医学界新聞

連載

2008.07.07



名郷直樹の研修センター長日記

54R

死ぬのはいつも他人ばかり

名郷直樹  地域医療振興協会 地域医療研修センター長
東京北社会保険病院 臨床研修センター長


前回2784号

▲月○×日

 研修医と振り返りをすると,よく亡くなった患者さんの話題になる。今日もそうだった。

 

「受け持ち患者さんの看取りに付き合いました。末期がんの患者さんだったのですが……」

 

しかし今日はなんだか研修医の話が上の空だ。上の空なのは,研修医でなく私の方。

 

「それは貴重な体験だったな。また少し時間をおいて振り返ってみてはどうかな」

 

 全然聞けてないのである。理由ははっきりしている。ほかごとを考えていたのだ。先週末に京都の東本願寺に行ってきた。別の用事で行ったのだが,たまたま時間ができたので,駅前からほど近い東本願寺に行ってみたのだ。それはたまたま駅から近いということもあるのだけど,祖母の遺骨が納められているのである。遺骨があるということに何か意味があるのか,よくわからないが。というものの,火葬場で,祖母が骨となって出てきた時の光景は,忘れることができない。跡形もなく焼けている。ほんのわずかな骨があるばかり。頭蓋骨の一部だったろうか。ひとつの骨がゆらゆら揺れていた。遺骨がここにあるというより,その光景を思い出す。

 知らせを聞いて,実家へ帰った時,亡くなった祖母を見ても,何だか死んでいるというのが実感できなかった。祭壇のある部屋で,一夜を過ごしたのだが,そこに死体があるという気はしなかった。そこにはまだ生きている祖母がいるような気がした。楽しいことばかり思い出す。姉がそう言っていたのを思い出す。私自身は何を思い出したのだろう。よくわからない。しかし,火葬場では違った。もう祖母はいないのだ。それを思い知らされたというか,なんというか。でもこういう経験が,死を遠ざける原因なのかもしれない。あの燃やし方はよくない。もっと時間をかけてお別れすべきだった。火葬場なんか行かなければよかった。

 患者の死に,火葬場まで付き合った医者はいるだろうか。私はしたことがないが。でもそんなことしなくていい。患者さんとゆっくりお別れできるように。

 

 死ぬのはいつも他人ばかり

 

 そんな言葉を思い出す。便器を横倒しにして,「泉」と名付けて,展覧会に展示した,マルセル・デュシャンだっけ。あるいは私にとっては寺山修司。デュシャンや寺山修司がどんなことを考えていたのかわからない。私は私で,私なりに,死ぬのはいつも他人ばかりと思う。確かに。生きるというのは他人の死を経験することだ。このことは常に真である。自分の死を経験することはできない。他人事として経験するからこそ,むしろ経験になるのか,どうか。

 祖父母,父,そして多くの患者さん。他人の死ばかりを経験しながら,ともかく47年生きてきた。母親のおなかの中を勘定に入れれば48年か。長いというか,短いというか。

 そんなことは,どっちでも同じこと。どういっても同じことだ。どうしようもない47年といっても,素晴らしい47年といっても,それもまた同じこと。ロクな人に出会わなかったといっても,いい人にだけ巡り合ったといっても。そして,この立派な男,というか,ついにこのざま,というか。どういおうが同じことにしかならない。

 あの時の光景も,多分同じだ。長いというか,短いというか,そのどちらでもない人生。しかし,祖母の死が無意味とは思えない。そういう中で見た火葬場の光景。予想外の事態が受け入れられない。思考が止まる。やはりあの場面に立ち会うべきであった。あのほとんど燃えかすしか残らない,あの光景。虚無,といってもいいのか。でも虚無にも意味がある。立ち会ってよかった。無意味といっても,意味があるといっても,それもまた一つのことだ。

 

 つまり,人生には意味はない,といっても,人生に意味はある,といっても,同じことだ。何もいわないということができない以上,結局何かをいうのだ。こうして書かずにはいられぬように。それは常に,「生きる」ことが前提にされているからだ。ただそれ自体,「死ぬ」を前提としているからだ,といってもやはり同じこと。そういうふうに振り返るしか,振り返りようがない。ああいい人生だった。それだけではだめなのだ。いいような,悪いような人生。生きたい,死にたい。それもまた一つのこととして。やはりそう振り返る必要がある。

 

 しかし,である。生きたいといい,素晴らしいといい,いい人といい,愛だというが,死にたいとか,ろくでもないとか,悪いとかいわないのである。これはどういうことか。そうはいうが,テレビでくだらないって言ってたな。

 

 缶コーヒーの宣伝。そこをうまくついた。「このくだらない,素晴らしい世界」。トミー・リー・ジョーンズだっけ。でもこれじゃあ,「素晴らしい世界」というふうにしか思えない。だから,本当はこう言わなくてはいけない。「この無意味な,意味のある人生」。

次回につづく


本連載はフィクションであり,実在する人物,団体,施設とは関係がありません。

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