医学界新聞

連載

2014.07.28

The Genecialist Manifesto
ジェネシャリスト宣言

「ジェネラリストか,スペシャリストか」。二元論を乗り越え,“ジェネシャリスト”という新概念を提唱する。

【第13回】
ジェネシャリストとは何か――ウィトゲンシュタイン的に考える

岩田 健太郎(神戸大学大学院教授・感染症治療学/神戸大学医学部附属病院感染症内科)


前回からつづく

 これまで,ジェネラリスト/スペシャリストの二元論問題(バックグラウンド)について考えてきた。今回から第二部に入る。いよいよ,ジェネシャリスト(Genecialist)という新しい概念の紹介である。

 ジェネシャリストは,ジェネラリストとスペシャリストのハイブリッドである。ただし,その概念に「定義」はない。ある言葉の「意味」を「定義」することはできない。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの『哲学探究』における言語ゲームの説明を読んで,ぼくはそう考える。

「意味」という語を利用する多くの場合に――これを利用するすべての場合ではないとしても――ひとはこの語を次のように説明することができる。すなわち,語の意味とは,言語内におけるその慣用である,と。

Ludwig Wittgenstein著,藤本隆志訳.ウィトゲンシュタイン全集8.大修館書店;1976.

 「あれはジェネシャリストだ」とか「あの人はジェネシャリストとは呼べない」と,われわれは「ジェネシャリスト」という用語を会話の中で使用することは可能であろう。それは,「慣用的に」可能である。しかし,その言葉を「定義」するのは困難で,おそらくは不可能だ。子どもが言語を習得するときに言葉の「定義」を一切顧慮しないままに自然に言葉とその意味する対象,シニフィアンとシニフィエをすり合わせていくように,ぼくらも臨床現場でジェネシャリストの意味をすり合わせていくことができる。それを「定義」することなしに。

 そもそも,ジェネラリストやスペシャリストの「定義」からして,怪しいのである。多くの「定義」は「俺様が思うに」的定義であり,ジェネラリストやスペシャリストの必要十分条件を満たしてはいない。いわく,「外傷が診れないようじゃ,ジェネラリストとは言えない」「お産を診れないのに家庭医とは呼べない」「精神科ができなきゃ,総合診療医とは呼べない」云々。スペシャリストに至っては,「至芸」「完璧」「究極」みたいな,『美味しんぼ』(小学館)も真っ青なスローガンが立ち並ぶ(こともある)。

 「こうでなければ,ジェネラリストと呼ぶことは(俺が)認めん」「スペシャリスト足る者,かくあるべし(俺的に)」という思考の枠組みそのものから,ジェネシャリストは自由である。「定義」とか,そういううるさいことは言うの止めようよ,というわけ。

 そのような緩やかな枠組みの中で,ジェネシャリストは幅の広いジェネラリストっぷりと,とんがったスペシャリストっぷりの両者を発揮する。通常は,ジェネラリストの訓練を受けた後,ある一領域の(人によっては複数領域の)スペシャリティの研鑽を受ける。こうして,横に広く,縦にとんがった三角形ができる。このような形がジェネシャリストの基本形だろう。

 ぼくのイメージでは,ジェネラリストは横に広がった長方形である。幅広くいろいろな領域をカバーする。ただし,各領域の深みはそれほどでもない。逆に,スペシャリストは縦に伸びた長方形だ。横幅は小さく,その守備範囲は狭いが,ある特定領域における専門性は極めて優れている。

 ジェネシャリストは,ジェネラリストの横の広さと,(ある一領域における)スペシャリストの縦の深さを併せ持ち,ちょうどTの字を逆にしたよう...

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