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医学界新聞

寄稿

2012.10.29

寄稿

私と医学界新聞


 『週刊医学界新聞』では,過去に多くの医療者の方々にご登場いただきました。そこで3000号を機に,これまでの記事を通じ深いかかわりのある方々に「私と医学界新聞」と題して弊紙との思い出を振り返っていただきました。


正しく医学の新しい流れを取り上げ続ける医学界新聞

高久 史麿(日本医学会会長)


 この原稿の依頼に関連して医学書院から送られてきた資料によると,私が医学界新聞の座談会に最初に出たのは,「新しい医学教育をめぐって――臨床系の系統講義のあり方」(第1315号,1978年9月11日発行)。ちょうどそのころ私は自治医大の教務委員長をしており,基礎・臨床統合講義やクリニカル・クラークシップの在り方について試行錯誤していた時代であった。

 東大の内科の教授をしていた時代には,京大内科の井村裕夫教授(当時)との対談が,「21世紀への内科学――分子内科学の進展と内科学の統合」(第1927号,1991年1月7日発行)をテーマに行われた(下写真)。ちょうど分子生物学的な手法が内科学の研究に積極的に取り入れられるようになり,内科学の研究が新しい時代を迎えようとした時期であった。また,1993年には「遺伝子治療の現状と将来」(第2025号)をテーマとした新春座談会に司会として登場した。私が厚生省(当時)で遺伝子治療臨床研究の審査委員会の委員長をしている時期である。

対談「21世紀への内科学――分子内科学の進展と内科学の統合」での井村氏(左)と高久氏(右)
内科学が経験の学問から科学へと変貌した20世紀を振り返り,21世紀を展望した。医学書院本社ロビー(当時)にて。

 私は毎週送られてくる医学界新聞のタイトルには一応目を通すようにしている。それを見ると,私が今までに参加したときと同じように新しい医学の展開や医学教育に関係するテーマが多く,現在もその状況が続いているという印象を持っている。今年の新春特集「日本発!! ブレイン・マシン・インターフェース新時代」(第2959号,2012年1月2日発行)などは正しく医学の新しい流れ,しかも臨床的な有用性の高い医療技術を紹介する記事として高く評価したい。

 医学界新聞には今後とも新しい技術の紹介や医学教育などの問題を取り上げていただきたいと考えているが,私が特に問題にしているのは現在の医師国家試験である。私は自治医大の学長をしているときから3日間に500題という医師国家試験の現状は医学生にとって過剰な負担であり,そのため臨床実習の時間が短くなっているといつも考えていた。

 わが国では臨床実習に入る前に共用試験が行われており,共用試験の内容は確実に良くなってきている。共用試験と医師国家試験とをどのように連動させるか,全国医学部長病院長会議でも問題になっていると聞いているが,この問題を医学界新聞でも取り上げてもらいたいと考えているのは私だけではないと思う。


時世の変遷と共感の歩み

矢崎 義雄(国際医療福祉大学総長)


 わが国の医学・医療は,1961年の国民皆保険制度の確立により,安心社会を実現するとともに,戦後の復興から世界第2位の経済大国に発展した過程で,基盤となる社会システムとして大きな貢献をしてきた。しかし,この20年間で,経済の成長時代が終わり,人口の少子高齢化も加わり,社会保障の持続可能性が危惧されるようになり,医療を取り巻く環境は大変厳しい状況になっている。

 このように大きく変遷してきた医学・医療の時々の動向を的確にとらえて,適切な論評を加えて報道してきたメディアはごく少数であり,その中でも,60年近い伝統を有し,しかも編集部が充実していた『週刊医学界新聞』の果たした役割は極めて大きかったと思っている。

 そこで,私はこのように大きく変わる医学・医療にあって,医学界新聞に共感を持って歩んできた思いが強い。特に,新医師臨床研修制度の発足時と,病院の医師不足に伴って注目されたチーム医療について,時宜を得た特集を組んでいたことが,印象深い。

 2004年に新医師臨床研修制度が発足した。医師が総合的な診療能力を修得することをめざした研修制度で,総合的なスーパーローテート方式と,研修病院を研修プログラムから選択できるマッチングシステムの導入,さらに研修に専念できるような処遇を行った画期的な制度である。当初は十分な理解が得られなかったが,医学界新聞では発足時よりたびたび特集を組んで,新制度確立に大きく貢献していただいた。

 一方,医療の高度化と人口の高齢化により,医師が,専ら業務を行う従来の体制では対応が困難となり,看護職を中心とした医療職種が,知識と経験,そして技術を持ち寄って医療を行うチーム医療の推進が欠かせないことが明らかになった。それには新たなカリキュラムに基づいた教育内容の見直しと責任体制の構築も必要となった。医学界新聞には,このような課題についても,理解を深めるための特集を組み,チーム医療の重要性が広く認識されるようになったことに深く感謝している。


社会の大きな転換期と医学・医療

井村 裕夫(京都大学名誉教授/先端医療振興財団理事長)


 『週刊医学界新聞』は,医師のみでなく多くのメディカル・スタッフに最新の情報を提供する専門紙として大きな役割を果たしてきた。私も対談や座談会に出たり,書評を書いたりしたことがあったが,最近は読者の一人としてさまざまな新しい情報を学ぶ場として活用している。研究・診療の現場を離れた私にとって,このような情報源は大変貴重である。

 さて,現場を離れると今まで見えなかったことが見え,あまり気にしなかったことが気になるようになる。そのことの一つについて書いてみたい。それは急速に進む少子高齢化の医学・医療への影響である。戦後わが国では,出生率は早くから低下していたが,ベビーブームの世代の影響で総出生数の減少はあまり顕著ではなかった。豊富な生産人口が,日本の経済や社会保障,特に医療を支え今日の長寿社会を実現する一つの要因となった。人口のボーナスを活用してきたわけである。

 しかし,総出生数の減少が次第に顕著になり,またベビーブーマーも引退し始めたことでボーナスはなくなり,医療をはじめとする社会保障をどう持続可能なものにするかが深刻な課題となりつつある。内閣官房の試算によると,2025年の総医療費は53兆円を,介護費は19兆円を超える見込みであるという。

 もちろんこの問題は医療のみでなく,雇用,労働形態,生活様式,社会構造など,極めて幅の広い問題である。社会が全体として大きな転換期にさしかかっていると言える。しかし医療費が社会保障費の大きな部分を占めているだけに,医療の在り方について真剣に考えねばならない時が来ていることは疑いがない。限られた資源を活用してどのように人々の健康を守るのか,そのために力を入れるべき分野は何か,医療をどのように効率化するのか,どのような老後が理想か,どのように死を迎えるか。これらはすべて医療関係者と国民の間に対話が必要な問題である。

 2015年に京都で開催する「第29回日本医学会総会」では,こうした問題についても討議したいと考えている。


脳科学の時代を振り返って

伊藤 正男(理化学研究所脳科学総合研究センター特別顧問)


 私の専門である脳科学はこの40年ほどの間に目覚ましく進歩したが,その時を追っての進歩については医学界新聞にたびたび取り上げていただいた。第1040号(1980年6月30日発行)には酒田英夫氏と私の対談「脳の設計図を求めて」,第2128号(1995年2月8日発行)には金澤一郎,永津俊治,立石潤,吉田光男各氏と私を含めての座談会「『脳の世紀』構想――脳研究の現状と展望:臨床編」が掲載されている。これらを読み比べて見ると,この時期,脳の研究が多角化し,一つの大きな研究分野にまとまりだした様子がよくわかる。そして1996年には日本で初めての大型戦略研究プロジェクト「脳科学の時代」が発足し,その後すでに16年を経た。

 この間の進歩を概観してみると目立つのは研究技術の進歩である。特にいろいろな分子プローブを使ったニューロンの分子的な活動の可視化技術,オプトジェネティクスと呼ばれニューロンを光で刺激したり光で活動を記録する方法,遺伝子を操作して神経回路を一時的に遮断する方法など,あるいは,脳波のように脳から取り出した信号を使ってロボットの腕を動かすなど,以前は夢のようにしか思われなかった研究方法が実現ないし,それに近い状況にある。

 しかし,欲を言えば目覚めている人間の脳の中から個々のニューロンの信号を取り出すというそれこそ夢のような技術が欲しくなる。無茶を言うようだが,今盛んに使われているファンクショナルMRIもついこの前までは夢のような話であったことを思うと,ただ笑ってばかりはいられない。

 基礎的な脳研究の分野では,個々のシナプスの伝達や可塑性にかかわる分子,細胞レベルの研究が大きく進んだが,多数のニューロンが作るニューロン回路あるいはシステムの働きを理解することはまだ難しい。このような局面では,コンピューターシミュレーションが次第に有効性を増してきた。例えば,B.サクマンは網膜から大脳皮質に至る視覚系の構造に基づいた忠実なモデルをスーパーコンピューター上に作り,その活動を目に見えるようにしている。

 現時点ではあらかじめ想像できるような出来事しか再現されていないが,その先に何が出てくるか期待もされる。また大脳皮質の回路をコンピューターに写しとって,その回路がどのような自発活動を起こすかを調べるマーカムらのBlue Brain Projectが進行している。大脳皮質には脳波状の波がよく出るが,浅層では得体の知れない波が出ることがあるそうだ。そういうものの意味を調べるにはどうしたらよいかが問題となるだろう。わが国でも「京」のようなスーパーコンピューターを使って大いに研究してほしいところである。

連続座談会「脳とこころ――21世紀の課題・1」(第2472号)より
左から野々村禎昭氏,合原一幸氏,伊藤氏,藤田晢也氏,乾敏郎氏,茂木健一郎氏。


分子遺伝学の世界へのデビュー

金澤 一郎(国際医療福祉大学大学院長/東京大学名誉教授)


 あれは,私の頭髪がまだ黒々としていた1983年のことだった。私が,それまでのハンチントン病の脳の神経伝達物質の研究から,遺伝子の研究に転向するきっかけとなる記事が,11月の『Nature』誌に載った。その数か月前にシカゴでの研究会で会ったばかりのジェームス・グゼラ博士らが,多型を検出するDNAプローブを用いての連鎖解析によって,ハンチントン病の遺伝子座が第4染色体短腕の先端部にあることを突きとめたという記事だった。

 しかし,その内容は,われわれ臨床家にはなじみの薄い遺伝子連鎖に関する遺伝学的知識と,当時やっと端緒についたばかりのDNA解析技術の両方を熟知していないと理解できないシロモノだった。当時,私がいた筑波大学で,この二つの領域の専門家に指導を仰ぐことができたのは幸運であった。さらに幸運なことに,この論文の重要性を喝破された先輩が,このグゼラたちの論文を医学界新聞で解説したらどうか,と私を推薦していただいた。

 執筆依頼を受けてから,私はあらためてこの論文がこの時以降の遺伝病解明に与える大きな影響を実感して,読者にわかりやすい解説をしようと心を込めた。慣れない図を作ったりした。そのおかげで,私自身この論文を非常によく理解できるようになった。だから,この医学界新聞に執筆した記事は,私の分子遺伝学の世界へのデビューを飾った,記念すべき記事なのである。

 私の顔写真付きの記事は1984年3月に載ったが,タイトルは「ハンチントン病のgene markerの発見――神経疾患と遺伝子工学の接点」(第1592号,1984年3月26日発行)だった。それ以後も,数回ほど座談会や対談に呼んでいただいて多くの先輩や後輩の方々とお話をさせていただいた。1987年には「神経科学の近未来」(第1753号,1987年6月22日発行,下写真),1995年には「『脳の世紀』構想――脳研究の現状と展望:臨床編」(第2128号,1995年2月6日発行),1996年には「展開期を迎えたヒトゲノム解析」(第2172号,1996年1月1日発行)と題する各座談会,そして2010年には「今,求められる診断とは」(第2883号,2010年6月14日発行)と題して永井良三先生(現自治医大学長)との対談をさせていただいた。

座談会「神経科学の近未来」のもよう。左から彦坂興秀氏,金澤氏,高坂新一氏

 こうして幾たびか座談会や対談に呼んでいただいたのは光栄なことなのだが,そこに載っている自分の写真を見て,年を追うごとに私の顔が膨らんでいることに驚いている。これ以上膨らまないようにするためには,医学界新聞に二度と顔を出さないようにするのが一番良いようである(笑)。


今に通じる時代の節目

南 裕子(高知県立大学学長)


 3000号に達した医学界新聞と私のかかわりは約30年前にさかのぼる。

 聖路加看護大の教授として就任したばかりのころ,当時の学長の日野原重明先生のお導きによるものである。それから何回かかかわらせていただいたが,今に通じる二つの記事を挙げて紹介したい。

 プライマリ・ナーシングの制度を確立し,マグネットホスピタルとしても有名になった米国のベス・イスラエル病院のJ. C. Clifford副院長(当時)を聖路加看護大でお招きした。その機会にと日野原先生とともに彼女のお話を聞く場が設けられ,鼎談記事が第1571号(1983年10月24日発行)に掲載されている。看護師の副院長は日本では珍しい時代だったので,40歳のころの私は,Clifford氏に直接的な質問を次々に投げかけた。この記事を改めて読み直すとチーム医療における看護職の責任と可能性について現在の日本の課題に通じるものがある。特にキュアとケアは二分化するものではないこと,看護職の自立は他職種との協力のもとに成り立つという彼女のコメントは今でも新鮮である。

 それから約20年後,2000年の新春鼎談に日本看護協会会長という立場で介護保険施設での「縛らない看護」について,当時東海大の末安民生氏と上川病院総婦長の田中とも江氏と鼎談を行った(下写真第2373号,2000年1月31日発行)。前年3月末に厚生省(当時)から「身体的拘束の禁止規定」という通知が出されたが,そのころの臨床現場と職能団体の先駆的な活動が見える記事である。私はそのとき,権限が限定されている看護者の不自由さ(心身ともに束縛されている感覚)が根底にあって,「人が人を縛る」という「あってはならないこと」を仕方なく,または慣習として受け入れていたのではと語っている。これも残念ながら今に通じるものではないだろうか。

鼎談「縛らない看護」より。左から,末安氏,南氏,田中氏。


医療制度の変化に先見の明

黒川 清(政策研究大学院大学アカデミックフェロー・教授/日本医療政策機構代表理事)


 週刊医学界新聞は,医療界の出版物としては発刊の時からかなりユニークな立ち位置を見せていたと思う。私も何回か登場する機会を得ていた。

 従来の「業界」の雑誌等が,主として医師向けであったスタンスから,若手医師のニーズ,特に医学生,研修医などへ向けたもの,看護へ向けたものを,「週刊」「新聞」のようなカタチで発刊してきた。

 医学書院は医学・医療界では主流の出版を手掛けていた中心的出版社であるだけに,「週刊」「新聞」のような形式はちょっと気が付かない新しい在り方,さらには医療界の中心に活動する新しい対象へ,分け隔てなく配信しているような形になっていた。

 近代社会制度の中での医療制度は長い間,医師を中心にして形成されてきた。日本も例外でない。そして医師の世界では大学教授と講座制度に支えられたヒエラルキー的構造にあった医学教育,研究,そして医療制度。医師は医療制度の中心にあった。

 そして国民健康保険制度の導入から50年の医療制度。多様な医療従事者の価値観と変わる社会の価値観と疾病構造,そして進歩を続ける医科学,バイオテクノロジー,社会科学,医療をめぐる訴訟など。時代の変化が激しく起こり始める。

 ネットで情報が広がり,高齢社会,生活習慣病の増加などの疾病構造が変化し,さらに情報の広がりが社会に浸透していくにつれ,多様なニーズを感じる社会の一方で,すそ野の現場の医療者の意識も変化していく。

 医師に従属していると感じられていた看護師,さらには将来の医療を担う学生,レジデントなどが参加し,同僚を対象に,新鮮でしかも読みやすい,週刊新聞の発刊を始めたのは,まさに時代のニーズにあった先見の明というべきであろう。

 当時に比べると,日本ばかりでなく世界の先進国での医学教育も診療の在り方も時々刻々と激変してきた。いわゆるグローバル化時代である。

 時代のニーズを先取りした,他国の医療や医学教育の変化の在り方,李さんの「アメリカ医療の光と影」などの超長期の連載は,ちょうど医学部での教育改革,臨床教育や研修,また歴史と医療制度の時代の変化を反映させた素晴しい読みものになっている。医師として活動していたころの李さんに私がボストンでお会いしたのは20年ほど前だが,執筆活動中心へと立場を変えて以来の長い間の執筆には頭が下がる。

新春対談「2002年,日本の医療をどう変える」(第2469号)での黒川氏(左)と木村健氏(右)


対話作法の道場

川島 みどり(日本赤十字看護大学名誉教授)


 1955年に創刊された医学界新聞の歩みは,51年からスタートした私自身の看護師歴とほとんど重なっている。私にとっての医学界新聞は,毎号の記事から時々の医学・看護界のトピックを知る貴重な情報源であっただけではない。書評や随想というコンパクトに意見の表出を図る機会は,文章表現の大変貴重な修練の場でもあった。さらに,手元にある1995年以降のインタビューや対談記事をあらためて読み返して,何と幸運な場を与えられたのだろうかと,折々の編集者に感謝しながら記憶をさかのぼった次第である。

 なかでも,看護学雑誌創刊50年記念と題した座談会「看護の50年を振り返る」(第221722202225号)は,太平洋戦争敗戦から50年間にわたり,行政や教育,政治にかかわってこられた金子光先生と高橋シュン先生という大先達のお話を伺いながら司会をさせていただいた。1996年から翌年にかけて3号にわたって分割掲載されている内容は,まさに,戦後看護のオーラルヒストリーであり,看護歴史学的な面からも貴重な資料と言える。

 歴史といえば,第2500号(2002年9月2日発行)での日野原重明先生との記念対談(下写真)でも,さまざまな形で育んだり失ったりしてきたものを総合して,この戦後50年間というのは,その後の医学・看護の再構築に通じる礎石と位置付けている。21世紀の今,医学・看護学に重ねて読むと興味深いものがある。

第2500号記念対談での川島氏(左)と日野原氏(右)
「日本の医学・看護の再構築を語る――戦後50年が育んだ礎石」と題し,日米の違いを踏まえ20世紀の医療を振り返りながら,21世紀の医学・医療の在り方を展望した。

 このほか,小玉香津子先生との「ヴァージニア・ヘンダーソン選集」刊行記念対談や,ベナーの「看護ケアの臨床知」の監訳者井上智子先生との対談では,新刊書の紹介を超えた看護そのものの在りようを示唆する上で議論が深まった。また,ナイチンゲール没後100年記念の女子医大名誉教授・岩田誠先生との対談(第2868号,2010年2月22日発行),医療過誤防止に関する李啓充先生との対談(第2410号,2000年10月30日発行)など,いずれも読み捨てるわけにはいかない。

 対談の醍醐味は,その場の雰囲気や新たな話題等で予想外の展開を見ることである。相手の論旨に耳を傾けながら自分の意見をまとめて伝える手法を含めて,もし「対話作法」というものがあるとしたら,私にとっての医学界新聞はその手法を鍛える道場であったと思う。


インフォームド・コンセントから始まった17年

李 啓充(医師/作家)


 私が医学界新聞に連載を始めるようになったきっかけは「インフォームド・コンセント」だったので説明する。

 学生時代には不真面目だった私が一生懸命文献を読むようになったのは研修医になってからである。ところが,文献を読むたびに出てくる「informed consent」という言葉の意味がわからず,「『知らされた同意』って何のことだ。医学部で教えてくれなかったぞ」とフラストレーションを募らせるようになった。

 「意味がわかった」と思えるようになったのは卒業してから4年目。米国人医師が書いた,その名も『Informed Consent』というタイトルの小説を読んだときだった。しかも,小説の落ちは「インフォームド・コンセントのおかげで患者の命が救われる」というもので,「こんなに面白くて啓蒙的な本を日本に紹介しない手はない」と,よせばいいのに,翻訳を企図するようになってしまった。

 素人が仕事の合間にする翻訳とあって,完了までには10年の歳月を要した。苦労を重ねての翻訳だっただけに出版したくなったのは人情で,人づてにあちこちの出版社に話を持ちかけたものの,どこからも断られてしまった。医学書院にも断られたのだが,ただ断るのは気の毒だと思ったのか,それとも,間に立って紹介してくださった方の顔を潰すのはまずいと思ったのかは知らないが,「米国の医療事情について医学界新聞に4,5回の予定で書きませんか?」と誘ってくださった。こうして始まった連載が,一時中断したもののずるずる続き,ついに17年目に突入した。ここまで続けて来られたのは,ひとえに読者の支援のおかげだったので,あらためて感謝したい。

 ところで,私を医学界新聞の連載に引きずり込んだ「インフォームド・コンセント」だが,先日,某大学の病院長が「米国式のインフォームド・コンセントは日本になじまない」とする誤解を講演で語るのを聞いてしまった。まだまだ啓蒙が必要なようである。


50年以上前から続く医学知識普及の原動力

河合 忠(自治医科大学名誉教授/国際臨床病理センター所長)


 1956年春,1年間のインターンを終え医師国家試験を受験し,その結果を待たずに渡米。米国病理専門医資格を取得して1962年12月に帰国した。今年,帰国後ちょうど50年目を迎えた。

 振り返ってみると,筆者の最初の日本語での論文を投稿したのが医学書院の『臨床検査』誌で,1963年である。それ以来,医学書院の雑誌に多くの論文が掲載され,医学書院から刊行された筆者の単著は4冊,分担執筆・編集・共著は約90冊に及ぶ。『血漿蛋白,その基礎と臨床』(1969年刊)は719ページにも及ぶ単著で,幸い多くの読者から好評をいただき,2年後には英語版『Clinical Aspects of the Plasma Proteins』とそのスペイン語版が出版された想い出の著書である。共著では,医学生の間で“異常メカ”の愛称で親しまれ続けている『異常値の出るメカニズム』(初版1985年)があり,増刷と改訂を重ね,現在第6版の編集作業が進行中である。

 『週刊医学界新聞』にも,いろいろな機会をとらえて登場させてもらった。その中でも,最も重要なテーマの一つは「基準値,基準範囲」で,菅野剛史浜松医大教授(当時)との対談として企画され,第2085号(下写真,1994年3月21日発行)と第2215号(1996年11月11日発行)に掲載された。従来,あいまいな形で使用されていた「正常値,正常範囲」という言葉を削除し,医師国家試験出題基準(1993年版)に初めて「基準値,基準範囲」が記述され,今日では広く医学界に定着しているが,その概念を医療従事者に広く普及させる一つの大きな原動力になった。

対談「“正常値”から“基準範囲”へ」より
菅野氏(左)と河合氏(右)。「正常値から外れると病気と認識される」「使う時々によって意味が異なる」などの“正常値”という言葉が抱える問題をあぶり出し,現在の“基準範囲”という検査値の考え方や検査の標準化について提唱した。

 こうした医学書院とのつながりで,『週刊医学界新聞』と「MEDICAL POCKET DIARY」とを今日まで継続して寄贈していただいており,筆者の日常生活の一部となっている。特に,医学界新聞は他の専門分野の雑誌・書籍の出版状況をup-to-dateに知ることができ,また今日的課題について簡潔にまとめられた記事,対談,鼎談などは筆者にとって不可欠な情報源であり,インターネット時代の今日でも貴重な情報源であり続けている。


社会にひらく「看護のアジェンダ」

井部 俊子(聖路加看護大学学長)


 2005年1月より『週刊医学界新聞』看護号に「看護のアジェンダ」の連載を始めてから,2012年10月22日号で〈第94回〉となりました。学会等でお会いする看護師をはじめ,医師やジャーナリストなどから「読んでいます」「楽しみにしています」という声を掛けられ,医学界新聞の読者層の厚さを実感しています。ある時は社会学者から,ホーソン工場の実験が報告された文献の年号が間違っているという貴重な指摘をいただいたこともあります。2005年以前には,私は看護系雑誌に連載していましたが,看護職以外からの反応はほとんどありませんでした。

 毎月,「看護のアジェンダ」に載せる事柄を考えて,原稿用紙5-6枚に執筆するという作業は,私の生活の一部になっています。20日を過ぎると,私の頭は原稿の執筆モードにセットされます。何を書くかがすっと決まる時もあれば,ああ今月は書けないのではないかと焦る時もありますが,今のところ連載に穴をあけたことはありません。

 「遠野で聞いた物語」(第2946号)は,東日本大震災の被災地の看護管理者に会いに行って書きました。「看護の力」(第2864号)も松山に取材に行きました。これを書こうと決めると,何か自分をつき動かすものがあるのです。

 これまでに書いた93編に及ぶ「看護のアジェンダ」。手元にあるテーマのリストを眺めると,映画をヒントにしたものや小説からストーリーを発展させたものが目につきます。執筆に際して心がけていることは,「看護を社会にひらく」ことです。看護が持っている力を世の中に知らせ,看護のアジェンダを共有していきたいと考えています。

 私の気ままな原稿の最初の読者である編集長の,時に鋭い指摘や励ましを追い風に,自分の感覚を信じて,書く作業に真摯に挑戦していきたいと思っています。

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