医学界新聞

連載

2007.04.23

 

看護のアジェンダ
 看護・医療界の“いま”を見つめ直し,読み解き,
 未来に向けたアジェンダ(検討課題)を提示します。
〈第28回〉
文体の魅力

井部俊子
聖路加看護大学学長


前回よりつづく

システム思考の“思慮深い”適用

 このところ,出勤前の“冴えた”時間に居住まいを正して読んでいる本がある。医療の安全を研究する二人の医師が書いたノンフィクション『新たな疫病「医療過誤」』(R・ワクター,K・ショジャニア著,福井次矢監訳,原田裕子訳,朝日新聞社,2007年)である。

 著者たちは,「ほとんどの医療過誤は機能不全に陥ったシステムの中で働く善良な人間が起こしてしまうものだ」ということを主張し,「システム思考の“思慮深い”適用によって,ほとんどの医療過誤が防止できることを伝えるのが本書の意図である」としている。そのために,「病院の内幕を披露し,医療過誤を当事者がどのように受け止めているかを読者に知ってほしい」という。原題の「internal bleeding」が,新たな疫病として医療過誤を位置づけるとした日本語のタイトルもあいまって,読者を刺激する。

 本書にはもうひとつの魅力がある。訳者の表現力の高さも反映して,登場する患者がひとりの人間としてナラティブに描かれる点である。医療界が一般に用いる「症例」報告は,性別,年令,病名といった属性くらいで,病状が語られ治療法にいき転帰となる。

 しかし,本書のアプローチはこのように始まる。「ジョアン・モリスは眠っていた。高校を卒業してから76歳になるまでずっと,堅実そのものの人生を歩んできた女性である。昨日受けた医療措置のせいでひどい疲労感があり,早く家に帰りたいと思っていた」。

 ジョアン・モリスは脳動脈瘤のためコイル塞栓術を受けた患者であった。処置は順調に終わり,ジョアンはもう一つの動脈瘤を一か月後に手術をすると医師に説明されていた。退院の朝は,「患者は目を覚まし,病院食名物の冷めた卵料理とぐんにゃりしたトーストで朝食をすます」。病室の戸口から身体を半分だけ入れた医師から退院後の指示を聞いたあと,昼までに病院を出て家に帰ろうと考えていた。退院の前夜,ジョアンは明日しなければならないことをリストアップした。「近所の人に預けてあった猫を引き取り,花や植木に水をやり,10を超える電話をかける。心配してくれた友人たちに手術が成功し,予後もよいことを知らせるのだ」と。

 結局,この「モリス夫人」は,「17にのぼるミス」の結果,「ジェーン・モリソン」と間違えられて,不整脈治療のための電気生理学的検査(EPS)を受けることになったのである。

NBMとEBMのコラボレーション

 本書の内容は学術的なものでありながら,他のほとんどの章の冒頭でも,印象的なエピソードが巧みな文体で綴られている。

 「サンドラ・ゲラーは実年令の68歳よりはるかに若く見えた。身なりに気を配り,アンティックのブローチをつけるのが大好きで,ノーメイクでは外出したことがなかった。毎週水曜日に美容院へ行って,夜はカールがくずれないようにヘアネットをかぶって寝た。しかし,ICUで二週間を過ごした彼女の髪はべったりと頭皮に貼り付いている。生命維持のチューブやワイヤが,色褪せた病棟寝衣を飾る,今の彼女のアクセサリーだった」。

 サンドラは心臓バイパス手術後,人工呼吸器による肺感染症,さらに急性腎不全による透析を受け,快復の道のりにさしかかっていた。一般病棟へ移そうと考えられていた矢先,痙攣性の激しい発作を起こした。サンドラの血糖値は測定不可能なほど低下していた。彼女は昏睡状態に陥り,二度と目覚めなかった。二週間後,彼女のリビング・ウィルにしたがって人工呼吸器が外され,サンドラは亡くなった。

 死因は,インシュリンとヘパリンの誤薬によるものであった。

 「アニー・ジャクソンは,“いかにも頼りになりそうなおばあちゃん”といったタイプのアフリカ系アメリカ女性で,ハスキーなアルトの声は教会聖歌隊の羨望の的だった。いくつも病気を抱えていたが,上手に対処してそこそこの体調を保っていた。薬で軽度の糖尿病や高血圧,コレステロール値の上昇をコントロールしてきた。喫煙を止め,定期的に医師の診察を受け,毎週何日かは緑陰豊かな家の近所をせっせと散策した」。

 アニーは,「胸の奥深くの不快感」で救急外来を受診したあと家に帰され,「けばだった浴室マットの上で身体を丸めるようにして亡くなっている」のが発見された。

 カナダ人の女性は空港で何としても金属探知機のゲートを通過することができなかった。金属探知機がピーピーなる原因は,結局,何か月も前の手術の時に,外科医たちがうっかり彼女のおなかに置き忘れた開創鉤であった。

 本書は,Narrative-based Medicine(NBM)とEvidence-based Medicine(EBM)の見事なコラボレーションを実現した秀作である。この続編は,看護職が書かねばなるまい。

つづく

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