医学界新聞

連載

2009.01.12

連載
臨床医学航海術

第36回

  医学生へのアドバイス(20)

田中和豊(済生会福岡総合病院臨床教育部部長)


前回よりつづく

 臨床医学は大きな海に例えることができる。その海を航海することは至難の業である。吹きすさぶ嵐,荒れ狂う波,轟く雷……その航路は決して穏やかではない。そしてさらに現在この大海原には大きな変革が起こっている。この連載では,現在この大海原に起こっている変革を解説し,それに対して医学生や研修医はどのような準備をすれば,より安全に臨床医学の大海を航海できるのかを示したい。


 前回「視覚認識力-みる」で観察力と発見力について述べ,いかに「みる」ことが難しいかを述べた。今回もまた「視覚認識力-みる」について考える。

人間としての基礎的技能
(1)読解力――読む
(2)記述力――書く
(3)視覚認識力――みる
(4)聴覚理解力――聞く
(5)言語発表力――話す,プレゼンテーション力
(6)論理的思考能力――考える
(7)英語力
(8)体力
(9)芸術的感性――感じる
(10)コンピュータ力
(11)生活力
(12)心

視覚認識力-みる(3)

現象学
 「みる」ことは難しい。それならば,どうやって事物を正確に「みる」ことができるのであろうか? そして,われわれがみているその事物はほんとうに存在するのであろうか? このような疑問は古来から哲学上の大問題であって,多くの哲学者がこの疑問について議論してきた。いわゆる「認識論」や「存在論」である。

 しかし,こういった従来の「認識論」や「存在論」などの哲学論議に真っ向から対決して新たな哲学を確立した哲学者がいる。それが,「現象学」を提唱したエドムント・フッサール(1859-1938)である。この「現象学」という哲学は,ひらたく言えば事物を観察あるいは分析することから哲学を始めようとした哲学流派である。こう言うと何をおおげさに当たり前のことを言っているのだろうと感じる人も多いと思う。全くそうである。多くの哲学者は当たり前のことをさも難しそうにおおげさに言っているだけである。

 古代ギリシャの時代から哲学者は,「永遠の真理は存在するのか? そしてもしもその永遠の真理が存在するとしたならば,人間はどうやってその真理を認識することができるのか」などの問題を議論し続けてきた。そういった「存在論」や「認識論」の一つの結論が,デカルト,カント,ヘーゲルにみられる「理性」による真理の認識を提唱した「近代哲学」である。

 ところが,現象学を提唱したフッサールは,「我考える,ゆえに我あり」という言葉に表されるように「理性」から哲学を始めるのではなく,まず「事物」自体から哲学を始めようと言ったのである。そして,彼が対象とした「事物」とは誰もが存在すると信じている現実の「物」だけでなく,われわれの思考の中にしか存在しない非現実的な「もの」も含めている。このため,フッサールは彼の哲学を「事物学」とか「現実学」などと呼ばずに,広く「現象学」と呼んだのだと思う。

 つまり,この「現象学」が対象とする「現象」は,実際に存在するのかしないのかわからないのである。ここで,そんなあいまいなものを哲学は対象としてよいのであろうか,という疑問が当然わく。全くそのとおりである。デカルトは疑っても疑いきれないものだけしか真理として存在しないとした。しかし,これに対してフッサールはすべての現象から哲学を始めようと言ったのである。このあいまいな「現象」を認識するときに,フッサールは「現象学的還元」が必要であると述べている。この「現象学的還元」とは,「現象」を観察するときにその「現象」が存在するのかしないのか,そして,その「現象」が本当なのかどうなのかという判断をすることをとりあえず後回しにして(保留して)観察しようということである。「現象学的還元」などというと非常に難解に聞こえるが,簡単に言うと先入観をなくして事物を観察しようということらしい。このように「現象学」はありとあらゆる「事物」を対象とするために,その「事物」を認識する方法は単に考える「理性」だけでは到底不可能となり,みたりきいたり感じたりして「事物」を認識しなければならなくなったのである。

 このフッサールの「現象学」という哲学を,フランスの実存主義哲学者サルトルが初めて知ったとき非常に感激したというのは有名な話である。

 

 「アロンは自分のコップを指して,《ほらね,君が現象学者だったらこのカクテルについて語れるんだよ,そしてそれは哲学なんだ!》

 サルトルは感動で青ざめた。ほとんど青ざめた,といってよい。それはかれが長いあいだ望んでいたこととぴったりしていた。つまり事物について語ること,かれが触れるがままの事物を,……そしてそれが哲学であることをかれは望んでいたのである。」

 サルトルがはじめて現象学と出会ったときの情景を,シモーヌ・ドゥ・ボーヴォワールが『女ざかり』の中でこう描いてみせている。(参考文献1より引用

 

 この話を哲学者でない素人が聞くと,哲学者は現象学が提唱される約100年前までカクテルについて全く語れなかったのか? 哲学者はカクテルを全く飲んだことがなかったのだろうか? はたまた,哲学者はカクテルを語ることなくしてカクテルを飲んでいたのであろうか? などと考えてしまう。哲学者はカクテルの存在に行き着くのに人類誕生以来いったい何千年かかったのだろうか?

 こう考えると哲学という学問がいかにバカバカしいかと思えてしまう。そんな学問を修めても到底食っていけないだろうし実生活にもほとんど役立たない,と。ところが,実はこのようにバカバカしいのは哲学だけではなく医学も全く同様なのである。古来から医学という学問は人体の正常な機能と傷病のメカニズムを解明することに心血を注いできた。そのため,医学理論で説明できないことは,ありえない,あってはならない,あるいは,もしもあったとしてもどうしようもないと考える傾向があった。

 例えば,若い健康な人間がある日突然心肺停止となって死亡するという「現象」がその一例である。若い健康な人間に病気はなくいたって健康であるので,突然心肺停止になることなどあるはずがないし,ありえない。しかし,実際にそういう「現象」があるということは古来からアジアで言い伝えられて来た。若い男性が夜間に突然もがき苦しんで叫び死亡する病気が,日本では「ポックリ病」,タイでは“Lai Tai”,フィリピンでは“Bangungut”などと伝承されてきた。そして,この心臓突然死は「蘇生法」が普及した現在では救命可能となった。そして,その生還者の心電図所見から,ある特徴的な心電図波形を持ち,かつ,家族歴に心臓突然死が多発する一つの疾患群が1992年に提唱された。Brugada症候群である。そして,このBrugada症候群の原因は,現在では心筋ナトリウム・チャンネルSCN5Aの異常と染色体3p22-25の異常の2種類あることが判明している。

 この「心臓突然死」という「現象」はBrugada症候群だけではすべては説明されていない。しかし,少なくともBrugada症候群という「真理」は「心臓突然死」という「現象」を解析することによって発見されたものである。そして,医学がこの「心肺停止」という「現象」に対して真剣に対処して「蘇生法」を研究し始めたのは,「現象学」の提唱より遅れてたった50年ほど前のことなのである。

 それならば,哲学者のカクテルではないが,医学についてわれわれはこう言わなければならないのである。

 

 《ほらね,君が現象学者だったらこの心肺停止を治療できるんだよ,そしてそれは医学なんだ!》,と。

次回につづく

参考文献
1.木田 元:現象学(岩波新書,1970)
2.田中和豊:Brugada症候群,問題解決型救急初期診療(医学書院,p.104-105, 2003)

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