医学界新聞

対談・座談会

2007.11.05

 

【座談会】
「治らない」時代を生き抜く医師の心得とは

宮崎仁氏=司会(宮崎医院院長)
春日武彦氏(精神科医/東京未来大学教授)
尾藤誠司氏(国立病院機構本部 臨床研究推進室長


 患者が抱える健康問題は,生活習慣病,アレルギー疾患,精神疾患などの増加により,治療によってスッキリと「治る」時代から,病気と向き合いながら生きていく「治らない」時代へと質が変わってきている。診療の現場では,「結果がすぐに出ない」問題を前にして,医師も患者もモヤモヤと思い悩むことになるが,ガイドラインやマニュアルを開いても,「答えのない悩み」の解決法は見つからない。

 今回,医師の疑問・悩みに独自の答えを示し好評を博した連載『カスガ先生の答えのない悩み相談室』をまとめ上梓した『「治らない」時代の医療者心得帳』の筆者春日武彦氏,医師特有の思考に迫り,新しい医師-患者関係を考えた『医師アタマ-医師と患者はなぜすれ違うのか?』の編者尾藤誠司氏に,文科省科学研究課題「わが国における医師のプロフェッショナリズム探索と推進・教育に関する事業研究」研究班のメンバーで,第一線で診療を行っている宮崎仁氏が,治らない時代へと変化した医療の現場で,「困った」患者・家族・スタッフに囲まれながら,タフに仕事をこなしていくために必要な医師の心得について聞いた。


宮崎 わたしは,「答えのない悩み相談室」が単行本になるのを待ち望んでいた読者のひとりですが,『「治らない」時代の医療者心得帳』というタイトルをはじめて目にした時,いまの医療の状況がうまく表現されていると感心しました。春日先生にとって「治らない時代」とはどういうものなのでしょうか。

春日 「治らない時代」,つまり以前は治ったということなのですが,この「治る」は,物事を「解決」できるというスタンスと解釈しています。ですから,かつては「これにて一件落着」とできました。ところが,いまは「解決」という発想では対応しきれなくなり,「解決」から「和解」へと変わったのではないでしょうか。

 「和解」は非常に曖昧な言い方ですが,「ここは譲れない」という部分をお互いに見つけ出していき,すり合わせていく作業です。そのため和解は,個別のオーダーメイドでありマニュアル化できないため医師側は大変です。さらに医師は自分で解決ができないため,不全感を覚えざるを得ず,だんだん自分の立ち位置が見えにくくなってきているのではないかと思います。

宮崎 尾藤先生は,基幹病院に勤務されている総合内科医として,「治らない時代」をどのように捉えていらっしゃいますか。

尾藤 いま,入院にしろ,外来にしろ,診療する中で,ある断面だけで医師として解決したと思い込むことはできなくはないと思います。例えば,脳梗塞になった人に治療をして,薬を出して,クリティカルパスが終了した時点で,「私はあなたの脳梗塞をうまくケアしました」と。ですが,患者さん――患者さんを取り巻く家族,世の中――の中では,文脈は続いていきます。

 入院の診療という断面だけを取った時に,その中のどこの位置で自分は自分の医師としての役割を演じるか,というかたちで位置づけないと,どうもうまい具合にいかないことを,最近,内科医としてもすごく感じるようになりました。

宮崎 私のような町の開業医の外来を訪れる患者さんは,まさに「治らない」方ばかりです。病院でのクリティカルパスが終了した後に,脳梗塞後遺症を抱えて,家庭や地域の中で生きていかなければならない,そんな意味での「治らない」患者さんたちが集まってきます。ですから,「科学者」や「技術者」としての医師の仕事よりも,家族関係の調整や,介護職との連携をはかるというような,「援助者」としての仕事の割合が多くなっています。

 また,診断書や主治医意見書を書く時に,病名をつけることが難しいと感じることがあります。例えば,老衰のため体が不自由になり,孤独や不安にさいなまれている患者さんの状態を適切に表現する病名って何だろうなんて,「モヤモヤ」と考えてしまいます。このように「スッキリ」と解決することができない複雑な問題に,医療者が関わらざるを得ないという状況が,現在,私がイメージする「治らない時代」です。

病名がつくことは患者も幸せ?

尾藤 病名がつけられないというのは,面白いですね。私は内科医のスタンスで仕事をしていると,内科の病名に自分の行動が縛られてしまいます。評価,診断,治療と続き,その治療の効果を観察する一連の医学上の文脈に,良くも悪くも縛られていて,診断がないのに治療があるとか,診断があるのに治療はないということには耐えられないのが医師の性なのでしょうね。例えば「おなかが痛い」人に過敏性腸症候群,「頭が痛い」人に緊張型頭痛と病名をつけるのは,病名をつけないと気持ちが悪いからじゃないかと思っています。

 過敏性腸症候群とつけば,薬を出すことができる。しかし,病名がつかないと保険上薬を出せないという理由ではなく,自分の脳が「病名もつけてないのに薬を処方していいのか?」と出させないのです。自分が持っている医学上のロジックできちんと消化しないと責任を負えないという考えがあるからです。医師には皆多かれ少なかれそういうところがあると思いますが。

宮崎 逆に,精神科の先生が病名をつける時のスタイルは,われわれ内科医のそれとはちょっと違うと感じます。精神科医へコンサルテーションをして,「この患者さんは,うつですか,パーソナリティー障害ですか?」と聞いても,「状態像としては抑うつなのだけれども,ひょっとすると統合失調症的なものが出てくるかもしれないし……」と病像は話されても病名や診断をはっきりと答えてもらえないことがありますよね。

春日 うつ病や統合失調症とハッキリ言い切れればカッコいいので,「この患者さんは『うつ病』だ!」とか言いたいところなのですが,正直なところなかなかわからないのです(笑)。しかも「ただの心配性」というレベルの患者さんがけっこう多いので,「もうちょっと様子をみましょう」と結論を少し先に延ばしておきたいのです。

 ですが,患者さんは例えば神経症だとかうつ病などと病名をつけてもらえればひとまず納得できるところがあるので,「あなたの病気は○○○ですよ」というセレモニーというか“命名式”を望んでいる部分があります。まぁ,コンサルテーションを依頼してきた医師も同様ですが,いずれにせよ“命名式”を終えた患者さんは,病名がついたことで安心するのですが,結局はよくなっているわけではないので,メビウスの輪のようにグルグルと回り続けてしまうのですね……。

■“自覚ある鈍感さ”も時には必要

ムカつく医師はダメな医師?

宮崎 春日先生の連載『答えのない悩み相談室』では,いろいろな年代の医師から寄せられた相談に答えられていましたが,相談者たちの印象はどのようなものですか。

春日 相談者は若い先生が多かったですが,共通しているのは皆さん倫理のレベルで,「医師はこうでなければいけない」とかなり思っている点でした。つまり,「医師は人格者でなければいけない」という発想を,多くの医師が持っていて,その倫理から外れると罪悪感を抱いてしまう。医師が,自らを縛っているところがあるのではないでしょうか。

宮崎 以前に,プライマリケア医のメーリングリストで,「医師がムカついたらダメですか?」というテーマで,「感情と医業」ついて話し合ったことがあります。私は,医師だってムカついてもいいと思っていたのですが,「医師が患者さんに対してムカつくとは何ごとですか」という意見も,予想以上に多く寄せられて驚きました。

春日 私は医師もムカついていいと思います。ただしキレてはいけない。無理矢理に冷静沈着かつ超然とした態度を保とうとすると,かえって暴発しかねない。真のコミュニケーションも成立しない。医師がムカつくなどの感情を抱くことすら容認しない倫理観はまずいですよ。それではもはや宗教です。

尾藤 小さい頃から教師,医師,弁護士などは,お金のために仕事をしないと教わってきて,「あなたは,基本的にいいことをやっている」というメンタリティの中で育ってきています。そして医師は常に“いい人”で,“いいこと”をやって,常に患者さんから見てヒーロー的な役割を演じています。ですが,ヒーローを演じ続けますと,医師はどうしたって疲弊してしまい,最後には患者さんへの愛情のタンクが空になってしまいます。愛情のタンクはちゃんと補充できる正義の振る舞い方をしないといけないのでしょうね。

春日 「ムカついてはいけない」を貫き通せる人はそれでもいいと思います。最近,「赤ひげはパターナリスティックで,ぜんぜん駄目だ。いまは,インフォームド・コンセントの時代だから,ちゃんと代案を提示して云々」と言われています。ですが,赤ひげは終始一貫しているので,あれはあれですばらしいと思います。

尾藤 普通は貫けないので,貫けないなら貫けないなりの覚悟の中で,プロとして立てないといけない。

宮崎 昔は,患者さんから敬意の表明や感謝の言葉が返ってきて,愛情のタンクが補充されました。しかし,医師-患者間の齟齬が大きくなってしまった現在の状況では,感謝の言葉すらもらえないので,愛情のタンクが底をついてしまい,やっていけないのですよね。

春日 結局,われわれはその患者さん1人だけを診ているわけではないので,次から次に患者さんを診ていかなければならない。そうしますとこちらのモチベーションを高めるためにも,「少しはあなたからも愛をちょうだいよ」という気にはなりますよね。

 患者さんと患者家族の言うことを全部聞いて,こっちは自分の意見を引っ込めれば無難にその場を収めることはできます。しかし,「医師としていかがなものか,ちょっとヤだな」という時に,もう少し医師側が主張してもいいのではないかと思っています。“患者様”ということなら,むこうの言い分を全面的に聞かなければならないでしょうが……。

尾藤 「たまにいいことをやって,ごくたまに結果的に悪いことをしてしまう自分だけど,たまにいいことをするほうを基本にしているので,ヨロシク!」というのはどうです?(笑)

宮崎 それがわかってもらえるかどうか難しいでしょうね。「ごくたまに結果的に悪いことをしてしまう」というところを,誤解されてしまうと大変なことになりますから。

マニュアル化できるもの マニュアル化できないもの

宮崎 いまの世の中では,医療現場に限らずさまざまな場面で,マニュアルが幅をきかせています。医学教育の現状をみると,医学生はマニュアルを片手に,医療面接の実習をやり,なおかつマニュアルからはずれると減点されるOSCEという試験で評価されています。現役の医師たちも,「接遇セミナー」や「患者満足度向上セミナー」への出席を義務づけられることが多くなり,そこで接客マニュアルを叩き込まれています。しかし,実際の現場で発生する問題は,もっと複雑で生々しいものなので,実習やセミナーで学んだマニュアルでは対応しきれません。

 問題がこじれて「モヤモヤ」してきて,マニュアルに基づく対応では現状が打開できないときに,わたしたち医療者はどうすれば良いのか。春日先生は「中腰で待つ」ことが大切だと書いていらっしゃいますね。

春日 「中腰で待つ」とは,現時点では答えが出ない,これ以上は差し当たってどうしようもない――そんな場合,とにかく「こだわり」や気まずさにとらわれずに済むところまでは事態に対処し,それから先は腹を括って「時に託す」といった状態をいいます。早い話が,「人事を尽くして天命を待つ」です。そうすれば,あとはもう神頼みであっても恥じる必要はありません。

 実際にやれることはすべてやって待つと,意外にうまく展開することを肌で感じるわけです。それはオカルトに近いのかもしれませんが,そういうことを実感できるようになるか否かで,医師としての生きやすさが違ってくるのだと思います。

宮崎 「人事を尽くす」と「天命を待つ」の間,そこを「中腰」で耐えるわけですが,その時には「度胸」という言葉が出てきますね。

春日 やれるだけやったという実感だけではなく,他人に相談したり,話したりして,「やっぱり,そうだね」と同業者から賛同を得られないと「度胸」は生まれてきませんよね。そういう意味でも,1人で開業していたりしたら,地獄みたいな話ですよね。

宮崎 まったくその通りです。ただ,いまはメーリングリストなどのITを利用して,そういう悩みを仲間に聞いてもらったり,皆で共有することができる時代になり助かっています。

春日 カルテを書くこと自体が,自分なりに検証するという意味を持っているので,少し気が楽になるのかもしれないと思ったりします。最終的には,「謙虚な確信犯」になれるかどうか。さらに「自覚ある鈍感さ」が必要です。

 この鈍感というのは,過敏すぎてフラフラ揺れてもしょうがない。どこかで腹を括らなきゃならないという意味であえて「鈍感」としました。最初から鈍い,自覚のない鈍感さでは困りますね。

宮崎 尾藤先生は,『医師アタマ』の中で,医師と患者の交わりは「異文化コミュニケーション」と考えるべきであると書かれています。両者の間に横たわっている「深くて広い河」を埋めていくには,どうしたらよいのでしょうか。

尾藤 まず,「治らない時代」,「答えのない時代」ということで,患者さんのケアについて,若い医師へ対処法を出すということを考えると,患者さんと医療者の違いを埋める努力はしなくていい,と思います。むしろ,いかに違っているかということを,自覚することが大事だと思います。

 例えば,自分がいいことをやろうと思って処方する薬なり,リハビリなりの説明の中に,必ず悪いことについても考え説明を入れる。逆に,自分が引き気味の時にはポジティブな要素を無理矢理取り入れてみる。そういう楔を,自分の行為に強制的に入れ込むことで,自分の中に気づきが出てくるのではないでしょうか。

春日 いわゆる心の中の天使と悪魔みたいに,両方の意見をぶつけ合うことですね。

 言葉にすると,すごくズルイことをしているように聞こえてしまいますが,モノトーンに塗りつぶされることのほうが,現実にはおかしいということです。

内心を吐露することも悪いことではない

宮崎 春日先生は,自殺予告の電話を受けたら,「あなたの電話を受けて,正直なところ,うろたえています」と,戸惑っていることを相手に伝えたり,オロオロする姿を見せたりすればいいと書かれています。

 尾藤先生の『医師アタマ』にも,患者さんと一緒になり途方に暮れるのもいいし,たまには混乱して「あなたが心配だ」というモードになってもいいと書いてあります。医師は患者さん本人に向けて,自分の内心を正直に吐露することを避けるのが普通であると思うのですが,なぜ内心を吐露したほうがいいのか,もう少し詳しく教えていただけますか。

春日 治療が最終的な段階までいった時には「正直さを出したほうがいいだろう」ということです。ただ,単純にオロオロするだけでは,むこうは頼りないと思い,不安になってしまいますが,「自分ができる限りのことはするし,技術的にもそうひどいものではない」というところを,相手にそれとなく示したうえで,「それより上に関してはこうせざるを得ないんです」と話すことが患者さんの信頼にもつながると思います。なまじそこで自信満々のことを言うほうがよほど変なのだということを示しました。

 だから,逆に言うと,オロオロを出せるところまでは,ちゃんとやりましたよという,ひとつのマイルストーンになると思っています。

宮崎 なるほど。やれることはきちんとやったうえで,オロオロを出すということですね。尾藤先生はいかがですか。

尾藤 まさに春日先生がお話しになったことと同じです。内心を吐露する,つまり堂々と揺れることができるまでの自信をつけるには,かなりの時間を要しますが,医療判断を自分の責任でやらなければいけない時には必要なことだと思います。いかに自信をもって揺れることができるか,その揺れている自分を楽しむことができれば,医師としてのキャリアは,とても楽しいものとなります。医学における確実性の部分はしっかりと持ち,不確実性には揺らぎで対処するということが大事です。

宮崎 「スッキリ」の部分は,きちっと押さえておいて,問題が「モヤモヤ」してきたら,おきあがりこぼしみたいに,自分も揺らいでみせる。医療者心得としては,かなり高度なテクニックですね。

春日 だから,「モヤモヤ」するのは,少なくとも基本は押さえていること。つまり,誠実さの表れということです。

ミもフタもないことは言わない

宮崎 医師の論理と患者の論理を,「文化相対主義」で読み解こうとすれば,「自文化」と「他文化」という硬直した枠組みが強調され,お互いに固有な価値観を盾にして,ひきこもることになりやすいと思っています。「どうせ,お互いわかりあえることなんてない」といったニヒリズムに陥りがちな中で,あえて積極的に相手側の文化とコミットすることの必要性を,春日先生はお書きになっていましたね。

春日 結局,医師と患者の間に論理の溝があっても,患者側の文脈はなんとなく読めますので,その意向にはある程度沿えばいいわけです。そういう点では,相手が何を求めているかを読み取らないとまずいですね。

尾藤 いままでは医師側が「私の価値があなたの価値だ」と言っていましたからね。いまは「そこにあなたの価値,ここに私の価値,それで今後の進む方向を調整しましょう」とスタンスが変わったことを理解する必要があります。医師側には多くの医学情報があり,患者側にはたくさんの物語の情報があるため,すべて共有することはまず不可能です。ただ,情報や価値を十分に共有することは不可能ですが,進むべき景色だけは共有できると思います。そうすれば,患者さんのケアについても,いい方向に向かうのではないでしょうか。

宮崎 医師の論理と患者の論理をいかにすり合わせるか。そのすり合わせ作業を面白いと思うかどうか。そこで重要な点に「ミもフタもないことを言わない」ということがあると思います。ですが,自分が診察していてときどき,「いま,自分が患者さんに言っていることは,ほんとうにミもフタもないな」と思いながらも,ついつい言ってしまうことがあります。

春日 ミもフタもないことを言っているときは,自分自身「嫌だな」と思うのですが,意外とすぐに忘れてしまいますよね。ミもフタもないことは,非常に記憶しづらい物事の1つです。だから,そういうことを言ってしまった時にはメモでも取っておき,後で反省したほうがいいと思います。

宮崎 きっとミもフタもないから記憶から零れ落ちてしまうんですね(笑)。

 尾藤先生は,ミもフタもないことはあまり言わないかただと思いますが。

尾藤 そうですねえ。ミもフタもないことは,患者さんにとってショックなこともありますので,かなり注意していますね。

宮崎 例えば「痩せなさい」とかですか?

尾藤 「痩せなさい」は,まだいいです。いちばん要注意なのは「ストレスです」という言葉です。医師側にとっては空虚な言葉ですが,患者さんは自らが考え込んだものとしてストレスという怪物を設定してしまう。そして「私はストレスがたまっていて……」とストレス文脈を突き進んでしまうことがあります。われわれの文脈でいう軽い一言が,患者さんに大きなインパクトを与えてしまうことがあるので注意が必要です。

春日 何気ない一言にも,医師-患者の間には溝があるということですね。ですが逆に,ミもフタもないことをあえて言うことで,お互いに「今日はこれまでっ!」と診察を終えることがあります。これ以上は発展のしようもない。だけど,患者さんはとりあえず来ているし,こっちもやれる限りのことはやっている。でも,これ以上あれこれ突き詰めても,お互い疲れるだけだという時に,表面的な,無難な言葉でやり取りをしておいて,出す薬も,気が利いてないのは重々承知なんだけれども,馴れ合いにならざるを得ないとか,馴れ合いになったほうがかえってお互いに楽ということもありますよ。

宮崎 だから「マンネリは悪くない」と。

春日 毎回ドラマがあったら,お互いに疲れ果ててしまいます。患者さんもマンネリ状態を,「少なくとも恐ろしいほうには傾いていない」という目安にしている部分がありますから。

尾藤 「突き詰めていっても今日の段階では余計にこんがらがるから,とりあえず終えましょう」と意識的に棚上げすることは大事ですよね。意識的に現状を維持し,時間を処方することで解決していく部分も出てきますしね。

宮崎 「治らない」時代を迎えて,わたしたち医師は,どのようなスタイルで仕事をすべきかという,たいへん難しい話題でしたが,ミもフタもある素敵なお話をうかがうことができました。本日はどうもありがとうございました。

(了)


尾藤誠司氏 1990年岐阜大卒。長崎医療センター,国立佐渡療養所,UCLA公衆衛生大学院を経て,97年より東京医療センター総合内科。2005年より現職。患者-医療者関係および終末期における倫理的判断を研究領域としており,「わが国における医師のプロフェッショナリズム探索と推進・教育に関する事業研究」研究班の班長を務める。日本総合診療医学会運営委員。内科専門医。著書に『医師アタマ-医師と患者はなぜすれ違うのか?』(医学書院)

春日武彦氏 1981年日医大卒。同大産婦人科医を経て精神科勤務。東京都精神保健福祉センター,都立松沢病院,都立墨東病院精神科部長などを経て,現在東京未来大学教授。著書に『心という不思議』(角川書店),『不幸になりたがる人たち』『無意味なものと不気味なもの』(ともに文藝春秋),『病んだ家族,散乱した室内』『援助者必携はじめての精神科』(ともに医学書院)など専門書・一般書ともに多数。

宮崎 仁氏 1986年藤田保衛大卒。同年聖路加国際病院内科レジデント。89年より藤田保衛大血液・化学療法科で,白血病を中心とする造血器腫瘍の臨床に従事。2002年より宮崎医院(愛知県吉良町)院長となりプライマリケア,家庭医療学を実践するかたわら,「感情労働としての医業」や「医師のプロフェッショナリズム」に関する研究にも関わっている。著書に『もっと知りたい白血病治療』(医学書院)。

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