医学界新聞

連載

2011.09.26

看護のアジェンダ
 看護・医療界の"いま"を見つめ直し,読み解き,
 未来に向けたアジェンダ(検討課題)を提示します。
〈第81回〉
遠野で聞いた物語

井部俊子
聖路加看護大学学長


前回よりつづく

 東日本大震災から4か月余りがたった7月の終わりに,私は岩手県遠野市にある岩手県立遠野病院を訪ねた。盛岡から車で1時間半,北上盆地と三陸海岸とを結ぶ交通上の要地である遠野は遠野盆地の中心であり,山に囲まれた隔絶の小天地は民間伝承の宝庫である。柳田国男が日本民俗学を開眼させた『遠野物語』を著したところでもある。

 『遠野物語』の初版序文はこのように始まる。「この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分をりをり訪ね来たり,この話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手にはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句を加減せず感じたるままを書きたり(後略)」(『遠野物語――付・遠野物語拾遺』角川ソフィア文庫)。

 私が遠野病院を訪問した目的は,震災後の4月1日に赴任した総看護師長の鈴木榮子さんに会うためであった。

 鈴木さんは3月11日を,岩手県立大槌病院の総看護師長として迎えた。大津波で壊滅的な被害を受けた大槌町から,当初の予定通り異動となった鈴木さんという看護管理者に,私は会いたいと思った。以下の話はすべて遠野で鈴木さんに聞いた物語である。柳田国男の文体を模して語りには番号を付した。

 私は4月23日にインフルエンザに罹り,ようやく回復した。今は,アリナミン,黒酢そしてブルーベリーでもっている。

 (この写真は)車に乗っていて津波に流され,大槌病院の屋上に這い上がってきた男性。ぶるぶる震え,手が血だらけだった。一緒に屋上へ避難し,手当てをした。

 3月11日から13日までは,瓦礫に囲まれて病院は孤立。ライフラインも途絶え,情報は電波の悪いラジオだけだった。

 津波は8回から9回襲って来た。第2波が最大。大槌病院は3階建てで,入院病棟は3階にあり,53人の患者が入院していた。

 病院のそばの大槌川の水がぐっと引いた。そして空中に舞い上がった土煙とともに,家が立ったままこちらに向かってきた。津波が大槌川に入った途端に川が氾濫した。駐車場の車をどんどん流し,瞬く間に病院の3階階段に差しかかった。

 動けない患者をシーツに包んで,狭い階段を引き上げ屋上に運んだ。病室から屋上にマットレスを運び,患者を横たえた。重症者や寝たきりの患者は,「サンルーム」に隙間なく寝かせた。屋上は強風で雪が散らついていた。とにかく寒かった。

 サンルームといっても実は洗濯物の干し場でガラス張りだったので,雨風はしのぐことができた。サンルームで夜勤をしたナースは患者の布団の中に足を入れて暖をとった。

 倉庫にあった紙おむつを取り出し一個所に集めた。お茶を集めて皆で飲んだ。2階の備蓄倉庫から,男性職員が津波の泥をかぶったレトルト粥と水のペットボトルを見つけてきた。泥をぬぐい小さな紙コップに分け,最初は患者に,残りを職員で分けた。すするとひと口でなくなったが,おなかがすいたという感覚もなかった。

 水洗トイレは断水で使えなかった。大きな風呂に水が残っていたので,その水をくんでトイレを流していたが,そのうちに流れなくなった。

 トイレ係ができた。ポータブルトイレにおむつを敷いて,尿とりパッドにくるんで密閉箱に入れた。

十一 夜の寒さは厳しかった。職員は病衣を重ね着し,清拭用のタオルを2本首に巻き,ビニールエプロンを着けた。リハビリパンツをはいていた職員もいた。2日目の夜には,病室のカーテンを外して体にかけたり巻いたりした。

十二 翌12日,夜明けとともに寝たきりの患者を3階の病室に移した。職員は家族の安否も気がかりで仕事をしながら時々泣いていた。職員の中には瓦礫をよじ登り国道に出て必要な物資と助けを求める者もいた。

十三 震災後3日目を迎えた。「今後震度7の余震の可能性が70%ある」とラジオで聞いたので,院長を促して大槌高校に避難することに決めた。病院に残っていた患者をできるだけ自宅に引き取ってもらうよう家族と交渉し,結局28人を搬送することにした。

十四 津波の前に死亡した方を含む3人のご遺体を寒い部屋に安置し,氷枕やビニール袋に氷をつめて腹や胸を冷やした。

十五 99歳のタネゾーじいさんは,大震災の日,興奮が収まっていた。震災前から長男に退院を促していたが,長男の嫁がタネゾーじいさんの介護で疲弊し亡くなったことを理由に,「家に連れて行かない」と退院を拒んでいた。

十六 タネゾーじいさんを含む28人の患者を車椅子に乗せ,高台にある大槌高校まで1.5キロの瓦礫の道を,職員総動員で走るように運んだ。急な坂を上がり下りして腰を痛めたナースは,その後に手術をした。瓦礫の中で髪はざらざら,鼻の穴はまっ黒,5日間入浴できなかった。

十七 大槌高校に行って,「これで助かる」と思った。

十八 2つの教室を病室とした。マットレスを運び患者を横たえた。食事のときは,起き上がれない患者の背中を一人の看護師が後ろから抱きかかえ,もう一人がお粥を口に運ぶ。このスキンシップで雰囲気が和んだ(特に,この後施設に送られたタネゾーじいさんは,搬送車の中でしきりに「大槌高校に戻りたい」と看護師に話したそうである)。

十九 私自身は16日午後に大船渡の自宅に戻った。帰ってみると,遺体が置かれ,家族が皆集まり葬儀屋が納棺するところであった。「この遺体は誰なの?」と妹に聞くと,「お母ちゃんだよ」と言われた。在宅酸素療法を行っていた母は避難先で酸素もなくなり,12日に入院し15日に急死した。母の家も妹の家も津波で流され,私とも連絡が取れないため,遺体を一晩病院で安置し,その後私の家へ運んだという。

二十 母の火葬と納骨を済ませ,22日に大槌高校に戻った。

二十一 その当時,遠野病院に赴任するにも,3年住んだ大槌のアパートがなくなってしまったために服も靴もなかった。赴任に際して服を買うため,病院の2階の部屋に置いていたバッグから泥だらけのキャッシュカードを取り出した。大船渡の岩手銀行から震災後の引き落とし限度額の10万円を引き出し,「しまむら」で服を買った。

二十二 新しい職場の引き継ぎを3月30日に受け,翌日に遠野市へ引っ越した。無我夢中で行動してきたが,亡くなった母が時々夢に現れ「榮子」と私を呼ぶ。2か月たって,母親を助けられなかった後悔が襲ってくる。

二十三 身体がだるく,まぶたが重くてつらかったのが,この1か月で回復してきた。

二十四 遠野病院では,毎朝7時30分に幹部が外来受付に集まり打ち合わせをする。総看護師長が変わったことを知らせたいという院長の心くばりだと思う。

つづく

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