芸術的感性-感じる(田中和豊)
連載
2011.07.11
連載 臨床医学航海術 第66回 芸術的感性-感じる 田中和豊(済生会福岡総合病院臨床教育部部長) |
(前回よりつづく)
臨床医学は疾風怒濤の海。この大海原を安全に航海するためには卓越した航海術が必要となる。本連載では,この臨床医学航海術の土台となる「人間としての基礎的技能」を示すことにする。もっとも,これらの技能は,臨床医学に限らず人生という大海原の航海術なのかもしれないが……。
前回は,人間としての基礎的技能の第7番目である「論理的思考能力-考える」について考えた。今回は引き続き,人間としての基礎的技能の第8番目である「芸術的感性-感じる」について考える。
表 人間としての基礎的技能 | |
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習い事
筆者は,毎年新研修医のオリエンテーションで,点滴や糸結びなどの手技を教えている。アンギオの刺し方,そして,手や持針器を用いて糸結びを行う方法を教えるのである。このような手技を教えるとき,一応最初に理論的に説明を行う。しかし,これらの手技を実際に身につけるとなると,手技に関する理論的な説明の良しあしよりも,その手技を行う個々人の「感性」によるところが大きいような気がする。
例えば,アンギオを刺して血管確保するとする。どの血管にどの角度でどの方向にどのような力で刺すかということを,いちいち言葉で完全に説明することは困難だ。このようなことは自分の「感覚」から「体得」することであって,考えて理論的に納得するだけでは実践不可能なのである。
さらに,このような手技が上達するかどうかを分けるもう一つの要素として,手先の器用さが挙げられる。しかし,この手先の器用さを磨くトレーニングは,学校教育では行われていない。大学医学部でも手先を器用にするためのプログラムはないし,医師国家試験には手技などの実技はもちろんない。ということは,学校の勉強しかしていない者のなかには,そういったトレーニングを全く受けていない者もいるということである。
この学校教育で教わることのない手先の器用さを学習する機会がもしもあるとすれば,それは「習い事」ではないだろうか? 例えば,多くの人が子どものころに通う習い事として,ピアノがある。ピアノを習うすべての子どもが別にプロのピアニストになろうと思ってピアノを習っているわけではないだろう。ピアノを習う人は,ピアノを習うことによって習得できる「音楽的感性」や「手先の器用さ」が,自分の人生に何かしら役立つであろうと思って習っているはずだ。和音のハーモニーに敏感になる「音楽的感性」を身につければ,他人との不協和音に気付き,「空気が読める」ようになるかもしれない。「手先の器用さ」を身につければ,医療現場では点滴や縫合処理のような手技に寄与するかもしれない。このように,「習い事」をする人は,その「習い事」が必ずしも成績では評価されないかもしれないが,実社会において役立つであろうことを期待しているに違いない。
習い事の話にも関連するが,医師のなかには,将来医師になるために,医師の職業とは直接関係がない音楽・図工・体育などの勉強はしなくてよいという教育を親から受けてきた人がいるらしい。しかし,上述したように,「習い事」が臨床の現場でも役立つことを考えると,一見将来の受験には直接は関係しないように思われる科目を修めなかった医師が,本当に優れた医師になることができるのかは疑問である。
また,「数学は医学に全く役に立たなかった。だから医師は数学を学ぶ必要がない」とか,「習い事も医学に全く役に立たない。だから医師は習い事をする必要がない」などと言う医師もいる。しかし,果たしてそれは本当だろうか? このようなことを言う医師は,数学や習い事を医学へ応用できる能力がないのではないかと筆者は考えている。国語・算数・理科・社会・音楽・図工・体育など小学校で習った教科やすべての習い事は,医学に生かそうと思ったら生かすことができるはずである。それができないということは,本人に自分の習った習い事を医学に生かす能力がないからではないか……? 言い換えれば,それは自分の無能を隠すために単に言い訳しているだけなのではなかろうか……?
情に掉させば……
単に生活するだけでなく,より充実した人生を送るためには「論理的思考能力-考える」を鍛錬する必要があるように,「手先の器用さ」などにも通じる「芸術的感性-感じる」も切磋琢磨しなければならないはずである。例えば,ここで人とのコミュニケーションを例にとってみて考えればわかるように,「論理」は知的理解を,そして,「感性」は感情的理解を深めることにつながるのだ。ここまでで,確かに「芸術的感性-感じる」が大切なことはわかった。しかし,この「感じる」ことも,「考える」ことと同様に程度が過ぎると困ることがある。
以前,製薬会社の抗菌薬の説明会でこんなことがあった。説明会では,慣例に従い,製薬会社が用意したエビフライの入った弁当が配られ,出席者はその弁当を食べながら話を聞く。抗菌薬の使用方法などに関するエビデンスが示され,その内容はあたかもその抗菌薬が一番よく効く印象を与えるようなものだ。
一応はエビデンスに基づいてはいたが,必ずしも十分とは言い難いものだったので納得がいかず,筆者個人としてはその抗菌薬を使用することに乗り気ではなかった。また,いくら弁当付きの説明会とはいえ,こんな十分なエビデンスがない抗菌薬ならば,その製薬会社には悪いが,誰もその抗菌薬は使わないだろうとも思っていた。ところが,その説明会に出席していたある医師が突然,「今度からうちの科では,全員この抗菌薬を使用することにする!」と言い出したのであった!
あまりにも予想外のことだったので考えた。本当に製薬会社の説明に論理的に納得したのかもしれないが,この方はもしかしたらエビフライ弁当の味に惑わされ,その抗菌薬を選択すると判断したのかもしれない,と。もしもそうだとすると,それは真の「エビデンス・ベースト・メディシン」というよりは,エビフライ弁当に基づく医学,すなわち,「エビベン(エビフライ弁当)ス・ベースト・メディシン(註)」とでもいうべきものではないか!,と。こんなエビフライ弁当一つで魂を売ってしまうのか……? 製薬会社が接待に力を入れる理由がよくわかった……。
人間,あまりにも感覚にとらわれると,正常な判断ができなくなるのかもしれない。まさに夏目漱石が『草枕』で述べているように,「情に掉させば流される」のである。
以上のように,「論理的思考能力-考える」と「芸術的感性-感じる」は,ギリシャ語で「ロゴス(理性)」と「パトス(感性)」と言われるように織物の縦糸と横糸のようなもので,一方だけあればよいというものではない。実際,人間どちらか得意なほうに偏りがちであるが,どちらかに偏らないよう,両方のバランスをとるようにそれぞれの能力を伸ばしていかなければならない。
(つづく)
註:この「エビベンス・ベースト・メディシン」は,より正確にはMarketing-based Medicine(MBM)というらしい1)。
参考文献:
1)宮田靖志.日常臨床における利益相反 製薬会社との適切な関係構築に向けて.日内会誌.2010;99(12):3112-8.
この記事の連載
臨床医学航海術(終了)
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