医学界新聞

連載

2010.07.05

連載
臨床医学航海術

第54回

  医学生へのアドバイス(38)

田中和豊(済生会福岡総合病院臨床教育部部長)


前回よりつづく

 臨床医学は大きな海に例えることができる。その海を航海することは至難の業である。吹きすさぶ嵐,荒れ狂う波,轟く雷……その航路は決して穏やかではない。そしてさらに現在この大海原には大きな変革が起こっている。この連載では,現在この大海原に起こっている変革を解説し,それに対して医学生や研修医はどのような準備をすれば,より安全に臨床医学の大海を航海できるのかを示したい。


 前回は「人の話を聞かない」ことで起きる問題について述べた。今回は「聴覚理解力-きく」の最後に当たって,「訊く」ことについて述べる。

聴覚理解力-きく(9)

 「訊く」とは「尋ねる」ことである。この「訊く」ことを考えるために,有名な『徒然草』のある一段を読んでみよう。

『徒然草』第52段
 仁和寺(にんなじ)にある法師,年よるまで,石清水(いはしみず)を拝ざりければ,心うく覚えて,ある時思ひ立ちて,ただひとりかちより詣でけり。極楽寺・高良(かうら)などを拝みて,かばかりと心得て帰りにけり。さて,かたへの人にあひて,「年比(としごろ)思ひつること,果たし侍りぬ。聞きしにも過ぎて,尊くこそおはしけれ。そも,参りたる人ごとに山へのぼりしは,何事かありけん,ゆかしかりしかど,神へ参ることこそ本意(ほい)なれと思ひて,山までは見ず」とぞ言いける。
 少しのことにも,先達(せんだち)はあらまほしき事なり。

参考文献1より引用。現代語訳も同様)

 久しぶりに古文を読んで意味がわからないところもあるので,以下に現代語訳も示す。

 仁和寺にいる僧が,年をとるまで石清水八幡宮にお参りしたことがなかったので,情けないと思って,あるとき,思い立って,たった一人,徒歩で参拝したのだった。麓の極楽寺や高良大明神などを拝んで,これだけのものと思い込んで帰ってしまった。さて,傍輩の人に向かって,「長年の間,思っていたことを,しとげました。聞いていたものにもまさって,まことに尊くあられました。それにしても,参拝している人々が,誰もかれもみな山へ登ったのは,何事があったのでしょうか。いぶかしく知りたかったのですが,八幡宮へ参拝するのこそが目的であると思って,山の上まで見ませんでした」と言った。

 ちょっとしたことにも,その道の先導役は,あってほしいものである。

 おそらく誰もが高校の古文の授業で読んだ文章である。この話は,仁和寺の法師が,初めて石清水八幡宮を参拝するときに,何の下調べもせずに案内人なしで訪問して,麓にある極楽寺や高良社を石清水八幡宮だと勘違いして,本来参拝するはずの石清水八幡宮に参拝することなく帰ってきてしまったというお話である。この話を聞いて,徒然草の作者である兼好法師は,「ちょっとしたことにも案内人が必要だ」と結んでいる。

 しかし,仁和寺の法師が石清水八幡宮にたどり着けなかった理由は,それだけであろうか? 仁和寺の法師は,参詣していた人々が皆山に登っているのを見て,そのまま帰ってきた。すなわち,仁和寺の法師は参詣する人々が皆山に登っているのを見てそれを疑問に思ったが,「山の上に何事があるのであろうか?」という疑問を抱くだけで終わらせてしまったのである。最も大きな要因は仁和寺の法師に案内人がいなかったことではなく,この点にあったのではなかろうか? 彼が,せっかく石清水八幡宮を訪れて本来の目的である石清水八幡宮を参拝することなく終わるという不本意な結果を招きたくなかったのならば,そこで山に参詣する人にひと言訊けばよかったのである。「私はこの場所に不案内なのですが,みなさんが山に登っているのは何か理由がおありなのですか?」などと,ひと言恥を忍んで訊けばよかったのである。

 「道がわからないなら,近くの人に訊く」ことは古今東西の不文律である。確かに道を尋ねた人の中にはその道を知っていてもあえて教えない人もいるかもしれない。しかし,何人かに道を尋ねれば普通誰かは無料で教えてくれるはずである。もちろん,中には情報料としてお金を要求する人もいるかもしれない。そのときは交渉すればよいのだ!

 兼好法師はこの仁和寺の法師の問題に対して「案内人がいればよかった」という一つの結論しか書いていない。しかし,この問題の解決策はこれ一つではないはずである。この答え以外にも,旅行は突発的にしないで事前に十分に情報を集めるなど,もっと対処方法があったはずだ。解決策を一つしか示さないのは,問題に対する完全な考察不足である。

 評論家の小林秀雄は彼の著作『徒然草』の中で,兼好法師を「彼には常に物が見えてゐる,人間が見えてゐる,見え過ぎてゐる,どんな思想も意見も彼を動かすに足りぬ」と批評家として絶賛している(参考文献2)。しかし,このような問題の考察不足を考えると,兼好法師は『徒然草』の有名な冒頭の言葉にあるように『徒然草』を本当に単に思ったとおりに気ままに書いただけで,それを後世の人々が勝手に達人の名著と祀り上げているだけなのではないかと思えてしまう。

 こんな話を聞くと「何をばかのことを真剣に論じているんだ!」と笑って噴き出す人もいるかもしれない。しかし,医療現場でも同様のことが日常茶飯事なのだ! この医療現場で「訊く」ことについては次回に考えることにする。

次回につづく

参考文献
1)吉田兼好.徒然草第52段.神田秀夫,安良岡康作,永積安明訳.新編日本古典文学全集44――方丈記,徒然草,正法眼蔵随聞記,歎異抄.小学館.1995.
2)小林秀雄.小林秀雄全集〈第7巻〉歴史と文学・無常といふ事収載・徒然草.新潮社.2001.

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