医学界新聞


練達精神科医の典雅な下山道談義

寄稿

2007.08.20

 

【特別寄稿】
中井久夫『こんなとき私はどうしてきたか』を読む

練達精神科医の典雅な下山道談義

坂部 恵(東京大学名誉教授/哲学)


「ふつうの医療者が理解し実行もできるような精神医学を私はずっと目指してきた。いくぶんなりとも達成できているだろうか」

 

 著者中井氏は,本書の「あとがきにかえて―この本が生まれるまで」の末尾でこのように述べられ,おなじ文言は裏表紙の帯にも転載されている。

 本書は,中井氏が神戸大学を定年で退かれた後,兵庫の有馬病院「医師,看護師,合同研修会」,「医局,看護部,臨床心理室のみなさんが合同で,ごく初歩的なことを私が語るのを聞く」会の記録を雑誌『精神看護』(医学書院)に連載し,さらに手を入れて形を整えられたものである。

 「ふつうの医療者が理解し実行もできるような精神医学」は,ふつうの医師,ふつうの医療者では書けない。あるいは,学会誌向けの研究論文や著書などにすぐれた業績をもつ医療者であっても,そのことだけではこうした一般向けの講話をよくする素地には足りない。

 専門の精神科医・精神病理学者としての精緻な観察・学識と長い臨床経験から学び取ったものを平易なことばとして後進に伝えうる医療者だけが,しかもおそらくみずからのキャリアの下山道にさしかかったところで,はじめてこうした仕事をよくしうるのである。

 著者は,本書のあとがきで,ご自身の回復(寛解)過程論が,その論の生まれた場である青木病院で「私が去って久しい後まで看護部に語りつがれ」て,患者さんの病状を見ながらの対応に活用されていたこと,また,大学の系列からすれば著者のとは別の有馬病院で,研修医クラスの人によく著書のサインなど求めれるので,不思議に思って聞くと,当時その大学で著者の統合失調症の回復(寛解)過程論が参考文献として指示されていたのを知ってうれしくおもった,と述べておられる。

 実際,まったく素人の読者の目から見ても,患者の心身の変動を日を追って細かく観察し,それをきわめて精細なグラフにあらわした中井氏の統合失調症回復(寛解)過程論は,日本の精神医学に一時期を画したといわれる東京大学出版会の分裂病(統合失調症)の精神病理シリーズのなかにあっても,むしろ成因論的な研究が目立つなかで,ひときわ異彩を放っていたように記憶するし,何人かの専門領域の方からもこの論文の独自・秀逸なるゆえんについて聞き及んでもいる(篤実な看護師さんの看護日誌が大きな助けになっていたことは,本書ではじめて知った)。

 本書でも,やはり,回復過程について細心の注意をはらうべきことが説かれている。

 

「治りかけというのはとても大切な時期です。しかしわれわれは,患者の症状が収ま...

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