医学界新聞

対談・座談会

2014.06.23

【座談会】

すべてのケアはスピリチュアルケアに通ず!
柏木 哲夫氏(淀川キリスト教病院グループ理事長/大阪大学名誉教授)=司会
田村 恵子氏(京都大学大学院医学研究科 人間健康科学系専攻教授)
河 正子氏(NPO法人 緩和ケアサポートグループ代表)
岡本 拓也氏(洞爺温泉病院ホスピス長)


 スピリチュアルケアは難しい? 何か特別なスキルが必要?

 ケアに「スピリチュアル」とつくと「霊的・宗教的なもの」,あるいは「特殊なケア」と身構えてしまう看護師も多いのではないかと思います。

 患者のスピリチュアリティ,そしてスピリチュアルペインは個々に異なります。痛み,不安,恐怖,悲嘆……,患者が抱えるさまざまな苦悩に対し,看護師をはじめ医療者はどのように寄り添っていけばいいのでしょうか。

 臨床経験豊富なエキスパートが,その概念的な言葉を具体化し,日々の実践に活かせる心構えをお伝えします。


スピリチュアルケアは,決して特殊なケアではない

柏木 スピリチュアルケアは,その言葉の意味から「霊的・宗教的なもの」と誤解されている面もあるのではないでしょうか。また,臨床現場でもそれぞれ少しずつ異なるニュアンスでとらえられている点もあるかと思います。現場の医療者はスピリチュアルケアをどうとらえていると感じていますか。

田村 1989年にホスピスで働き始めたころ,当時はスピリチュアルケアというのは宗教的なケア,キリスト教的なケアという意味合いが強く,皆でスピリチュアルケアに関する英語のテキストを用いて抄読会をしていたこともありました。しかし今はスピリチュアルケアの概念も整理され,霊的・宗教的な意味だけではないと認識されるようになってきました。「緩和ケア」の講義で学生に,「私,スピリチュアルケアに関心があります」と言われたり,若い看護師が「この患者さん,スピリチュアルペインがあるみたい」という会話が自然と聞かれたりするようになり,言葉の浸透を感じます。

 二十数年間,緩和ケアにかかわっていますが,当初はスピリチュアルペインや,スピリチュアルケアという理解はありませんでした。そこに,2000年代初め,村田久行氏によるいわゆる「村田理論」が提示されたことで,終末期のスピリチュアルペインについての理解が広がったと思います。それからではないでしょうか,看護師がスピリチュアルケアの必要性を意識するようになったのは。

 今では,患者さんから「もう死にたい」「生きている意味がない」などの悲観的な言葉が出ると,スピリチュアルペインととらえ検討するようになってきています。一方課題としては,スピリチュアルペインを無くさなくてはならないという意識が強いことかもしれません。

岡本 「スピリチュアル」とつくことで,それを霊的・宗教的なニュアンスとしてとらえているのは,マスコミレベルでは多いと思います。しかし,すでに医療者の間では,スピリチュアルケアは霊的・宗教的なものに限らないというコンセンサスがとれていると思います。

 医療者の間にひとつ誤解があるとすれば,それは「スピリチュアルケアは特殊なケア」と認識している向きがあることです。

田村 たしかに,具体的なスピリチュアルケアの実践を考えると「どうしたらいいの?」「ちょっと私にはできないわ」と身構えてしまう看護師も多いように思います。

柏木 それはどうしてでしょうか。

田村 スピリチュアルという言葉の持つ不明瞭さや不確かさ,あるいはそれに引かれる気持ちなど,ベクトルの違ういくつかの要素がミックスされて,経験の浅い看護師は「スピリチュアルケアは気になるけど,中身がよくわからない」とためらいを感じているのでしょう。

岡本 スピリチュアルケアは決して特殊なケアではなく,普段のケアと連続性があるものです。もっと端的に言うと,同じものでもあり得る。笑顔であいさつすることや,丁寧に食事介助や体位交換することもスピリチュアルケアにつながる。「すべての道はローマに通ず」ならぬ,「すべてのケアはスピリチュアルケアに通ず」と言えるのではないでしょうか。

柏木 私の経験上,患者のスピリチュアルペインに応じてすべきスピリチュアルケアのレベルには,差があるように思います。例えば,優しい笑顔で接することがその人のスピリチュアルケアになる患者と,医療者ではどうにもならず,宗教家の積極的な介入が必要なスピリチュアルペインのある患者がいることです。このような差に対しては,どうとらえていますか。

岡本 私は,日常的なケアで対応できるペインと宗教的に介入が必要なペインというのは本質的にはつながりがあると思っています。患者さんの中にあるさまざまなつらさは,バラバラに存在しているわけではなく,一人の人間の中に,1つのものとして,あるいは連続性のあるものとして存在しています。スピリチュアルペインの軽重にかかわらず「大切にされているんだ」と感じるケアをすることが,患者それぞれのスピリチュアリティにタッチし,スピリチュアルケアになるわけです。

スピリチュアルペインを持ち得る存在としての人間

柏木 心のこもったケアをすることが,スピリチュアルケアにつながっていく。私も同感です。では,良いケアを提供したら,それはスピリチュアルケアになっているのだから,スピリチュアルケアという概念を取り立てて議論する必要はなくなってしまうことになりませんか。

岡本 もちろん,そんなことはありません。スピリチュアルペインの有無にかかわらず,スピリチュアルペインを持ち得る人間に対するケアは特に強調されるべきで,褥瘡ができ得る存在である人間に対するケア,誤嚥性肺炎を発症し得る存在である人間に対するケアがあるように,スピリチュアルペインを持ち得る存在である人間に対するケアが,スピリチュアルケアになるわけです。スピリチュアルなものを生み出す,生物・種としての能力が,幸か不幸か人間には備わっているので,人間にはスピリチュアルケアが必要になってくるのです。

田村 私は週に2回,緩和ケアチームで活動していますが,先日,あるせん妄の症状がみられる患者さんとの対話から,スピリチュアルペインのとらえ方を顧みる機会がありました。

 「夢に子どもが200-300人出てきて,足を引っ張るんや」と訴えていたその方は,「今日は調子が悪い。もうすぐお迎えが来るんかなぁ」と話したのです。医師が,「もうすぐお迎えが来るとして,何かしておきたいこと,気になっていることはありませんか」と尋ねたところ,「お水を飲みたい」と求めました。あまりに日常的なニードだったので,「え? お水ですか」と,拍子抜けしてしまいました。でも,その方はもう半年近く絶食している。あぁ,この人にとって,死ぬまでに一度ガブガブお水を飲みたいというのはまさしくスピリチュアルペインなのだと思いました。

岡本 「魂の渇き」という表現もありますが,身体的な渇きとスピリチュアルな渇きが,連続性のある1つのこととして存在しているという好例ですね。スピリチュアルペインやスピリチュアルケアは「こういうもの」という固定観念が出来上がってしまうと,「水が飲みたい」という患者の素朴な発言に拍子抜けするという,ちょっと恐いようなことが起こってしまいます。

田村 ええ,私はおごっているなと思いました。それぞれのスピリチュアルペインが重要なのではなく,スピリチュアルペインを抱える患者に対するケア,という視点が欠かせないのだとあらためて認識しました。

岡本 ペインに着目すると,どうしても医学モデル,診断・治療モデルの視点になってしまいます。すると,疾患を分析するのと同じようにスピリチュアルペインを見てしてしまう。それは逆に,ケアの本質から遠ざかる行為になってしまいます。

 看護師もその点が課題です。患者の苦悩をスピリチュアルペインとしてとらえたときに,それを何とか緩和しなければいけないと考えてしまう傾向があるように思います。

柏木 ケアではなく,「緩和する」ことが優先されてしまう危うさもあるのですね。

 ええ。それは結果として「患者さんはつらいのだから,まず鎮静を」となりかねない危うさとも言えます。しかし,何が何でも患者の苦悩をゼロにしなくてもいいのです。患者が抱えるスピリチュアルペインを意識しながら,少しでも心地よい日常を整えるケアを探ることが,スピリチュアルペインを和らげるスピリチュアルケアになり得る。そういう考えが広く共有できるといいですね。

岡本 そうですね,特殊なケアも一般のケアも本質においては同じものと理解し,いろいろなスピリチュアルケアがあっていいと思います。

「受け身の踏み込み」が患者のワークを促す

柏木 日常の良いケアを継続していくことが,スピリチュアルペインを持つ患者さんに効果を与え,それが「魂に触れるかかわり」へつながることがわかりました。では「これが私にとってのスピリチュアルケア」と語れるような患者さんとのかかわりはありますか。

 反省の残るエピソードですが,「なんでこんな病気になったのか。バチが当たったのかもしれない」と繰り返す高齢の患者さんとかかわったときのことです。「バチが当たったわけじゃないですよ」と気持ちを静めようとするのですが,「バチが当たったんだ」と繰り返していました。そこで「Aさんが1つ病気を引き受けてくれたおかげで,この病気にかからずに済んだ人が1人いた,そう考えられませんか」と言ってみたのです。そしたら,すごく喜んでくださったので「これはいいケアができた!」と思いました。ところが次にお会いしたときには,また同じことをつぶやいておられました。

柏木 継続性がなかった。

 ええ。「バチ」という言葉の背景を踏まえたケアが継続できたら,スピリチュアルケアになったかもしれません。そこは反省点です。その後,海外の文献を読んでいて「スピリチュアル・ワーク」という言葉に出合いました。患者が良好なスピリチュアル状態に向かうには,その人自身がワークしなければいけないというのです。医療者は,患者自身がワークする環境を整える役割を果たすこと,そしてワークを促すことも必要なのだと気付かされました。

柏木 ケアの基本は,徹底的に受け身の姿勢であることですが,時には患者自らがペインを取り除くための「ワーク」を促す,いわゆる「受け身の踏み込み」も必要になります。

 私が経験した卵巣がんが肺と肝臓に転移した60代後半の女性の例を挙げますと,この方には娘さんが一人いて,娘さんが5歳のときにご自身が離婚しています。自分はもう残り少ない命だと悟ったのでしょう。娘に苦労をかけたと謝りたい気持ちがあった。それがその人にとってのワークの端緒だったのです。「死ぬまでに何をしたらいいかと,すごく考えるのです」と患者さんが打ち明けたとき,ソーシャルワーカーは「この人は何かやり残したことがあるに違いない」と気付くわけです。そこで「何がしたいですか」とちょっと踏み込む。すると,「娘に謝ってないんで」と言うのです。続いてワーカーの発した「娘さんのことを本当に大事に思っていらっしゃるんですね」という一言が,その人に大きく響きました。次の日,その患者さんは娘さんに正式に謝り,そして娘さんも許した。

 このような踏み込みが患者さんにとってのワークとなり,ペインが取り除かれるに至ったのです。

岡本 もちろん受け身的な態度は基本的な姿勢ですが,さらに踏み込みができると大きな効果も期待できますよね。米国の心理学者C.ロジャーズが提唱した「クライアント中心療法」が良いと思われすぎている部分もあります。

柏木 岡本先生は何か事例はありますか。

岡本 「死んだらどうなるのかねぇ」と不安げに繰り返す,浄土真宗の信仰を持っているおばあさんがいました。ご自身の思いをまずは傾聴し,その上で,浄土真宗の宗祖・親鸞の語りをまとめた『歎異抄』の一節を話しました。

田村 なんと話したのでしょう。

岡本 「“善人なおもて往生を遂ぐ,いわんや悪人をや”,ですよね。だったら大丈夫じゃないですか! Bさんが極楽に行くのは,阿弥陀さまの願いなんですよ!」と言いました。そしたら「そうかぁ!」と言ってサーッと表情が晴れていった。それからはスピリチュアルペインがあまり見られなくなりました。宗教的な言葉は,長い歴史によって磨き抜かれてきた言葉の宝庫なので,ものの見方を転換し得る大きな力を持っています。うまく提示すれば大きな変化の源になります。

柏木 宗教的な言葉を用いない例もありますか。

岡本 家族に謝罪の気持ちを打ち明けた男性患者の例があります。担当の看護師が「気持ちを手紙に書いて家族に伝えたらどうですか」と提案すると,手紙を書いたのです。読んだ家族も「こんなことを思ってたんだ」とボロボロ泣いて,家族の和解が成りました。「踏み込み」は,日常的になされるべきケアの一つだと思います。

柏木 あくまで,普段のケアの連続性のなかで行われるべき,と。

岡本 ええ,ですから「何か特別なケアをしなければ」と思わないほうがいい。スピリチュアルペインは必ずしも,医療者がすべて取り除かなければならないものではなく,その人自身が解決していくものでもあるのです。患者自身がワークをすることで,スピリチュアルペインがその人の成長の糧になり,人間として,また一つ広い見方ができるようになるのではないでしょうか。

田村 患者さん自身が“脱皮する”,と言ってもいいかもしれません。

岡本 その通りですね。

田村 私たち医療者が患者さんをいかにナビゲートするか,その役割は大きいと思います。一方で,踏み込んだばかりに患者さんの気持ちがマイナス方向に揺れ動いてしまったとなると,踏み込んだ側は責任を感じてしまいます。「普段のケアの延長」とは言え,通常のケアとは違いグッと相手の心に入るわけですから,経験の浅い医療者には踏み込むことへの怖さもあるでしょう。踏み込む瞬間を見極めるには,少しトレーニングが要ります。教育の段階から少しずつ後進に伝えていきたいですね。

必ずしも時間をかけなければいけないわけではない

柏木 ワークを促すには,「人間力」,そのなかでも特に「共感力」が必要になります。共感力こそスピリチュアルケアに大切な要素だと思っています。

 非常に印象に残っている患者さんの一人に,睾丸の悪性腫瘍が肺転移して亡くなった25歳の青年がいます。ある回診のときです。部屋にはいつもと違う緊張感が漂い,「これは何か言いたいことがあるに違いない」,そう感じ取ってベッドサイドに腰掛けました。すると,私が口を開く前に,「先生,僕,25歳なんです。なんで,こんなに若くして死なないといけないんですか」と話し始めた。それを言いたくて私を待っていたわけです。その言い方が,あまりにも切実でね。どう答えていいかわからないまま,「25歳ね。こんなに若くてね」と返しました。それで私はポロッと涙が出た。自分でも,泣くなんて想像だにしませんでした。でもそれで彼の緊張がフッと取れて,「先生,ありがとう」「またしっかり診ていくね」と言葉を交わしました。彼は,それから2週間ほどで亡くなりました。

岡本 「こんなに若くてね」という,自然な共感の発露だったからこそ伝わったのでしょうね。単なるコミュニケーションのスキルとして取り組むのではうまくいかなかったと思います。

柏木 私が意識的に行っているのは,患者さんと自分の立場を「入れ替える」ことです。患者になり替わった自分はベッドへ,ベッドにいた患者さんは医師に入れ替わることを想像する。そのとき,患者になり替わった私が聞きたい言葉を実際に発せられれば,一番共感できるのかなと思います。ベッドで横になって天井を見上げる姿を想像すると,「頑張ろうね」などという安易な励ましなんかできなくなる。

岡本 立場を入れ替え,相手の気持ちにできるだけ近付くことで,同じ言葉でも,声のトーンや,息遣いが変わっていきますよね。

柏木 ええ。精神科など,カウンセリングの効果は,「時間×深さ」で決まるという原則があり,ある程度の時間が必要とされます。それに対してスピリチュアルケアは,医療者が持っている持ち味がピタッと患者さんのニーズに合えば,短時間でも大きな力を発揮します。岡本先生が唱えた『歎異抄』の一節も,私のひと言も,ほんの数秒でした。スピリチュアルケアは,「時間をかけなければいけない」と難しく考えなくていいのです。

あって当たり前の視点

柏木 では,スピリチュアルケアに関心を持つ医療者に対して,アドバイスはありますか。

 初心者の時期には,自分の気持ちに素直になることです。背伸びをしても見破られてしまいますから。相手を大切に思う自然な気持ちで接し,悲しいときには涙を流せばいい。患者さんの苦悩から自分は成長させてもらっているんだ,という気持ちでかかわっていくことです。経験を積み,自分自身の知性や,それまでの人生観など,培われた力を総動員できるようになれば,少し高度ですが「ナビゲーション」もできるようになると思うのです。

岡本 自然さというのはすごく大事で,無理に肩肘を張って,気の利いたことを言おう,しよう,なんて思わないほうがいい。スピリチュアルケアは「特別だ」という意識を持たず,自然な感じでかかわってほしいですね。

 良いケアができたとしても,それは自分だけでなく,いろんな人の支えがあってこそです。初心者には初心者の初々しいかかわりがあり,先輩には先輩の,少し遠くを見据えたようなかかわり方があります。医療者,患者とその家族,多くの力の集合でスピリチュアルケアが成り立っていくのだと思います。

■医療者も患者と共にケアを作り上げる

柏木 岡本先生は,同僚の医師に対して,スピリチュアルケアの観点をどのように伝えていますか。

岡本 患者と共にケアを作り上げていくのだという意識を持つことです。そして何より,いつも笑顔で,余裕のある安定した態度を保つこと。医師に,余裕といつも変わらぬ安定感があることは,患者・家族やスタッフにとって,とても重要なことです。

柏木 治療者が自我を磨く,いわゆる治療的自我(therapeutic self)という概念があります。医師への戒めでもありますが,ベッドサイドに座っただけで患者さんにスッと安心感が伝わるような,そういう医師像を自分で作っていく努力も必要になるでしょう。

 看護師の教育について田村先生にうかがいます。看護師に対するスピリチュアルケアの教育は,今後ますます大切になると思いますが,いかがですか。

田村 私の大きな問いは,看護師が「スピリチュアルペインは人生の課題である」「あって当たり前」という意識をいかに持てるかということです。そうとらえたならば,誰にでも当てはまるものです。この前提を学生や新人看護師に知ってほしいですね。そして,患者さんそれぞれが持つ人生の課題にアプローチするために,相手に関心を持ってほしい。関心を持つと,必ず相手のこれまでの人生がまざまざと見えてきますから。

 相手を理解することでさらに,ケアを受ける人がもともと備えている力,看護でいうセルフケア能力やコーピング・ストラテジーを高めることにつながっていきます。基礎教育の段階からスピリチュアルケアについて考え,触れられれば,看護師の意識もおのずと変わってくるでしょう。

柏木 現代ホスピスの母と呼ばれる英国人医師のC.ソンダースが書いた書物のなかに,“Death is not medical issue, but human issue(人が死ぬということは,医学的な出来事ではなくて人間的な出来事である)”という短い言葉があります。病院死が増えてきた現在,人が死ぬことは医学的な出来事のようにとらえられがちですが,もっと広く,ヒューマン・イシューとしてとらえる必要もあるということでしょう。スピリチュアルペインの,「ペイン」という言葉自体に何か痛みを想起させる面もあり,見失ってはいけない大切な概念を狭めてしまうように思います。その代わり「スピリチュアル・イシュー」,私の訳で言うと「魂の課題」は,ペインでなく人間誰もが持っている魂の課題ということになります。

 そうなると,回復可能な病気で入院している患者も,末期の患者も魂の課題を持っていると見ることができる。スピリチュアル・イシューに接する人は,ケアの基本を持った者として,ごく当たり前にそれぞれの課題に接していくことができるようになるであろうと思います。

(了)


柏木哲夫氏
1965年阪大医学部卒。同大精神神経科に3年間勤務し,ワシントン大に留学。アメリカ精神医学の研修を積む。72年に帰国し,淀川キリスト教病院に精神神経科を開設。同時にターミナルケア実践のためのチームを結成。84年には日本で2番目となるホスピスを開設。副院長,ホスピス長を経て,1993年阪大教授に就任。淀川キリスト教病院名誉ホスピス長。2004年より金城学院大学長。07年から同学院長を兼務。13年より現職。日本ホスピス・緩和ケア研究振興財団理事長。1994年日米医学功労賞,1998年朝日社会福祉賞,2004年保健文化賞受賞。

田村恵子氏
1978年四天王寺女子短大保健学科卒,80年高槻市医師会看護専門学校卒,1987年から淀川キリスト教病院勤務。96年聖路加看護大大学院前期博士課程修了,97年がん看護専門看護師取得。2006年阪大大学院医学系研究科博士課程修了(医学博士)。がん看護,特に進行がん患者のスピリチュアルペインとそのケアに関心をもって取り組み,その活躍の様子は08年,NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」でも紹介された。14年より現職。著書に『余命18日をどう生きるか』(朝日新聞出版),『看護に活かすスピリチュアルケアの手引き』(青海社)など。

河正子氏
1975年東大医学部保健学科卒。虎の門病院勤務を機に終末期がん患者の看護を課題と考える。81年東大大学院医学系研究科修了。90年に救世軍清瀬病院にホスピス病棟が開設されたことを知り,非常勤看護師として現在まで勤務。96年から10年間,東大大学院講師を務める。その後,2006年に緩和ケアサポートグループを設立。代表として緩和ケアの普及と充実のための活動を模索,08年にNPO法人化。著書に『看護に活かすスピリチュアルケアの手引き』(青海社)などがある。

岡本拓也氏
1989年京大法学部卒。浪速少年院法務官,キリスト教会奉仕会などに従事。その際,スイス人医師ポール・トゥルニエの書籍と出会い,医師をめざす。2000年北大医学部を卒業後,札医大地域医療総合医学講座,聖隷三方原病院,栄光病院を経て08年より現職。日本緩和医療学会認定緩和医療専門医。主な著書に『わかりやすい構造構成理論――緩和ケアの本質を解く』(青海社),近著に『誰も教えてくれなかったスピリチュアルケア』(医学書院)がある。

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