医学界新聞

連載

2011.05.09

在宅医療モノ語り

第14話
語り手:あなたの決断を持ち運びます 往診鞄さん

鶴岡優子
(つるかめ診療所)


前回からつづく

 在宅医療の現場にはいろいろな物語りが交錯している。患者を主人公に,同居家族や親戚,医療・介護スタッフ,近隣住民などが脇役となり,ザイタクは劇場になる。筆者もザイタク劇場の脇役のひとりであるが,往診鞄に特別な関心を持ち全国の医療機関を訪ね歩いている。往診鞄の中を覗き道具を見つめていると,道具(モノ)も何かを語っているようだ。今回の主役は「往診鞄」さん。さあ,何と語っているのだろうか?


私クロの赤ちゃん鞄のころ
鞄の中は使いやすいように細かく分けられています。全国の先輩医師に教えてもらった工夫がいっぱい。初めは2人の医師で私を共有していましたが,喧嘩のタネになるので,その後分裂。今のご主人さまはオンリーワン。私もこの春3歳になりました。
 桜は確かに咲きました。今年の桜前線,少しは東北地方でゆっくりしてほしいですね。春に咲く花は,ヒトに力をくれます。学校でも職場でも,新年度が始まりました。新しい場所で,新しいヒト,新しいモノに囲まれている方も多いと思います。この春,鞄を新しくされた方はいらっしゃいませんか?

 少しだけ自分の話をさせてください。私はある診療所で使われている往診鞄で,通称“クロ”です。「MUJI」という有名ブランド出身で,3900円で売られていました。セールスポイントは,頑丈かつオシャレ,豊富な収納ポケット,自己主張し過ぎない色,持つヒトを選ばない形,そんなところでしょうか? 鞄の持ち主である私の主人は,「トート型で出し入れの楽なところが気に入った」と言っていました。

 そのヒトが何を大事に思っているか知りたければ,そのヒトの鞄を見てください。中身もですが,実は鞄そのものも,そのヒトの価値観を表しています。仕事用の往診鞄ではどうでしょうか? 在宅医療の現場において,ひとりの人間,ひとりの医師のやれるコト,やれる時間は限られています。その限りある中で何をやるのか。往診鞄には無限の取捨選択が詰まっているのです。注射薬はコレとコレ。点滴のボトル3つは重いな。どれを置いていこうか。打腱器は使わないこともあるけど必要だし。懐中電灯は,取り出しやすいここに入れて,電池も準備しよう。携帯はどこに入れようかな? このポケットだと緊急地震速報に気付かないかもしれないな。小さな決断と大きな決断の連続ですが,この決断を誰がするかといえば,もちろん私のご主人さま。

 さて,私クロの中には,一体何が入ったのでしょうか。どうぞ,どうぞ。遠慮なく私の中身を覗いてみてください。まずは訪問診療や往診で使う診察道具。聴診器,パルスオキシメーター,血圧計など。これらは私だけでなく,どの往診鞄さんにも入っていて,どの患者さんにも使う必須アイテムです。その他に打腱器やライト,メジャー,舌圧子もあります。次に治療の道具。具体的には注射や点滴,それらを使うためのシリンジ,ルート,固定のための道具やS字フック。内服薬や塗り薬,創傷被覆材もあります。気管カニューレ,尿道カテ-テルなどの交換するモノも時々入りますね。忘れてはいけないのが,処置を行った後に医療廃棄物を持ち帰るためのハコモノ。あとは,携帯電話も重要ですね。電子カルテを患者さんのお宅で記録するならコンピューターも必需品。紹介状や封筒,診断書類,それらを作成するための医師の印鑑もしっかり常備してあります。あとはなぜか浅川マキのCD。震災後には,「満月の夕」のCDとご主人さま用の飲み物と非常食も加わりました。

 新緑の5月。新しい気持ちで,いっそのこと,私の中のモノを一度全部外に出して,これからのことを考えてみましょう。何を大事にするのか? 優先していくのか? おっと,この点滴セット,実は使用期限が切れています。1年間,いざという時のためのスタンバイ,ご苦労さまでした。新人の点滴セットさんと取り替えさせていただきます。えっ,鞄もぼろくなってきた? ダメです。それはダメ。鞄の私はまだ捨てないでください。おしゃべりを始めたばかりのまだ小さい3歳です。かわいい盛りですよ。じっくり育てて,あなた色に染めてください。でもクロだから染まりにくいかな?

つづく


鶴岡優子
1993年順大医学部卒。旭中央病院を経て,95年自治医大地域医療学に入局。96年藤沢町民病院,2001年米国ケース・ウエスタン・リザーブ大家庭医療学を経て,08年よりつるかめ診療所(栃木県下野市)で極めて小さな在宅医療を展開。エコとダイエットの両立をめざし訪問診療には自転車を愛用。自治医大非常勤講師。日本内科学会認定総合内科専門医。

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