医学界新聞

連載

2007.12.17

 

研究以前モンダイ

〔その(9)〕
魔法のコトバとしての根本仮説

西條剛央(日本学術振興会研究員)

本連載をまとめ,大幅に追加編集を加えた書籍『研究以前のモンダイ 看護研究で迷わないための超入門講座』が,2009年10月,弊社より刊行されています。ぜひご覧ください。


前回よりつづく

 科学的な命題でもなく,その真偽を確かめることもできませんが,多くの人にとって役に立つ「魔法のコトバ」というものが存在します。今日は,そうした魔法のコトバを通して「根本仮説の有効性」について考えてみましょう。

魔法のコトバとは何か?

 魔法のコトバはいくつもありますが,ここでは「人生に起こるすべての出来事には意味がある」というコトバを取り上げてみましょう。

 なぜこれが魔法のコトバになるのでしょうか? それは人間は本質的に意味を求める心性をもっているためです。

 「自分は何のために生まれてきたのか?」「生きる意味はどこにあるのか?」「こんなことして何の意味があるのか?」「せっかく生まれてきたのだから意味ある人生を送りたい」

 こうしたことを一度も考えたことがないという人はおそらくいないでしょう。人間は意味を求める存在であるゆえに,「意味がない」ということには長く耐えられません。人生に生きる意味がないならば,なぜ辛い思いをしてまで生きているのか,そう考えることは自然なことといえるでしょう。

魔法のコトバの使用例

 仮に,「人生に起こる出来事には何にも意味はない」と信じている人が,突如難病にかかったとしたらどうでしょうか。「意味はない」のですから,それを探そうとすることもないでしょう。「突然難病にかかって,痛い思いをする」という出来事は,理不尽に降りかかってきた単なる不幸ということにしかなりません。

 ここで誰かに「知ってる? 人生に起こるすべての出来事には意味があるんだってさ」とその魔法のコトバを教わったとします。ここで,そういうものだと信じることができると話は早いのですが,さしあたり「もしかしたらそうかもしれない」と思い定めてみたとします。

 すべてのことには意味があるのですから,「突如難病にかかる」という一見まったく意味がないようにみえる出来事にも,探してみれば何か意味があることになります。したがって,この人もあるとき「自分が難病にかかったことにはどんな意味があるのだろう?」と考え始めるかもしれません。

 そして,ふとしたことから「これは自分の人生を振り返って本当に大事なことを思い出すために与えられた機会なんだ」といったように,積極的な「意味」を見いだすようになるかもしれません。

「意味」とは何か?

 それでは「意味」とは何でしょうか?難しい問題ですが,少なくともいえるのは,それはどこかに転がっているような実在物ではない,ということです。

 「これには意味がある」とか「これには意味がない」とか“思っている”のは,誰でしょうか? そう,それは僕やあなたに他なりません。ですから,意味は「発見する」ものではなく,「紡ぎ出す」ものなのです。

 そしてそうであるゆえに,「人生に起こるすべての出来事には意味がある」という命題は,魔法のコトバとして,人が意味を紡ぎ出しやすいようそっと背中を押してくれるのです。

 そして意味を作り出した後には,その意味はあたかも「最初から自分に発見されるのを待っていた」と思えるほど確かな存在として,自分を支えてくれるようになります(それが自分を縛るようになることもありえますが)。

 僕ら人間は,時間を戻すことができないため,起きた出来事を取り消すことはできません。しかし,出来事の意味は後から変えることができるのです。これはコトバをもつことによって与えられた最大のギフトなのです。

看護実践への応用

 この力を活かさない手はないでしょう。ですから,もし自分に起きた出来事に意味を見いだせずに苦しんでいる人がいたならば,適切なタイミングでこうしたコトバをかけることによって,意味を見いだす力をエンパワー(付与)することができるかもしれません。その結果,哀しい思いをしたからこそ見えてくる意味があることに気づく,といったこともあるかと思います。

 ただし,その人がショックのあまり混乱した状況にある場合,このようなコトバをいわれても,何も意味を見いだすことはできないということもあるでしょうから,その個人の状況やタイミングなども熟考する必要はあると思います。この点は重要な研究課題になりうるかもしれません。

魔法のコトバは根本仮説である

 さて一見,連載テーマとは直接関係なさそうに見える「意味」の問題ですが,これは「研究以前のモンダイ」を考えるうえで避けて通れない,「根本仮説」について考えるよい例となります。

 「出来事には必ず意味がある」という魔法のコトバは,実は本当かどうか確かめることができません。なぜなら,先ほどもいったように意味は作りだすものだからです。ゆえにこの命題は,出来事に意味を見出すことができる人には,正しい命題になりえますが,そうじゃない人には間違った命題ということになります。

 そう,この魔法のコトバは反証不可能な「根本仮説」なのです。

自然科学も根本仮説に依拠している?

 したがって,ポパーのような反証主義を信奉する科学哲学者にいわせれば,このコトバは第三者が反証(テスト)することができない反証不可能な命題であり,科学的な命題ではない,ということになります。

 えっ,「非科学的なものは看護実践では使うべきではない」ですって? なるほど,できる限り看護実践に科学性をもたせるべきだという前提に立つならば,そうした考えもありうるでしょう。しかし,実はその科学的探求も,先ほどと同じような「根本仮説」にドライブされている側面があることを知っておいてもよいでしょう。

 最近テレビ化された「ガリレオ」というドラマでは,主人公に扮した福山雅治が「出来事には必ず理由がある」と数々の事件の謎を解決していきますが,多くの科学者もこうした信念をもっていると思います。

 しかし,この台詞,先ほどの「出来事には必ず意味がある」という魔法のコトバとそっくりじゃありませんか?

 そうです,この「出来事には必ず理由がある」という命題は,厳密にいえば反証不可能な根本仮説なのです。

 こんなことをいうと「人生に意味があるかないかは個人の心の中の主観的な問題だが,出来事の原因と結果は客観的な問題でありまったく違う話だ」と思われるかもしれません。科学者だけでなく,一般の人の多くも「出来事には必ず理由がある」「結果には必ず原因がある」と何の疑いもなく信じているようです。では,これが根本仮説であることを論証してみましょう。

因果性は外部に実在しない?

 僕らに起こるあらゆる出来事は一回起性のそれぞれ別の出来事ですよね。そこに「原因→結果」という因果性が成り立つためには,別の出来事を同じ出来事と認定する必要があります。

 たとえば「病気」は人によってさまざまです。風邪も病気なら癌も病気。さらに,同じ「風邪」といっても,一人ひとり,症状はまったく異なりますし,同じ人でも毎回違った症状が生じているはずです。また一口に「不摂生」といってもその実態はさまざまです。しかし,それをコトバによって「病気」とか「風邪」「不摂生」と名づけることによって,それぞれ千差万別のはずの出来事が,同じとみなされるようになるわけです。

 実は,コトバによって「違うものを同じとみなす」ことによってはじめて,そこに因果性を組み込むことが可能となります。たとえば「不摂生すると→ヒトは病気になる」という因果性を語れるようになるのです。

 ではこのように一回起性の出来事を同じ出来事として認定するのは誰でしょうか? やはり他ならぬ僕やあなたですよね。「不摂生」や「病気」といったように認定したもの同士をつなぐ(→)のは誰でしょうか? 僕やあなたですよね。したがって,原理的には,出来事の「因果性」は「意味」と同じくわれわれの頭の中で作られると考えるしかありません(第5回も参照のこと)。

 そして,僕やあなたはすべての出来事の「原因」を作り出すことはできませんから,「出来事には必ず理由(原因)がある」という命題もまた根本仮説ということになるのです。

 このことを踏まえたうえで,次回は認識論のモンダイについて考えてみたいと思います。

この項つづく


西條剛央
早稲田大学人間科学研究科にて博士号取得後,現職。養育者と子どもの「抱っこ」研究と並行して,新しい超メタ理論である構造構成主義の体系化,応用,普及を行っている。著書に『構造構成主義とは何か』(北大路書房)『ライブ講義・質的研究とは何か SCQRMベーシック編』(新曜社)などがある。

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