「こういう医師になりたい」という思いは,優れた臨床医を目指そうという強力なドライブとなったと言えます。
私にとってのロールモデルを1人紹介しましょう。日本人として初めて米国感染症専門医になった,喜舎場朝和先生(元・沖縄県立中部病院)です。感染症領域に関する専門知識はもとより,問診や身体所見を丁寧に行い,内科全般にわたって基本的な知識を持つ姿には憧れましたね。医師になりたての私に,強烈なインパクトを与えるものでした。
中部病院には,この喜舎場先生に限らず,米国でトレーニングを受けた上級医を中心に基礎的な臨床力の高い方が多かった。こうした医師たちの姿を目の当たりにしたことで,私は米国臨床留学を意識するようになったのです。
青木先生の職歴 | ||||||||||||||||||||||
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マイナスの意味しかなさない経験はない
実は研修医1年目,私はC型肝炎に感染しています。特にハードな数日が続き,フラフラの状態で患者さんの採血をしていた最中のこと。検体の入ったガラスの試験管を手の中で割り,破片でざっくりと手を切ってしまったのです。運悪く,それがウイルス量の多い肝がんの患者さんの血液だった。数日後,急性肝炎を発症して入院,そのまましばらく一線から離れることを余儀なくされました。
インターフェロン治療でも寛解しにくいタイプだったので,「治癒しない疾患にかかってしまった」と,当時は気落ちしましたね。外科に進むことも視野に入れていましたが,「この疾患を抱えては難しい」と進路変更せざるを得ませんでしたから。しかし,それからだいぶ後にはなりますが,HIVを専門に診るようになって,「治癒しない疾患を抱えていること」がプラスに働くようにも感じ始めました。「青木先生も同じように治癒せぬ疾患と共生している」と,HIV患者さんに一種の親しみを抱かせるのでしょうか。自然と,私の話す言葉が患者さんに受け入れられやすいようなのですね。
こうした経験を踏まえて思うのは,医師として歩んでいく上で,マイナスの意味しか持たない出来事なんて絶対にない,ということです。皆さんもこれからさまざまな経験をするでしょう。中には残念に思う出来事もきっとある。しかし,こんな言葉があります。“Every cloud has a silver lining(空を暗い雲が覆っても,その雲には銀色の縁取り――向こう側に光――が必ずある)”。そう,どんな気落ちする体験も,絶対にプラスの意味が内包されているのです。ですから何があってもギブアップはせず,「次に行くんだ」と自らを奮い立たせてほしいと願っています。
「私より勉強した人はいない」。その確信はあった
2年間の初期研修を終えた私は沖縄を離れ,都内の病院を後期研修の場として選びました。循環器科,消化器科,感染科と専門にすべき科は迷ったものですが,当時の国内を埋め尽くしていたのは,熱・白血球・CRPの異常を新しい抗菌薬で“正常化”する……といった感覚でなされる感染症診療。中部病院で見た感染症診療の質と彼我の差は明らかでしたので,あえて私は感染症を専門にしようと決めました。そして本領域で師事すべきメンターが日本に少ない以上,やはり留学しかない。こうして,私は米国へ渡ろうと決意を固めたのです。
米国への臨床留学を実現するにあたって,まずは現在のUSMLEに相当するVQE(Visa Qualifying Examination)を取得する必要がありました。この試験がかなりの難関で,合格率は1%程度。そんな狭き門を目指せるほど自信家ではない私は,実はほとんど諦めてしまった……。でも,ある情報が飛び込んできたんですね。前年,受験者約750人中,合格者が7人,そのうち3人が知人だというのです。それで「勉強の仕方によっては何とかなるはず」と思い直すことができた。それからはひたすら勉強ですよ。これまでの人生でも,あのときほど勉強したことはなかったね。迎えた試験当日も「絶対に合格する」っていう自信はありませんでした。でも,「受験者の中で私より勉強した人は絶対にいない」。その確信はありましたね。
苦難多き,米国留学への道
無事に試験を突破したものの,留学先を見つけるのは大変でした。というのも,1980年代前半の米国は,外国人医師の受け入れに消極的だった時代。異邦人の私を雇ってくれる施設を見つけるのは至難の業だったのです。出した手紙は100通以上。日々,タイプライターをパツンパツンと打ち込み,たくさんの施設に申し込んだ。しかし返事はほとんどなく,あったとしても聞いたことのない病院から「一応,面接はする」といった程度でした。
そんな折に耳にしたのが,旧厚生省国立病院課で行っている「臨床研修指導医海外派遣制度」です。これは,「米国留学保証+奨学金」の見返りに,帰国後は“お礼奉公”として国立の医療機関で3年間勤務するというもの。本制度で留学を果たした先生方は実際にたくさんいて,皆さん,現在もさまざまな分野で活躍されています。
恐れを知らない青年は,この制度を求め,早速,旧厚生省の担当者まで尋ねていきました。しかし,「国家公務員対象」であり,地方公務員の私はまったくの対象外だという。「本当にダメですか」と食い下がってみると,その方が「私は人事権を持っているから,あなたを国立病院に就職させることならできる」なんてことを言うんですね。その力強い言葉を信じ,私は所属施設に辞表を提出して,あらためてその方のところへ出向いた。そうしたら「本当に辞めちゃったの? 実はそんなこと難しいんだ……」って(笑)。都内の国立病院の医師人事は,近隣大学の医局人事と調整が必要と知ったとき,私はすでに無職になっていたのでした。
「じゃあ自力で国家公務員になるしかない」ということで,バイトをしつつ,雇ってくれる国立の施設を探し始めました。すると,中部病院時代の知人が「沖縄県宮古島のハンセン氏病の療養所は,15年間,欠員が続いているらしい」と教えてくれた。打診してみると,その国立療養所宮古南静園の園長・長尾榮治先生をはじめ,多くの方のご厚意もあり,OKの返事。1984年3月,晴れて国家公務員になることができたのでした。
私としては留学に向け,まさに“ready to go”という状態。南静園での勤務と並行しながら,インターン先を探し始めた。しかし,米国のインターン開始は7月1日で,ほとんどのプログラムは前年の暮れには次年度採用者を決めているという。そう,3月に動き出すなんて“too late”だったのです。
困っていたところ,宮古島で知り合った方が米国中の大学病院に電話してくれたんですね。そうしたら,「ケンタッキー大で給料の出ないインターンなら採りたいらしい。マコトどうする?」と。同年5月,滑り込みの形でケンタッキー大への留学の話がついたのでした。
ケンタッキー大留学時,恩師・同僚との一枚(青木先生は一番左)。1990年頃に撮影。 |
つらい状況も,“every 3 months”で変わる
ようやく実現した留学は,序盤から苦労の連続。社会勉強になりましたね。
そもそもケンタッキー大では,プログラム開始以来,私が初の有色人種の研修医。珍しい外国人の受け入れに,大学側の態勢も不慣れな様子がうかがえました。労働者ビザを申請するのに必要な書類のやりとりさえできず,結局私は「観光ビザ」で入国。現地に行って,自分でビザを切り替えるよう求められました。臨床留学の経験者は数多くとも,「観光ビザ」で研修を開始した方は少ないでしょうねえ。
それで米国に渡った後,最寄りの移民局(Immigration office)へ行くと,出身大学の卒業証書の英訳や成績表に始まり,教員数,教室数や図書室にある蔵書数と,今度は細々とした資料が必要だという。手間のかかる資料でしたが,母校の学務係に平身低頭の末にご協力いただいて1か月後になんとか提出。受け付けた移民局職員から“OK. Wait. Next week, I’ll call you”と言われ,ひと安心。……と思ったら,肝心の連絡が全然来ないんです。電話すると,「君の書類を受けた職員が退職した。その際に資料も紛失したので,ついてはもう一度提出してほしい」と(笑)。
このときばかりは困り果て,ケンタッキー大の職員に相談しました。すると州の国会議員へと事情が伝わり,なんと翌週にはビザの切り替えができた。こんなに簡単にできるなら,初めからそうしてほしかったのですが……。と,日本にいたら信じられないような出来事が,話し出すときりがないくらいに体験できた。異なる価値観・文化に触れられたという意味では,視野が広がったと言えるのかもしれませんね。
苦労の末に開始したインターンも,最初の6か月は本当につらいものでした。「ここで話される言語は,本当に英語か?」。そう疑いたくなるぐらい,患者さんの南部なまりは強烈で,言葉はほとんど通じない。また,「オール白人」という環境でしたから,どうしても居心地の悪さを避けることはできませんでした。でも,めげなかったね。
つらい日々の中で実感できたことがあって,それはいかなる状況も“every 3 months”で変化していくということ。留学して初めの3か月間,大学病院の玄関を「これから英語の世界に入るぞ」と覚悟を決めてから入っていたのですね。しかし,3か月を経るごとにコミュニケーションがとれるようになって,ちょうど12か月経ったころ,そうした覚悟を決める意識から完全に解放されている自分に気付いた。あのときの清々しさは忘れられないものです。
“都落ち”の家庭医生活が,日野原先生との邂逅に
3年間にわたる米国での一般内科研修を終えると,例の“お礼奉公”のために帰国しました。国立療養所宮古南静園で腰を据えての勤務の開始です。
このとき「せっかく留学したのに大病院ではなく,離島の診療所?」と,周囲から“都落ちの青木”と思われていた節もあったようです。確かに国立の医療機関としては最小に近い施設ですからね。しかし,私にとって宮古島で送った家庭医生活は大変充実したものでした。また,時間を見つけては,近隣の県立宮古病院や薬局で行っていた医師や薬剤師向けのレクチャー。これらも私にとっては実り多いもので,現在も行う若手医師や薬剤師向けのセミナーの原体験になっているほどです。
さて,宮古島での生活をスタートさせたある日のことです。宮古病院に行くと,院長から「使用される抗菌薬の種類が多すぎるので整理してほしい」と相談を受けました。増えた理由は明らかで,それは離島ゆえに,さまざまな施設から応援で派遣されてくる医師の処方にあった。派遣された医師が好みの抗菌薬をそろえさせてはいなくなる,その繰り返しによって,小さな病院にもかかわらず抗菌薬はバラエティーに富んでしまったというわけです。
そこで試みたひとつの策が,細菌検査室用の感受性結果報告システムソフトの開発です。その名も「バイキンマン」。このソフトの機能のひとつに,感受性の良いグラム陰性桿菌が検出された場合,広域スペクトラムの抗菌薬の名前が感受性レポートからマスクされるというものを取り付けた。これで,新しい抗菌薬の乱用や多種化を防ごうと考えたわけです。離島の感染症診療の質向上を狙ったこの試みは,図らずも私の将来の道筋を変えるものにもなりました。
きっかけは,宮古病院に旧厚生省の予算が下りたことです。「日本でいちばん有名な医師に講演を依頼しよう」。私は日野原重明先生(現・聖路加国際病院理事長)の招聘を提案しました。院長から日野原先生に手紙を差し上げると,日野原先生からは「講演を頼むのならつまらないから行かない。しかし,症例検討会で私にチャレンジするのなら行きましょう」というお返事。こうして宮古島へ,日野原先生の招聘が実現されることになりました。
その来訪時,日野原先生が関心を持たれたのが,なんと先ほど紹介したバイキンマンだったわけです。「青木さん,こんなソフトをどうして考えついたの?」と。それをきっかけに,日本の感染症診療の遅れに関する問題意識をお話しすると,日野原先生は深く共感してくださった。そのご縁からご自宅にも招いていただき,「将来,聖路加国際病院の院長になることがあれば,君に声をかけよう」ともおっしゃってくださいました。
おそらく私が都内で勤務していたら,日野原先生と直接お話しする機会を得るのは難しかったと思うんですね。宮古島という小さな離島だったからこそ,「現地の医師のために」と日野原先生もお越しになったのでしょうから。離島という環境に身を置いたことは,ハンデのようでありながら,大変な祝福であったというわけです。
明確な目標があったから,遠回りではなかった
宮古島での3年間の生活を終えるころ,米国感染症専門医資格を取得するため,再び米国での就職先を探し始めた。とにかくたくさんの手紙を出し,いくつかの病院から面接をしてくれると返事が来たら,渡米して各地の病院を訪問。面接のため,西海岸から東海岸までの行脚を2回行いましたね。最終的に拾ってくれたのは,ケンタッキー大でした。「マコトならいいだろう」と,感染症フェローとして受け入れていただいたのです。
無事にフェローを終え,日本で2人目となる米国感染症専門医を取得できたのは40歳近くでしたね。最近はムダなくスマートにキャリアを積みたい若い方も多いので,「遅い」と思われるかもしれません。確かに私が専門医を取得するころには,一度目の留学で同僚だった優秀な医師の中にも,教授や准教授のポストについている方もいた。でも,当の私に「遠回りした」という感覚はなかったですね。私には明確な目標があり,そこへ向かうためには費やして然るべき時間だったわけですから。また,出世した仲間たちを見ても,私の心には嫉妬心というものも生じなかった。むしろ,努力した者が努力したぶんだけ報われる,自由で公平な競争社会である米国に清々しさすら感じたものでした。
専門医取得後,こうした米国の地で診療を続ける考えも芽生え始めていました。しかし,ちょうどその頃,日野原先生から手紙をいただいたんです。「今度,聖路加国際病院の院長になる。青木君の採用を検討するため,シカゴで面接したい」。そう,過日の約束を覚えてくださっていたのですね。このときはケンタッキーからシカゴまで10時間ほど車を飛ばして,日野原先生に会いに行きましたよ。それで聖路加国際病院へ呼んでいただくこととなり,92年,帰国が決まったのです。
“谷あり谷あり”を歩み続けて
帰国後,いろいろなことがありました。まず,世界で最も優れた内科医の一人とも言われるローレンス・ティアニー先生をはじめとした,優秀な医師たちと巡りあうチャンスを多くいただいたこと,これは私にとって幸運でした。彼らを国内各地の研修プログラムにお連れし,若い医師への指導をお願いしました。こうして教育に携わっていく中で,今となっては日本の医療を牽引するような,素晴らしい若手医師たちとも出会うことができました。
ただ,良いことばかりではなかった。帰国した私を待ち構えていたのは,84年の離日当時と変わらない感染症診療の遅れです。そんな日本にあって,私の理想とする感染症診療の実現はなかなか難しく,周囲の状況は大変厳しい。ある方のアドバイスも「あなたが本当に活動できる場所は日本に見つからないだろう。米国に戻るしかない」というぐらい,逆境は長く続いたのです。このころ,私の状況をどこからか聞きつけた米国の教授から,「家族と両親を連れてこい」とGreen card(米国永住権)付きのオファーを受けたことまでありましたよ。“青木の谷あり谷あり人生”の様子は海をも渡っていたのですねえ。……っと,皆さんの気が滅入ってしまいそうなので,こうした話はこのへんにいたしましょう(笑)。
「いよいよ米国に帰るしかない」。そう思い始めたときに出会ったのが,サクラグローバルホールディング株式会社代表取締役会長・松本謙一氏でした。私の環境や考えをお話しすると,「青木さん,米国に戻るなんてもったいない」と。そして「生活は保障するから,あなたが大事だと思うことをやりなさい」とおっしゃってくださったんですね。2000年以降,この方の手助けもあって,私は感染症コンサルタントの仕事や,若い医療者・学生の教育に専念することができているのです。
見るべき方向は「前」と「上」
こうして振り返ると,自分が与えられた場所で目の前のことに精一杯取り組んだ結果として,いろいろな方の助けを得ることができたのだと思います。私にとって日野原先生,松本さんは恩人とも言える方々ですが,皆さんにもこうした方々はきっと存在しており,出会うこともできるはずです。
ただ,人生において,いつ,どこで出会えるチャンスがあるのかはわかりません。ですから,“Chance favors the prepared mind”。この言葉が意味するように,どこで何をすることになっても,置かれた場所で,腐らず,諦めずに力を尽くす。それが大事なのでしょう。意志を持った人間の前には,必ず心ある人が現れ,新たな道が拓けていくものなのです。
最後に,人生にある“4つの方向”についてお話ししましょう。4方向のうち,2つは「見ないほうがいい方向」であり,もう2つは「見るべき方向」です。ぜひ心に留めておいてください。
まず,見ないほうがいい方向のひとつは「後ろ」。過ぎ去ったことを振り返って悔やんでも,新たな展開は生まれません。後悔せず,新しい方向へと常に踏み出していくべきです。そしてもう1つが「横」。具体的に言えば,周囲の同僚や友人の存在です。横にいる誰かと自分を比較するのではなく,自分は自分と,与えられた場所で力を尽くすことを考えましょう。
では,見るべき方向はどこか。それは,「前」と「上」です。前とは,「何年後には○○になる」という前向きな目標です。懸命に努力することに値し,それを成し遂げる信念を持てる,そんな目標を作りましょう。
さらに,もうひとつの見るべき方向が「上」。これはロールモデルという意味でとらえてもいいですし,形而上的なもの,例えば自分の人生に意味を与える哲学や文学,あるいは神仏の存在であっても構いません。固く信じられるものを,自分の中で確立しておく。長らく歩みを続けていると,医師としての限界を感じる場面にも必ず遭遇します。でも,そうしたときに「上」,すなわち心から信じられる何かがあると,それを乗り越える力になってくれるのです。医師として歩んでいく中,自分は何を大切にしたいのか。あらためて考えてみてほしいと思います。
どんな状況にあろうと「今日,自分が明確な目標に向かって,最大限の努力をすること」はできる。それは確信を持って伝えられるメッセージです。今後,皆さんが前と上を向いて,医師としての道を進まれることを祈り,講演を終えます。
質疑応答
Q 頑張り過ぎることで,燃え尽きてしまう研修医もいると聞きます。限界を超えないようバランスをとりつつも,充実した研修生活を送るためのヒントをいただけませんか。 青木 充実した研修生活を望むのであれば,私があえて強調したいのは,燃え尽きぬよう余力を残すことではなく,懸命な努力をすることです。 「限界」って往々にして自分自身であらかじめ設定しているものであり,真の限界もやはり「これ以上無理!」というレベルで頑張らないと見えないものなんです。こうした中で絶対に避けるべきは,限界を低く見積もって,中途半端な努力を重ねること。これは「本当はもっと頑張ればできた……」という“過去の可能性”を蓄積するだけで,皆さんの将来性を確実に腐らせてしまう。懸命に努力した人には,「これ以上できないところまで努力した」と,その後の生き方を支える自信が備わりますよ。自分に対して言いわけができないくらい,頑張ってみてください。 付け加えておきますが,燃え尽きた経験のある医師にも魅力はありますよ。一度燃え尽きた人でないと出せない独特の温かみがあるんです。そういう医師に診てもらう患者さんもまた幸せだなあと思いますね。 Q 研修医2年目になり,研修医1年目・学生相手に教育を行う立場に回る機会も増えてきました。教育する側に立つ者が大切にすべきことは何でしょうか。 青木 まず,自分が教える内容が「Patient careに資するか」を意識することが大切です。カンファレンスはあくまでカンファレンスであって,最終的に患者さんのためになるものでなければ意味がない。ですから,「鑑別診断の数をたくさん挙げられるように」ではなく,「コモンディジーズをきちんと診られるように」育てなければなりません。 教育者の心掛けとしては,ティアニー先生が好んでおっしゃる言葉を紹介しましょう。「優れた教育者か否かは,教え子たちがその教育者を超えることができているか否か,そこで判断できる」。これには私も同感。教育者は自分を超える教え子を育てようという気概が必要です。その点,私の教え子たちは皆,私よりも優秀なんだよね,悔しいけど(笑)。だから,私も教育者としては“まあまあ”ってことなのかもしれません。 Q 先輩・後輩など周囲の人を巻き込んで,自分が良いと思うものを普及させたいと考えています。そのコツは何ですか。 青木 非常に大切な視点! 大切なのは,アウトプットに意識的になることだと思います。 将来的には皆さんも「広めるべき何か」を見つけ,周囲に「伝えていきたい!」と思う瞬間があると思います。それを広めていくためにできることは,自分一人で知識や技術を蓄え,資格を取得し,キャリアを築いていくことではない。志を同じくする仲間をつくることです。その点,アウトプットができる人の周りには自然と人が集まるもの。結果的に,その「広めるべき何か」も広がっていくはずです。「いい仕事をしている人」って皆,仲間に囲まれているんですよ。 |
(了)
青木眞氏 1979年弘前大医学部卒。沖縄県立中部病院,米国ケンタッキー大などで研修,その間宮古島で離島医療も経験する。92年に帰国後,聖路加国際病院感染症科,国立国際医療センターエイズ治療・研究開発センターを経て現職。全国の医療機関を中心に感染症コンサルテーションを行うほか,複数の大学の客員教授・講師を兼任。著書には『レジデントのための感染症診療マニュアル(第2版)』(医学書院)など。米国内科学会フェロー(FACP),米国感染症学会フェロー(FIDSA),米国内科専門医,米国感染症内科専門医。 |
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