沈黙の身体が語る存在の重み(柳田邦男)
寄稿
2010.03.29
【特別寄稿】
川口有美子著『逝かない身体――ALS的日常を生きる』を読む
沈黙の身体が語る存在の重み
介護で見いだした逆転の生命観
柳田邦男(ノンフィクション作家・評論家)
《凄い記録だ》――私はこの本を読み進めるうちに率直にそう感じ,「生と死」をめぐる著者・川口有美子さんの思索の展開と,次々に登場する既成概念を打ち砕く数々の言葉に,ぐいぐいと引きこまれていった。
難病ALSの母を介護した12年間の記録だ。症状の進行がはやく,大半は言語表現力を失った沈黙の状態に陥っていた。
ALSは随意筋を司る神経細胞が死滅していく病気だ。手足が動かなくなるだけでなく,呼吸する肺の筋肉も動かなくなるので,人工呼吸器をつけないと生きられない。唇も動かなくなるから,発語ができなくなる。最近は技術の発達により,頬などに残されたわずかに動かせる場所にセンサーを取りつけて,YESかNOかの意思表示ができるようになった。
例えば介護者が50音表の文字盤を示し,「あかさたな……」と発音しながら指でたどっていく。「あ」と言った時に,患者が頬の筋肉を動かすと,センサーがピッと鳴る。次は「あいうえお」と1語ずつ読んでいく。「う」のところでピッと鳴ると,患者が言おうとする言葉の第1語が「う」であることがわかり,パソコンに記録させる。同じようにして,次の1語を探すと,「た」であることがわかり,患者は「うた(歌)を聴きたい」と言っているのだと汲み取り,好きな歌をCDでかけてあげる。患者とのコミュニケーションは,こうやって時間をかけて可能になったのだ。
ALSが他の病気と違う最も大きな特質は,五感と脳は生きているという点だ。ALSが進行すると,頬かどこかに最後まで残っていた筋のわずかな動きも消えてしまう。そうなると,センサーは何も感知できないから,患者は意思表示の手段を失う。目蓋も動かせなくなる。たいていは乾き目を避けて,閉じたままにする。患者は光もなく何の意思表示もできない中で生き続けるのだが,聴覚も思考力もあるのだから,ただひたすら耐えるだけという過酷な日々を送ることになる。そういう状態をTLS(Totally Locked-in State)と言う。
私は30年以上にわたって,がんが進行した人々の生き方と死の迎え方について学びを重ね,人間が「生きる」意味と「尊厳ある死」とは何かについて,自分なりにたどり着いた考えを持てたつもりでいた。しかし,最近,何人もの進行したALSの患者・家族にお会いして,その「生と死」への様々な向き合い方を見るにつれて,ALSの場合,「生きる意味」や「尊厳ある生」の問題は,がんの場合とかなり異質な面があり,もっともっと思索を深めなければ本質に迫れないなと,立ちすくむ状態になっていた。
そのさなかに,川口さんの『逝かない身体』に出会ったのだ。
この手記は,個人的な介護のドキュメントなのだが,母の言葉,心理,身体の様子などについてのとらえ方が実にきめ細かく,それらの一つひとつを通して,「生きる意味」や「生きるのを支える条件」についてどんどん思索を深め,自分を変えていく。しかも,医学の用語や既製の概念などにとらわれない平易な言葉と文章で表現している。それらは,一般的に考えられている難病患者の「いのち」をめぐる通念を180度逆転させるような,極めてドラマティックな気づきを含むので,私は川口さんが到達したそうした気づきの文章に出会う度に,心を揺さぶられ,「目から鱗」の気持ちになった。それらは,「...
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