医学界新聞

連載

2011.04.11

〔連載〕続 アメリカ医療の光と影  第195回

アウトブレイク(10)

李 啓充 医師/作家(在ボストン)


2922号よりつづく

 前回のあらすじ:20世紀前半,米国で最も恐れられた感染症ポリオを克服すべく,ワクチン開発用に多額の研究資金を提供したのは民間慈善団体「マーチ・オブ・ダイムズ」だった。

 ハーバード大学のジョン・エンダースが,ポリオワクチン開発の「突破口」となる研究を成功させたのは1948年のことだった。組織培養を利用するとポリオウイルスの増殖・継代が容易となることを示したのであるが,彼の研究はウイルス学そのものを大きく飛躍させただけでなく,ウイルスの大量「生産」に道を開くことでワクチン実用化を大きく前進させた()。

生ワクチンか不活化ワクチンか

 当時,ポリオワクチン研究の主流はアルバート・セイビンらによる弱毒生ワクチンの開発であり,ジョーナス・ソークがめざした不活化ワクチン開発は「異端視」されていた。しかし,生ワクチンの開発にはサルへの投与試験で弱毒(低病原性)であることを確認しなければならず,実用化までに著しく時間がかかることは避け得なかった。一方,ソークにとって,エンダースの組織培養法確立は,不活化ワクチン実用化に向けての最大の技術的難関克服を意味した。

 マーチ・オブ・ダイムズはワクチン研究の最大のスポンサーであっただけに,実質的に研究の方向性を決める権限を有していた。理事長のバシル・オコーナーにとって,長年莫大な研究資金をつぎ込んできたにもかかわらず生ワクチン派の高名な研究者たちから「開発には時間がかかるから我慢が必要」と説かれ続けてきただけに,ソークの不活化ワクチン早期実現の「売り込み」は新鮮に響いた。しかも,1951年の船旅で知己を深めて以来,ソークとの間には親密な友情が育まれていたこともあり,その研究を全面的に支援するようになるまでに時間はかからなかった。

 かくして,1952年6月,ソークの不活化ワクチンが初めて人体に投与されることとなった。被験者は障害児施設に入所する16歳の少年だったが,ポリオ感染歴のある元患者を対象とすることで初めての臨床試験を行ったのだった。

 1953年1月,ソークはマーチ・オブ・ダイムズの予防接種委員会で「161人を対象に不活化ワクチンを投与したところ,血清抗体価の上昇が認められた」ことを報告した。ワクチンとしての有用性を示唆する結果だったが,さらに大がかりな臨床試験を実施するかどうかについて,予防接種委員会の委員たちの意見は分かれた。セイビンら生ワクチン派の研究者たちが,「不活化が完全である保証はどこにもない。もしウイルスが生き残っていた場合,被接種者にポリオが発症するのだからこれほど『恐ろしい』ワクチンはない」と,その安全性に疑義を呈して猛反対したのである(猛反対の背景にはオコーナーがソークを「えこひいき」しているとするやっかみもあっ...

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