医学界新聞

インタビュー

2007.10.08

 

interview
変わらぬ人体 前へ進む解剖学

坂井建雄氏(順天堂大学解剖学第一教室教授)に聞く


 解剖実習は,医学部に入学し,医学の道へと進んでいることを最初に意識する時ではないでしょうか。解剖実習で扱われる献体は,「医学の進歩のため」に故人の遺志・ご遺族の理解を得て,医学・歯学生の解剖実習に提供されています。

 今回,『プロメテウス解剖学アトラス 解剖学総論/運動器系』を監訳された坂井建雄氏に,日本における解剖実習の現状と今後の展望についてお聞きしました。


――最初に解剖実習を取り巻く環境と問題について,お聞かせいただこうと思います。

坂井 医学を学ぶ人は,皆,人体解剖を経験しているので,特に説明の必要はないかもしれませんが,解剖の現場にずっと携わっている方は少ないので,現状について簡単に説明しておきます。

 現在,わが国の人体解剖は,ほとんどすべて献体によってご遺体をちょうだいしています。現在は献体登録数が充足していますので,以前のように解剖実習のためにほうぼう駆け回りご遺体を集めることはなくなりました。献体登録数の充足には,献体法が制定されたことが大きく,制定後に登録数が急速に増えました。ですので,昔のように,身元のない方の解剖は,例外的な状態です。

――献体法ができるまで,先達の解剖学の先生方は,ご遺体を集めるのに苦労されたのですね。では,現在,他に問題はありますか。

坂井 献体登録そのものは,お申し込みをたくさんいただきますので苦労はありません。逆に,「私は献体したいのに,どうして受けてくれないの?」という苦情があります(笑)。献体登録をお申し込みいただきながら大変申し訳ないのですが,大学の扱う能力に限界があります。それを超えてお預かりするのはご遺体に対して失礼なことにもなります。現在でも,お預かりしてからお返しするまでに2-3年かかっていますので……。そういった事情で制限せざるを得ないのが実情です。

 欧米にも献体制度がありますが,ご遺骨は原則としてご遺族に戻らないなど,日本の献体制度とはだいぶ異なっています。そのため非常に割り切ったかたちで解剖ができ,医学部・歯学部の教育以外の用途でも献体によるご遺体が用いられています。

■よりよい医療のための取り組み

基礎解剖と臨床をつなぐ臨床解剖学

――解剖の臨床応用ということで臨床解剖学があると聞いています。

坂井 臨床解剖というのは,臨床に役立てるために行われている人体解剖の研究,あるいは教育のことです。もともと人体解剖は臨床医を育てることを目的としているのですが,臨床での問題解決に直結する研究や,臨床と関連付けた解剖学教育が,とくにアメリカで広く行われています。日本でも1998年に臨床解剖研究会が設立され,毎年数多くの研究が発表され,教育講演を通じて臨床解剖の研究と教育の向上をめざしています。また臨床解剖学の優れた教科書も出版されています。

 臨床解剖学は,これまでの解剖学にとって代わるというものではありません。解剖学を補ってさらに発展させるものです。これまでの系統解剖学では,人体を器官系という機能システムに分けて,機能を中心に人体の構造を教えていました。人体解剖実習では,人体を部位ごとに解剖していく局所解剖学になっています。系統型と局所型の解剖学は,「縦糸と横糸のように組み合わさって,人体の構造と機能がしっかりと理解できる」というのがこれまでの解剖学でした。

 基礎医学のカリキュラムが学科を越えた統合型になり,臓器別に教えられるようになると,系統解剖学はそこに取り込まれた形になっていきます。局所型の人体解剖実習が取り残されることになるのですが,そこに臨床応用という新しい価値を付け加えようというわけです。

 臨床解剖を重視すると,これまで注目されてこなかったところが重要になったりします。正常では見えるかどうかという細かな血管が,側副路として驚くほど拡張することがあります。目立たない靱帯が,神経や血管を圧迫して機能障害を起こすことがあります。外科手術のことを考えると,臓器内での血管の分岐と立体的な走行がきわめて重要です。機能を中心とした系統解剖学で重視されてこなかった事柄です。

 臨床解剖も人体を解剖することに変わりはありません。わが国では大学の解剖実習室でしか許されていません。死体解剖保存法で規定されています。このほかにもご遺体への礼意を確保するなど倫理的な規定があり,臨床解剖であっても実質的に解剖学教授の責任のもとで行う必要があります。

コメディカルの解剖実習

――医療は社会の期待・要請により,チーム医療への取り組みなど大きく変化しています。いま,コメディカルの解剖実習に取り組まれていると聞きました。

坂井 日本では,献体によって人体解剖実習が支えられていますが,献体制度によってご遺体の数が充足し,解剖実習が滞りなく行え,医学生・歯学生は人体の構造を実際に目で見て理解することができています。献体制度の本当の価値は別のところにあります。それは解剖する学生にとっての非常に大きな精神的価値です。解剖させていただくご遺体の1つひとつが,ご自分の遺志でそこにいらっしゃり,お帰りを待っておいでのご遺族もいらっしゃいます。医学生のために協力をしたいというお気持ちをいただきながら解剖に取り組むことで,倫理的な教育効果が非常に高くなっています。

 このように心のこもった献体であることを,まず押さえたうえで,医学生・歯学生以外,つまりコメディカルの人たちにも,献体によってちょうだいしたご遺体を使わせていただいて,よりよい医療を実現するための解剖実習ができないかという考えが生まれています。法律が制定された昭和24年頃には,狭い意味の医学・歯学が念頭におかれていたのですが,時代の変化を考えると,当然コメディカルの教育も含めていいだろうということになります。ただ,厳密にいうと,それが含まれるかどうかというのは微妙な問題ですので,やはり慎重を期して行わなければなりません。

 PT・OTのように実際に体を触る職種では,人体を熟知して治療に取り組むことが必要です。高齢化が進む現代,より長く健康な体を維持するのに大きな力になってくれます。ですからコメディカルの人たちにも,解剖学をよく学んでもらい,よりよい医療を医師とともに実現してもらいたいという考え方には,多くの方が賛成されるのではないでしょうか。

――「献体登録=医学生の解剖実習・医学の進歩のため」と考えられてきた献体登録者も多いのでは。

坂井 そうですね。特に古くから献体登録をされている方の中には,「自分はお医者さんのために……」という思いを強くお持ちの方もいらっしゃいます。そういう方の場合は,ご本人のご意向に沿って医学生の解剖実習に使わせていただきます。現在,篤志解剖全国連合会では,毎年行われている総会や研修会で,コメディカルの解剖学教育の問題について話し合いが行われたり,献体団体でも,現状と今後の課題についてもご理解をいただくための活動をしています。

――コメディカルの解剖学教育への理解へ向けた周知活動がすでに行われているとのことですが,実際にコメディカルの解剖実習はどの程度行われているのですか。

坂井 PT・OTの養成のために,人体解剖を行っているところが何校かあります。国立大学の医学部の中にあるPTや,献体団体のご理解を得たコメディカルの学校においてです。そういう大学や,養成校のお話を伺いますと,献体者への感謝の気持ちを忘れないための,倫理的な準備教育も十分行って,社会通念上,「これならば,やってもいいだろう」というかたちをつくりあげています。

――倫理的な準備教育などの最終判断はどなたがされるのですか。

坂井 解剖学教室の教授の責任のもとで,「こういう状況なら許される」「ここまでにしておこう」と判断しています。献体者の了承があったとしても,養成校が実施したいと強く希望されても,社会通念上許されないことはできません。全体を見て,社会通念上許されるかを,判断をする立場にあるのは解剖学教室の教授だろうと思います。

 実際にご遺体を解剖させていただいた経験があり,ご遺体の解剖を通して学ぶことの意味の大きさを,体に焼き付けるかたちで心の中に留めていきますので,われわれは,決して献体者に失礼のないような解剖実習を心掛けています。これまでのコメディカルの解剖実習でもそうされています。

――コメディカルの解剖実習は,解剖学教室の教授の責任の下で行われているとのことですが,解剖学教室の負担が大きくなりすぎているのではないでしょうか。

坂井 解剖学教育は,多くの手間と費用がかかり,あらゆる意味で贅沢な実習です。さらにコメディカルの解剖実習を望まれても,解剖学教室の責任のもとで行うにしても,解剖学教授1人の手だけではとても手に負えません。しかも,解剖学教室はスタッフ数も少ないので,すべて受け入れることはできないのが現状です。

 ですから,コメディカル養成校の教員と解剖学教室が連携したチームを作り,実行していく必要があると思います。そのためにまずは,コメディカル養成校のスタッフは,解剖学教室で人体解剖のトレーニングを積み,できれば献体の引き取り業務も経験して,ご遺族や献体者の存在を感じながら教育に当たっていただけると,非常に効果のある,いい解剖実習になると思います。

進化する解剖学書 解剖実習とリンクさせ理解する

――今回監訳された『プロメテウス解剖学アトラス』では,運動器に特化しています。人体の基本構造は変化しないなか,解剖学書はより進歩していますが,どのように使ってほしいですか。

坂井 『プロメテウス』は運動器の巻を出させていただきました。運動器について,従来の解剖学書に書かれていた骨格,関節,筋肉という解剖学的な事実の記載を超えて,運動器がどのように運動するかを,関節の可動性,あるいは筋肉の作用について,非常にわかりやすく,人体の運動とリンクさせながら書かれています。運動器を扱うPT・OTといった職種の人たちには,これまでの解剖学書以上に役に立つ教科書になっていると思います。

 解剖学の運動器は,人体の中でも肉眼的に構造を見ることで,その機能がいちばんよくわかる領域,いわば解剖学の花です。そのことを,ご遺体の解剖体と,『プロメテウス』とを併せて学習していただくと,より効果的に人体構造を理解でき,臨床に役立てていけると思います。

――これから献体のご遺体と向かい合う医学生,あるいはコメディカルの解剖学教育を担当される方々に向けてはいかがですか。

坂井 献体によるご遺体がふんだんにあるのはすばらしいのですが,人体解剖実習を運営する環境が窮屈になっていて,精神的・肉体的にいろいろな面での負担が大きくなっています。解剖の授業時間が少なくなり,その中で解剖学を学んでもらうことになっています。

 とはいえ,解剖学を学ぶための教材は,非常に大きく進化してきました。それは『プロメテウス』もそうですし,『グラント解剖学図譜』などさまざまな解剖学の教材は進化していて,とても使いやすいものになっています。それらを利用して医学の基礎としての解剖学をしっかり学んでください。ただ,人体解剖の基本にあるのは,人体とそのまま向かい合うことであって,一人ひとりの学生が試され,問われています。そのところは逃げないで立ち向かってほしいところです。

医療の壁に突き当たったとき解剖実習で学んだ思いを励みに

――臨床研修をされている方や,中堅医師の方に,解剖実習を指導する立場から何か一言ありますか。

坂井 献体というのは,理念,あるいは理想なのです。自分の体を医学のために捧げる,あるいは献体者のお気持ちも含めて,お体を医学のために使わせていただくという,その献体の理念においては,個人というのはとりあえず棚上げにされています。解剖の現場では,一人ひとりの個人,つまり「これが誰であったか」ということはひとまず伏せます。ただ,そこで共通するのは,自分の体を医学のために,医学のために献体者の愛をちょうだいする,その理念における関係です。

 医療の現場では,むしろ一人ひとりの患者さんの悩みであったり,個人的な事情も含めた個の関係が中心となって,目の前の患者さんを救うという関係が成り立っています。その一人ひとりの患者を救うという行為そのものは大切ですし,非常に心動かされるものです。けれども,そこが個の問題として終わらずに,大きな矛盾と問題が医療にも生じうる時代になってきています。

 例えば,医療の優先順位の問題など,個の問題では片付けられないときに,それを救うのは何かというと理念ではないでしょうか。医療が持つ,あるいは本来持つべき理念をもっとも先鋭に表現し,実現しているのが,献体による解剖ではないかと考えています。献体や,解剖に関して,どこで,どういう問題が起こっても,最後は,「医療のために」「医学生のために」という理念,理想を通して,物事が解決していきます。

 医療に携わって壁に突き当たったとき,問題が生じたときに,献体によって解剖を学ばせていただいたという原点を思い出して,それを励みとして明日の医療に向かっていただきたいと思います。


坂井建雄氏
1978年東大医学部卒業後,解剖学教室にて助手,助教授を経て90年より現職。2006年4月より篤志解剖全国連合会会長を務める。著訳書に『からだの自然誌』(東京大学出版会),『ムーア臨床解剖学』(MEDSi),『グラント解剖学図譜 英語版CD-ROM付第5版』『ヒューマンバイオロジー 人体と生命』(ともに医学書院)ほか多数。

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