医学界新聞

寄稿

2012.01.09

【新春企画】

♪In My Resident Life♪
すべての失敗が糧となる


 研修医のみなさん,あけましておめでとうございます。レジデント・ライフはいかがでしょうか? 病院選びに失敗,手技が下手で指導医に怒られた,患者さんとうまくコミュニケーションがとれない……など,悩んでいたりはしませんか? でも,それは誰もが通る道。失敗を糧に成長していくことで,一人前の医師になることができるのです。

 新春企画として贈る今回は,第一線で働く先生方に,研修医時代の失敗談や面白エピソードなど,“アンチ武勇伝”を紹介していただきました。

こんなことを聞いてみました
(1)研修医時代の“アンチ武勇伝”
(2)研修医時代の忘れえぬ出会い
(3)あのころを思い出す曲
(4)研修医・医学生へのメッセージ
青木 眞
箕輪 良行
岡田 唯男
蘆野 吉和
徳田 安春
兼本 浩祐
片岡 仁美


見事な胸水,「Made in ER by Dr. Aoki !」

青木 眞(サクラ精機株式会社学術顧問/感染症コンサルタント)


(1)気付けば一睡もできない2連直,最悪3連直といった沖縄県立中部病院の研修は苛烈を極めた。当時,琉球大学に医学部はなく,日本で最も救急車の多かった同院ERのすさまじさは今の研修医には想像を絶するのではないかと思われる。失敗のごく一部を箇条書きにする。

●当直で麻酔科に入った。しかし圧倒的な睡眠不足の中,血圧をモニターしたくても水銀柱を下げるうちに意識を失い,水銀柱を上げ直してまた意識を失い……を繰り返す。やがて執刀医から「おーい,青木。血が黒くなってきたみたい」と言われ,心臓が凍りつく思いで必死にバッグを押した(青木が寝ないように執刀医が脅しただけと後ほど知る)。

●精神科病院から若い青年が軽い下腹部痛でERに受診。バイタルに異常はなく,直腸診を含む腹部診察でも異常はなかったため帰す。翌日呼び出された外科外来で見た腹部単純写真には,直腸診では届かないところにまで上がっていた五寸釘が綺麗に写っていた。

●その年からカットダウンに代わる血管確保の手段として使われるようになった中心静脈ライン(CVL)。研修医一同,挿入チャンスを虎視眈々と待っていたのだが,その機会が早速ERで私のところに回ってきた。鎖骨下静脈にカテーテルがスムーズに入り,輸液もスムーズに落ちていった。「俺はCVLの名人に生まれたかも……」と思いつつ,次の日のモーニングカンファレンスで見たもの。それは,「おー! 皆よく見ろ。これは見事な胸水だな。Made in ER by Dr. Aoki !」。

(2)沖縄県立中部病院には,きら星のような指導医がめじろ押しであった。私も米国に留学して複数の施設で研修したが,指導医の熱意と教育文化においては沖縄県立中部病院も引けを取らなかったように思う。そんな多くの出会いの中から一人を選ぶことは難しいが,今回はカナダ人医師,G. C. Willis先生との出会いを書こうと思う。

 今でこそ北米の「大リーガー医」はわが国でも人気の的であるが,1970年代の極東の小さな島で研修医を教育するWillis先生は,欧米人の目から見れば特異な存在であったに違いない。病棟で回診するとき以外は,自室で静かにMKSAPを読み,執筆。17時には帰宅して家族との時間を大事にする姿は,365日いつも同じであった。

 宣教師の子どもとして中国に生まれ,その後,ボルネオのジャングルのなかで聴診器片手に診療していた彼のベッドサイド診断能力は,あらためて筆者が紹介するまでもないが,検査漬け・薬漬け全盛期の70年代において,強烈な印象を周囲の研修医・指導医に与えたに違いない。頭痛の患者さんにはちまきをし,頭痛が軽減するのを見て頭痛の原因は頭蓋外と指摘,脳血管障害で入院した青年の眼底を見て弾性線維性仮性黄色腫,血管雑音を聞いて肝細胞がんを診断。光速の診断が聴診器と眼底鏡だけで可能であることを示した。研修医がロールモデルとしないはずがない。

(4)良いロールモデルに出会えるよう祈ります。


出会いを大切に,「天までとどけ」

蘆野 吉和(十和田市立中央病院 院長)


(1)私は卒後すぐに仙台市立病院外科に就職し,3年間研修してから大学の医局に入局しましたが,これは東北大学初期研修の標準的スタイルでした。34年前のことです。

 当時は新しい医療技術,医療機器,医薬品などが導入され,医療が格段に進歩しつつあった時代で,先輩(指導医)からは医療現場で必要になる基本的な知識や技術,態度を教えてもらうだけでなく,新しい技術を一緒に勉強しながら現場に新規導入する機会も多くありました。例えば中心静脈カテーテル留置,血管造影,PTCおよびPTCD,あるいは超音波検査などは当時導入された技術で,本を見ながら自己学習し,最初だけ先輩の指導を受け,後は研修医だけで実施していたことも少なくありません。

 ときに「ヘマをするとどうなるのか」と秘かに心配したこともありますが,重大な医療事故を起こした記憶は残っていません。特に地方の病院においては,研修医が地域医療の担い手として実質的に重要な役割を果たしていたこともあり,チャレンジ精神をかなり育ててもらいました。

 失敗談として記憶に残っているのは「お前は情報伝達が下手だ」とよく言われたことです。診察した急患の状態報告で先輩に電話相談するとき,要領よく“必要な”情報を伝達し指示を仰ぐ必要がありますが,なかなかうまくできませんでした。うまくできるようになったのはそれから2年ほど経ってからです。

研修医3年目のころ
(2)私の医師としての態度に大きな影響を及ぼした人は2人います。

 一人は初期研修病院の2年上の先輩でした。クラブ(ワンデルング部)の先輩で,学生時代からの付き合いです。「一度や二度の失敗は許されるが三度目は許されない」「大きな山に登るためには避難路を含め事前の周到な計画を立てることが重要で,途中で危険なことがあれば無理をせず再度挑戦すればいい」と教えられました。

 もう一人は,1988年に赴任した病院の院長です。時代の先を読み,医療を受ける人の視点で医療を考えることのできる方でした。現在私が緩和ケアの世界で活動しているのも,院長として病院の指揮を執っているのも,彼との出会いがきっかけとなっています。そして,偶然にも二人の指導者の名字は同じ山口です。

(3)私が当時よく歌っていた曲は,小椋佳,南こうせつ,さだまさし,井上陽水の歌。そのなかで特に思い出の曲は,さだまさしの『天までとどけ』。出会いを大切にするという意味を込め,私の送別会で「私」がよく歌いました。

(4)現在,当院には年に50人ほどの学生が全国から見学に訪れます。私は学生との面談で当院の研修の特徴を説明しますが,そのなかでも特に強調していることは,積極的に臨床の現場にかかわり,五感を使って学ぶこと,初期研修2年間でプライマリ・ケアに必要な基本的な知識や技術を習得することは当然として,医療を受ける対象者を人間として総合的(全人的)に診る習慣を身につけること,医師として必要な哲学(生命倫理や死生観などを含む)があると研修中も頭の片隅に置いておくことなどです。そして,これが私から皆さんへのメッセージです。


自分の手先の不器用さを再発見

兼本 浩祐(愛知医科大学精神神経科講座教授)


(1)私の叔母は出雲で小学校の教員をしていました。毎年お正月に叔母のところを訪ねて来る二人の大学生がおり,私はその方たちと会うのを楽しみにしていて,彼らの学生紛争や恋愛の話を何か英雄譚のような憧れを持って聞いていた記憶があります。その大学生の1人はその後精神科医になり,そのことと関係があるのかないのかはわからないのですが,高校生になったときには私も精神科医になることを漠然とですが決めていたように思います。

 しかし,もともとの関心が医学というよりは哲学や心理学のほうにあったので,いざ医学部を卒業して研修医になる段になって抱いたのは,「このまま精神科に入局してしまうと,身体のことはまったく診ることのできない医者になってしまいそうだ」という懸念でした。

 最初は京大神経内科に入局したのですが,当時の神経内科は老年科と病棟をシェアしており,「それなら内視鏡などの手技も一緒に研修させてあげよう」と老年科の先生たちが機会を提供してくださっていました。神経学的所見がひと通り取れるようになったことはその後の貴重な財産になったと感謝していますが,もう一つ大きな出来事は,内視鏡を経験させてもらい,自分がびっくりするほど手先が不器用だと再発見したことです。今の臨床研修制度があのころ始まってしまっていたら,もしかすると研修を修了できなかったのではないかと思うほどです。一年して当時の神経内科の亀山正邦教授に精神科に異動したいと相談したときに,亀山教授が「いいよ,いいよ,そうしなさい。君にはそれが向いているだろう」と即座に言われたのを今でも鮮明に覚えています。

 学生のときにはまったく医学の勉強をしておらず,少し勉強し出したのは,自分が主治医として患者さんを持つようになってからです。学生時代は,ともかくひたすら下宿で悶々と自分探しをする日々でした。引きこもってひたすら自分を眺め続けてわかったのは,自分の中を眺め続ける限り,そこには自分の生きる根拠を納得できる形で与えてくれるようなものは何もないという至極当然のことだけでした。ですから,私の学生時代というのは,本当に何一つ世のためにも自分のためにも目に見えて役立つことはしないままに,まるで何処かに軟禁されて過ごしていたかのような扁平に続く時間であったという記憶があります。

(3)思春期の最後に耳に残っている歌は受験に失敗したときに流れていたキャンディーズの『春一番』で,それから後,大学時代には驚くほど音というものの記憶がありません。

(4)神経内科から精神科へ,それから関西てんかんセンターへ。ベルリン自由大学に留学し,また関西てんかんセンターに舞い戻り,松蔭病院へ行き,現在は愛知医科大学。誰かに言われて異動したわけでもなければ,かといって言葉にして語れるような明確な目的意識を持っていたわけでもなく,何か成り行きでその場その場を過ごしてきました。

 ですから助言めいたことは全然言えないのですが,頑張ってもどうしようもなくて先が見えないときがあっても,淡々とそれぞれのやるべき持ち場でやるべきことをやっていれば,時が思わぬ出口を教えてくれるように思っています。


切除胃を地下の浄化槽で探したトラウマ

箕輪 良行(聖マリアンナ医科大学病院救命救急センター長/臨床研修センター長)


(1)マッチングは思いどおりにならなくとも選択の意志は表明できる。君たちと違い,研修病院を全く自分で選択できなかったところから自治医大79年卒である私の臨床研修は始まった。

 都庁の命により都立豊島病院において79年4月から研修を始めたのだが,自治医大の2期生だった私が同院第1号の臨床研修医。周りにとってもすべてが前例なしで初めてのことばかりだったので,ローテーション先の内科の先生は,「へぇー,大学に入局しないでそういうふうに医者になるんだ」と珍しがって大切に育ててくれ,毎日のように飲みに連れて行ってくれた(研修2年目には忘年会を10日間で10回こなし,さすがに発熱して寝込んだ)。

 女子医大消化器病センター育ちの外科医たちは「こうやって糸結び練習するんだぜ」と手とり足とり教えてくれた。一方,東大第一外科の方たちからは,同じ胃がんでも女子医大と異なった手術方法を見せてもらい,固有肝動脈を結紮切離すると患者は死亡するという怖い事例も学んだ(そのころ,切除胃を洗浄中,洗浄用便器に誤って流してしまい,地下の浄化槽で網を使って探した経験は今でもトラウマになっている)。

 また,産婦人科では「術後,安心してビールを飲めるのはギネだ」と,病棟の医局で毎夕飲ませてもらった。同院での研修最後の3か月間はハンドメイドであり,午前中に皮膚科,耳鼻科,整形外科の外来,午後は内視鏡,夕方からは急患室と,研修を楽しんだ。

 卒後3年目,離島勤務を前に「どんな重症患者が来ても医者としてブザマなことはしたくない」と思い,てんこ盛りの救急患者を経験したいと考えた。某都立病院の救命救急センターへその希望を述べたところ,担当の先生から,「ここに来ても君が学びたいものは得られないから,日医大に行きなさい」とご教示いただいた。

 それを都庁に報告すると,阪大と並び,国内トップである日医大救命救急センターに連れて行ってくれた。その結果,当時センター長の大塚敏文先生から認めていただき,1年間の国内留学をすることができた。公務員の給料をもらいながら,日医大に行き,学外で手術,出張,バイトなどやりたい放題で過ごしつつ,救急医療の手ほどきを受けた。山本保博,辺見弘といった先生方から目標を得られ,まさに充実した日々であった(と同時に,学生結婚した妻との間に長男が生まれ,夜泣きが大変なころであった)。

 2年間のローテート研修に続き,3年目救急,そして4-6年目三宅島阿古診療所でのソロプラクティスが私の「後期研修」だ。離島勤務では,『Bates' Guide to Physical Examination and History Taking』をテキストに,高血圧患者全員に定期的な眼底診察と心電図検査,消化器系の患者には直腸診といった具合に自己学習した。まともに指導医がいた期間が1年余りという,乱暴な放し飼いの自己鍛錬レジデント・ライフであった(三宅島の3年間は,一生にわたる友人となった現村長,産業課長の2人に仲良くしてもらいながら,共働きである中学教諭の妻と幼子2人とは離れ,単身赴任で過ごした)。

(2)研修1年目に指導を受けた循環器内科の中村嘉孝先生からは,「とにかく心電図を100枚読みなさい」と課題をいただいた。心臓外科の中村譲先生からは,電気的除細動や心臓カテーテルの実際を教えてもらうだけでなく,六本木の遊び方も習った。

 また,眞栄城優夫先生には直接教えを請う機会はなかったものの,沖縄県立中部病院を往訪したときや学会でお目にかかる際には,「どうだ,頑張っているね。間違っていないからしっかりやりなさい」といつも励ましていただき,困ったときには自治医大の恩師・細田瑳一先生に相談させていただいていた。

(3)『スターウォーズ』のテーマ曲。「ダダンダダーン!!」という冒頭の部分を聞くと,研修医2年目の夏に40日間の休みを取り,米国カリフォルニアで家庭医学のエクスターンシップを行ったことが思い起こされる(現地の映画館で夜22時から観たのだが,ラストシーンで同盟軍が優勢になると,観客のアメリカ人たちが総立ちとなり,身震いしたのを覚えている)。

 当時,エクスターンシップのために,数か月間,毎週2日当直バイトを行って200万円近くを稼ぎ,カルフォルニア大サンディエゴ校の家庭医学科宛てに送る自分の推薦状を病院長名と学長名で作成した上で署名をいただき,短期留学を実現したのだ。しかし,研修責任者であった方からは,「そういうこと(留学)をやるのは10年早いよ,箔を付けに行くものだ」と言われてがっかりした。こういう指導医にはなるまいと思った。

(4)研修医時代は,導きがない手探りの不安から,毎日の研修について記録した。今見直すとまさに「ポートフォリオ」であり,当時のあり様が思い出される。流行りのポートフォリオとは,「評価方略」である前にこのような日記なのだと感じている。

 これから臨床医として歩む若い方々には,「こういう医者になる」と自分の研修目標・到達点を明確にし,毎日を突破していってほしい。


スーパー・ナースに学ぶ

徳田 安春(筑波大学附属病院水戸地域医療教育センター教授/水戸協同病院総合診療科)


(1)(2)沖縄県立中部病院のレジデント時代,多くの知識と技術をナースから学んだ。とくにインターンはナースの指導によって成長すると言っても過言ではない。

 1980年代後半の沖縄県立中部病院には,Tさんという“スーパー・ナース”がおり,病院内では有名な存在であった。TさんはICUナースで高度な臨床能力を有しており,当時のICUを仕切っていた。沖縄の方言をペラペラにしゃべることができたため,Tさん自ら病歴を取り直しており,たいてい私のカルテの記載を超える有益な情報を得ていた。

 また,全身のフィジカルアセスメントもすばらしく,外科患者の担当時には,急性膵炎患者のGray-Turner徴候を見つけ出し,緊急手術の適応であることを教示してくれた。胸部単純X線でのCVラインの先端部分の確認や,気管挿管後の挿管チューブの位置確認を教えてくれたこともある。モニター心電図で異常所見があった場合には,部下のナースに12誘導心電図をとらせ,不整脈や波形異常について判断し,担当医へ適切なタイミングでコールされていた。私が深夜帯にICU入院させた薬物過量摂取患者に装着していた人工呼吸器のウィーニングをどんどん進めてくれていたときには,私は翌日の抜管をするのみで済み,おかげでただちにICUから転床させることができた。

 医師が英語で記載したICU入院患者のカルテもTさんはすべてチェックしていたので,分厚くて古い医学英語辞典をいつも持ち歩いていた。4年間の臨床研修を修了した日,同期のC医師といろいろなことを教わったお礼に最新の新装版医学英語辞典を贈ったとき,Tさんがとても喜んでくれていたのが嬉しかった。

(3)シーナ・イーストンの『Morning Train(Nine to Five)』。「9時から5時まで」の仕事がテーマの曲。そのころは研修医1年目で,“超”長時間労働であり,「9時から5時まで」という仕事がうらやましかったのだ。毎朝6時に起き,病棟患者の採血業務を済ませ,担当患者の回診後,7時半からのカンファレンスに参加。8時半からはスタッフ回診,その後は病棟業務と新入院患者の診察と指示書き。昼食を取る時間がないときは,白衣のポケットに忍ばせたチョコレートを少しずつかじりながら仕事をしていたことを思い出す。

(4)スーパー・ナースから学ぶことは多いですよ。病院内で最も優秀なナースを見つけて友達になり,いろいろ教えてもらいましょう。


目の前のことで精一杯だった研修医1年目

片岡 仁美(岡山大学大学院 医歯学総合研究科 地域医療人材育成講座教授)


(1)私は1997年に岡山大医学部を卒業し,岡山大第三内科に入局,大学で半年の研修をした後,広島県の中国中央病院で2年間の研修を行いました。マッチングで選ぶのではなく,「与えられた環境で自分を伸ばす」ということは,適応力や自律性が一層求められる部分もあります。

 赴任した初日,内科部長のK先生が言われた「患者さんのそばを離れるな。それが一番大事」という言葉は今でも覚えています。“Patient First”を最優先事項として守った研修医生活でした。研修医がファーストコールで夜中に病院から呼ばれるのは当たり前であり,どんなに重症でも,どんな分野でも常に最後まで自分が主治医でした。

 入院から退院まで全経過の責任を持つことは大きな糧となった一方で,電話が鳴る幻聴で何度も飛び起きる癖が数年間治りませんでした。常に重症の患者さんを多数担当し,お見送りをするたびに屋上で泣いてから病棟に戻る毎日でした。患者さんと一緒に喜んだり悲しんだり,冷静沈着とは程遠く,「キミは要領が悪いね」というコメントをいただいたことも……(「でも要領が悪いくらいのほうが伸びるから」とフォローもしてくださいました)。一日中ポケベル(当時)で呼ばれ,歩行・食事などの速度が異常に速くなったのもこのころです。

 目の前のことで精一杯で,昨日,今日,明日くらいの時間感覚しかなくなり,過去の自分や将来の夢も何か遠く感じるような,とにかく一生懸命の1年目でした。

 2年目にはそれまで最年少だった自分が先輩となり,2人の女性の後輩が入ってきました。急に頼られる存在となったため,救急外来を手伝ったり,手技を助けたり,冷や汗をかきながら先輩らしく振る舞いました。頼られると不安な顔はできません。いつも冷静に全体を把握するという姿勢が身についたのは後輩のおかげであり,屋根瓦式教育において後輩の存在は非常に大きいと思います。

(2)多くの素晴らしい恩師,同僚,後輩,患者さんに出会い,その出会いの一つひとつは忘れられないものです。その中でもトーマスジェファーソン大(米国ペンシルベニア州)のDr. KaneとDr. Gonnellaは特筆すべき存在です。

 医師3年目に野口医学研究所から同大へ1か月のエクスターンシップを行った際にDr. Kaneから指導を受けました。臨床医・教育者として卓越した方で,何より感激したのが患者さんへのチームとしての接し方,患者さんを常に支え続けるという姿勢の示し方です。また,日本では怒られるほうが断然多かったので,毎日良い点をほめていただくという経験は,医療を学ぶ楽しさを再認識するものであり,自分が学生や研修医を教える際のスタイルのお手本になりました。

 その後,Dr. Kaneの下で学びたいと思い立ち,米国のレジデンシーのマッチングに挑戦するも,甘いものではありませんでした。しかし,縁あって同大に研究留学することとなり,その際に医学教育研究センターで師事したのがDr. Gonnellaでした。医学教育について教わるなかで,もともと持っていた医学教育への興味が生涯を通じて求めていきたいテーマとして確立しました。

(3)研修医2年目,後輩と歌ったのはSPEEDの『White Love』。1998年オリコン年間カラオケリクエスト回数1位だそうです(Wikipedia調べ)。

(4)日々頑張る研修医の先生方を見ると心から応援したくなります。今の時期の伸びる力は本当に大きく,どんな環境も転機もそれを生かすのは自分自身です。また,大病院,中小病院はそれぞれに長所と役割があり,多様性に富む場での経験が将来生きてきます。そして,仲間を大切にしてください。


マッチした病院は第7志望

岡田 唯男(亀田ファミリークリニック館山院長/家庭医療後期専門研修プログラム責任者/千葉大学医学部臨床教授)


(1)僕の研修医時代は3回(フェローを入れると4回)。いろいろありました。

1)在沖縄米国海軍病院:初めての他人との共同生活は大変でした。でも一生の友人もできました。
2)大学附属病院:なぜだか指導医にそっといじめられました(僕にだけ勉強会の資料をくれないとか……)。バレないようにやっていたと思うのですが,気付いていましたよ。きっと僕にも非はあったのでしょう。
3)米国家庭医療研修(レジデント):マッチした病院は第7志望。しかし,失敗とは思っていません。そこでの研修と出会い(下記)があって,今があるのですから。

【1年目】
●心疾患のある患者の貧血に直接評価を行わず,電話で輸血をオーダーして心不全に……。翌日2年目の医師から指導される。

●こども病院へのローテーション時。私はそれまで小児科の経験がわずかだったが,周りは小児科志望のエリートばかり。担当アテンディングからプログラムディレクターへ報告があったようで,呼び出されて「大丈夫か?」と心配された。

指導医養成フェローのころ,junior facultyとしてレジデントの卒業式恒例のスタッフの出し物に混ぜてもらったときのもの。帰国直前で,その後はすぐ堅い仕事に……。
【2年目】
●ナイトフロート(日中は寝て,夜にひたすら病棟当直をやるローテーション)により,生活リズムが狂い,他州で行う院外研修の免許申請が遅れ,ローテーションの開始も数日遅れてしまった。

●リハ科と肛門科を2週ずつ組み合わせて研修を実施する月のこと。前半のリハ科2週目の研修を終え,同僚と雑談していた。

 僕「次どこ?」
 同僚「肛門科」
 僕「え? 僕も次,肛門科!?」

 慌ててローテーションスケジュールを確認すると,僕は前半に肛門科,後半にリハ科をローテートする予定だったのだ。肛門科の研修は,sigmoidoscopy(S状結腸鏡)を多数習得させてもらえる開業医のもとで行っており,その先生はレジデントが来るときはわざわざ予約枠を減らし,患者一人当たりの時間を長めにとる配慮までされている方だった。気付いたころには時すでに遅し。先方からは「今度このようなことがあったら研修医はとらない」とディレクターへ苦情が……。当然叱られた。

 これまで幾度となく叱られましたが,誰一人として大声やひどい言葉は使わないのです。恵まれていたのでしょうか。しかし,それがかえって身に染みますね。また,それらの経験から大声と悪言なしの叱り方も学びました。

(2)忘れ得ない出会いは多々ありますが,あえて一人を挙げるなら,米国時代に主治医となってほぼ5年担当した境界性パーソナリティー障害の黒人患者(脊髄への銃弾により下半身麻痺)。無理難題をよく吹っかけられました。しかし,いくら大変だろうと,指導医は「あなたの患者よ,こう話しなさい」と対応方針を教えてくれるだけで,直接患者と対応することはありません。時代も違うのでしょうが,患者とのトラブルを上司が助けてくれることは期待できず,腹をくくって一生懸命に行いました。おかげで困難患者でも心理的抵抗は持たなくなりました(ウチの研修医ももうちょっと突き放したほうがいいのかな?)。

(3)もっぱら聞くのも演奏するのもjazzがほとんどなのに,その時代の思い出とリンクした曲となるとそうではありません。沖縄での研修医時代は,ディアマンテス全盛期。同僚と足繁くライブハウスへ通いました。

 ボーカルの日系ペルー人,アルベルト城間は,19歳のときに日本人歌謡コンクール南アメリカ大会で優勝して手に入れた日本への片道航空券をきっかけに来日し,ブレイク。彼の姿が留学を夢見ていた自分の希望と重なったのかもしれません。

 米国留学時代はシェリル・クロウの『Everyday is winding road』。サビの“Everyday is a winding road. I get a little bit closer(毎日が曲がりくねった道さ,ちょっとずつ近づくのさ)”がいつもカーステレオから流れていました。いつだって挑戦。

(4)迷ったら挑戦を選べ。与えられた条件,環境でベストを尽くせ。望まない結果が自分の転機となることはいくらでもある。道は必ず開ける。

 7人の先生方のレジデント・ライフはいかがだったでしょうか。

 あなたのその失敗も,きっとすべてが成長の糧。失敗なんて恐れずに,レジデント・ライフを突き進んでいきましょう!

(編集室より)

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