医学界新聞

連載

2010.05.31

看護のアジェンダ
 看護・医療界の“いま”を見つめ直し,読み解き,
 未来に向けたアジェンダ(検討課題)を提示します。
〈第65回〉
『1Q84』にみる看護

井部俊子
聖路加看護大学学長


前回よりつづく

 『1Q84 BOOK 3』(村上春樹著,新潮社,2010年)が発売された。週末は,締め切りが過ぎている原稿も,見直しをしなければならない報告書も,書かなければならない年報の序文も放り出して,購入した『1Q84』を読みふけった。BOOK 3では,「1Q84」の世界が「1984」に戻って終結を迎えた。BOOK 1は〈4月-6月〉,BOOK 2は〈7月-9月〉,BOOK 3は〈10月-12月〉となっているので,次は〈1月-3月〉のBOOK 4があるのかもしれない。BOOK 4には「現実」が描かれるのだろうと思いながら。

人間の生と死のあいだ

 『1Q84 BOOK 3』を“看護のアジェンダ”としてみると,主人公の天吾が父親を看取るというテーマがある。このテーマはBOOK 3の天吾の章の大半を占めている(『1Q84』のファンでない読者には「天吾」と言われても困るであろうが,お付き合いいただきたい)。

 天吾の父親はNHKの集金人であった。子どものころ,天吾は休みになると父親につれられてNHKの受信料の集金をするために家々を回った。その記憶は,天吾にとって決して楽しいものではなかった。

 父親は,海辺の小さな町の療養所に入院している。父親の状況は次のように描かれる。「父親にその声が聞こえているのかいないのか,天吾にはわからない。顔を見ている限り,反応はまったく見受けられなかった。痩せた貧相な老人は目を閉じ,ただ眠っていた。身体の動きはなく,息づかいさえ聞こえない。もちろん息はしているが,耳をすぐそばに寄せるか,あるいは鏡の曇りで点検するかしないと,その確認はできない。点滴液が身体の中に入り,カテーテルが僅かな排泄物を外に運び出す。彼がまだ生きていることを示すのは,それらの緩慢で静かな出入りだけだ。ときどき看護婦(筆者註:作者は「看護師」を用いていない)が電気シェーバーで髭を剃り,先の丸くなっている小さなはさみを使って,耳と鼻から出ている白い毛を切る。眉毛も切り揃える。意識はなくともそれらは伸び続ける。その男を見ていると,人間の生と死のあいだにどれほどの違いがあるのか,天吾にはだんだんわからなくなってくる。そもそも違いというほどのものがあるのだろうか。違いがあると我々はただ便宜的に思いこんでいるだけではないのか」。

意識のない父親のそばで

 天吾は11月の半ば過ぎにまとめて休暇を取り,療養所の近くに宿を取って父親の面倒をみることにした。「天吾が町に滞在し,毎日父親の部屋を訪れるようになると,看護婦たちは前より心もち優しく,親しみを持って彼に接するようになった。まるで放蕩息子の帰還を穏やかに受け入れる家族のように」。

 意識のない父親のそばで天吾はこうして過ごした。「父親の病室に入ると,天吾はベットのそばの椅子に座り,短い挨拶をした。そして前日の夕方から今までに自分が何をしたのか,ひととおり順を追って説明をした。もちろん大したことはしていない。バスで町に戻り,食堂に入って簡単な夕食をとり,ビールを一本飲み,旅館に帰って本を読む。十時には眠る。朝起きると町を散歩し,食事をして,二時間ばかり小説を書く。毎日が同じことの繰り返しだ。それでも天吾は意識のない男に向かって,自分の行動をかなり細かいところまで日々報告した」。このような行為は「壁に向かって語りかけているのと同じだ」が,「しかし時には単なる反復が少なからぬ意味を持つこともある」という。

 そして,天吾は持参した本を朗読する。こんなふうに。「そのときに自分が読んでいる本の,そのときに読んでいる箇所を声に出して読む」「天吾はできるだけ明瞭な声で,相手が聞き取りやすいように,ゆっくりと文章を読んだ。それが唯一彼の留意する点だった」。そして「おしまい」と言って椅子から立ち上がり,身体を伸ばす。

 天吾は朗読に飽きると,「ただ黙ってそこに座り,眠り続ける父親の姿を眺めた」。そして彼の脳の中での物事の進行を推測する。「父親はこの海辺の療養所の簡素なベッドに横たわりながら,同時に内奥にある空き屋のひっそりとした暗闇の中で,余人の目には映らない光景や記憶に囲まれているのかもしれない」と。こうして,息子と父親の関係性の修復が少しずつ進む。

 意識のない患者のそばに腰かけて,今日はこんなことがあったと語りかけ,そのとき自分が読んでいる本を朗読する。同時に相手を想う。私は『1Q84』の天吾を通して看護のありようを学んだ。そして,文学作品を読むこと,つまり,天吾の内的世界をイメージすることは,看護師の語らいを豊かにするために必要なことであると再確認するに至った。

つづく

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