医学界新聞

寄稿

2012.08.27

【寄稿】

「生前供養」としての高齢者介護

六車 由実(特別養護老人ホーム介護職員,『驚きの介護民俗学』著者)


 毎年,お盆の時期になると思い出す光景がある。それは,2005年8月15日に訪れた江刺夏祭りである。

 この祭りには,江刺(岩手県奥州市)の全地区から鹿踊(ししおどり)の踊り手たちが集まってきて,街のいたるところで踊りを披露し合う。この地区の鹿踊の特徴は,鹿の面を被った踊り手が腰に長いササラ(竹の先を割って束ねたもの)を指し,八頭立てで群れを成して太鼓を打ち鳴らしながら踊るところにある。腰を低く折り曲げてササラを地面に打ち付けるときの仕草などは,まさに生きている鹿が躍っているかのようにさえ思えて感動的である。

踊っているのは生者か死者か

 祭りのメインイベントは,大通りで行われる百鹿大群舞である。100人以上の踊り手たちが一堂に会し,一斉に太鼓やササラを打ち鳴らしダイナミックに躍るのである。

 特に,日暮れからの大群舞は幻想的であった。暗闇の向こうからドドンドンという太鼓の音とササラの擦れるシャンシャンという音が聞こえてくる。その音は徐々に大きくなっていき,そして闇から姿を現した百鹿大群舞は目の前でしばらく勇壮な舞いを繰り広げ,そして再び音を残しながら闇の中に消えていったのであった。

 そこではもはや乱舞しているのは人なのか鹿なのか境があいまいであるように思われ,あるいはこの世のものではないモノの気配さえ感じられた。生者と死者と鹿の姿を借りた神仏や魂が交じり合い,溶け合っているような不思議なその時間と空間が,死者の魂を迎え,供養して,あの世へ送り出すという盆行事にあるということがとてもしっくりときたのを今でも覚えている。

 そして,祭りのときに見かけたもうひとつの光景も忘れられない。それは,鹿踊の踊り手たちが新盆を迎えた家を訪れ,遺影や位牌を前にして踊っていたことである。

 私は,その光景を見て胸が熱くなった。人は誰でも死ぬし,死ぬのは怖い。けれど,あんなふうに人と獣(鹿)と神仏とが溶け合うかのようにして弔ってくれるのであれば,自分も老いた後少しは穏やかに死を迎えられるかもしれない,そう思えたのである。

震災後のシシ踊の意味

 東北の民俗芸能の研究者である菊地和博氏(東北文教大)によると,東北の各地で伝承されるシシ踊(鹿踊,獅子舞等)は墓供養や新仏供養として舞われるという特徴があるという。そこには,祖先の魂ばかりでなく,亡くなって間もない荒々しい魂や祭られない魂,無縁仏をともに供養し,鎮魂を祈るという意味が込められているそうだ。

 震災以降,被災地でシシ踊をはじめ,さまざまな民俗芸能が復活しているのも,多くの失われた魂の供養と鎮魂を願ってのことなのだろう。民俗芸能を介した供養によって,死者も生者もともに救われていく。

内田・平川氏からの「言葉のパス」

 さて,医療系の媒体である本紙にこのような盆行事の思い出について長々と書いたのは,私の現在身を置く介護の現場から,最近あらためて「供養」について考えるようになったからである。

 そのきっかけは,平川克美氏,大野更紗氏との鼎談『後ろ向きでいいじゃない』(本紙2982号)であり,そのなかで,父親の介護を物語に綴った『俺に似たひと』(医学書院)を出版した平川さんが述べた「高齢者のケアには,生前供養という意味合いもあるんじゃないか」という言葉だった。

 後に聞くと,この「生前供養」という言葉は,友人である内田樹さんが最初に使ったのだそうだ。『俺に似たひと』のなかに,父親の背中を流す入浴シーンのイラストがある。それがまるで墓に水をかけているように神々しく見えて,そこから内田さんは「介護は生前供養だ」と評したらしい。

 平川さんはさらに,高齢者介護=生前供養を次のように意味付けている。《 「供養とは,その人のやってきたことを一度きちんと聞き出して,顕彰して,埋葬するという儀式」だ。だから,生きている間にどんなふうに生きてきたのかをちゃんと聞き出して,語られたことを綴っておく。そして浮かび上がってきた歴史を亡くなった後も次の世代に引き継いでいく》と。

「聞き書き」が意味付けられた思い

 私はこの「生前供養」という言葉を聞いて,「介護」ということのありように少なからず違和感を覚えながら介護現場で働いていた自分が,すっと楽になるのを感じた。

 拙著『驚きの介護民俗学』でも書いたが,介護現場とは助ける側(介護職員)と助けられる側(利用者)との非対称的な関係で成り立っている。したがって,介護やケアの専門知識と技術を持っている「助ける側」は,助けがなければ日常生活が送れない「助けられる側」に対して必然的に優位の立場にある。それは,介護保険制度が導入されようが,利用者の尊厳を強調しようが変わらない事実なのだ。

 しかし,私はその介護現場の事実を前にして,時々いたたまれない気持ちになって苦しくなる。80年,90年という時間を生き抜いてきた人たちが死をまもなく迎えようとするその時に,一方的に助けられるしかない,という在り方とはなんだろうと思うのである。

 だから,そこに民俗学の聞き書きを持ち込むことで,一時的にでも,「助ける/助けられる関係」が,「教えられる/教える関係」となり,介護職員と利用者との関係性が逆転することによるダイナミズムが必要と拙著では訴えたのだった。

 平川さんが語る「聞き出して,顕彰して,埋葬する」という「生前供養」という言葉は,そうした私の試みる聞き書きを深いところで意味付けてくれるように思えたし,また,さらには,一方的に「介護する/される」には収まらない,より豊かな高齢者介護の可能性を開いてくれるようで嬉しくなったのであった。

感謝と赦しの時間

 あらためて供養の民俗について考えてみると,日本ではお盆の鹿踊のように死者の冥福を祈る追善供養が一般的だが,他に針供養や人形供養のような物の供養もあれば,鯨供養や鳥供養,草木供養といった動物や植物に対しても供養が行われてきた。

 そこには,人ばかりでなく物や動植物にも魂が宿っているとする古来からのアニミズム思想が背景にあることはいうまでもない。さらに,供養される対象の多くが,人間が自らの生存や利益のために利用してきたモノであることからすると,供養には,その「モノへの感謝」とともに,酷使したり傷つけたりしたことへの「赦しを請う」という意味合いもあると考えられる。

 こうした日本的供養の在り方から,内田→平川と継がれてきた「高齢者ケアは生前供養である」という言葉を,私なりにとらえなおしてみるとこんなことが言えそうだ。

 すなわち,高齢者を介護する,ということは,長い時間を生き抜き,今ある私たちに多くのものを与えてきてくれた人々の労をねぎらい,感謝をすることだ,と。そして,今まで体や心を酷使し,傷つけてきたことへの,そのことを私たちが理解できなかったことへの赦しを請うことである,と。

和解の場としての介護

 それは具体的には,聞き書きによる人生の顕彰ということによるだろうし,あるいは,入浴で体を洗い流し清めるということによるだろう。そうした供養的な在り方によって,介護の現場が,介護する者とされる者とが沁み合い,和解する場となればいい。江刺で見た鹿踊のように。そして,旅立ちの日をともに穏やかに迎えられたらいい。

 生前供養としての高齢者介護,私は今その可能性を静かに考えている。


六車由実氏
阪大大学院文学研究科修了。博士(文学)。専門は民俗学。東北芸術工科大東北文化センター研究員,同大芸術学部准教授を経て,現在,静岡県東部地区の特別養護老人ホーム内デイサービスに介護職員として勤務。『神,人を喰う――人身御供の民俗学』(新曜社)で2003年サントリー学芸賞受賞。近著に『驚きの介護民俗学』(医学書院)。

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