医学界新聞

連載

2017.10.30



The Genecialist Manifesto
ジェネシャリスト宣言

「ジェネラリストか,スペシャリストか」。二元論を乗り越え,“ジェネシャリスト”という新概念を提唱する。

【第53回】
ジェネシャリストの三角形は「三歩進んで二歩下がる」で成長させよ

岩田 健太郎(神戸大学大学院教授・感染症治療学/神戸大学医学部附属病院感染症内科)


前回からつづく

 数年前まで某市中病院の総合内科初診外来を週一回やっていた。これがなかなか面白い。

 面白いというと語弊があるかもしれないが,もちろんfunnyの意味ではなく,interestingの意味だ。

 救急外来ほど重症患者ではなく,診療所(開業クリニック)と違って初診ばかりなのでバリエーションは多い。普通の風邪のこともあれば,一見風邪のように見えて実は……ということもある。

 大学病院に勤務するようになってからもプライマリ・ケアの修練を欠かしたくなかったぼくとしては,この週一の外来はとてもよいリハビリというか,トレーニングの場であった。

 しかし,故あって別の病院の感染管理や診療をお手伝いしなければならず,この総合内科初診外来の仕事は辞せねばならなくなった。そのため,自分のプライマリ・ケアの力はかなり落ちてきているという実感がある。やらないと,力が落ちる。アタリマエのことだ。

 では,悲しいことばかりかというとそうではない。亀田総合病院にいたときは総合診療をやって感染症診療をやって感染管理をやってとたくさんのタスクを抱えていた。

 さて,神戸大に異動したときに一番腐心したのは既存勢力との協調である。神戸大病院にはすでに感染制御部があり,新しく立ち上げた感染症内科は感染症診療にコミットはするが,感染管理には手を出さないという内約(密約?)を病院長の前でとった。どこぞのナンバー内科のように同じ仕事がバッティングし,足を引っ張り合うというくだらない話はまっぴらだったからだ。

 ぼくらのミッションは病院のパフォーマンスをよくすることであり,それはつまりは患者やコミュニティの役に立つことだ。自分のやりたい仕事をやって,自己満足に浸るのが目的ではない。だから,感染管理の仕事は感染制御部に任せ,感染管理上の問題が生じたときは「内々で」議論することにした。外的には一枚岩であるという認識を保ち,「感染症内科と感染制御部で言ってることが違う」ということが外的に生じることはゼロであった。そのなかで,薬剤部などと協調してBig gun projectという共同作業を行うこともあった1)

 総合診療初診外来をできなくなったのはつらい。プライマリ・ケアのトレーニングの強度がどうしても落ちるからだ。しかし,そのおかげで新任地ではしばらく離れていた感染管理の業務にどっぷり浸かることができている。忘れていたことも多かったし,自分の知らない新しい知見も多々ある。

 これを絶好の機会とばかりに一念発起して米国の感染管理のテキストで猛勉強し,CIC(Certification in Infection Control)という資格を取った2)。日本人では数人しか持っていない資格だ。

 ジェネシャリでいることは快楽だが,ジェネシャリの難しさは「ジェネ」と「シャリ」のバランスにある。どちらかに力が入ると,もう片方がどうしてもおろそかになる。これは別に「ジェネ」と「シャリ」だけの問題ではなく,二足のわらじを履いているときに必ず起きる問題だ。ピッチングか,バッティングかみたいな形で。

 医療の世界では臨床と研究のバランスがそれに当たるだろう。研究にどっぷり浸かっている間は,どうしても臨床力がガタ落ちする。臨床へのコミットメントもダダ下がりする。逆に臨床に力を入れている間は研究をやっている暇がない。

 両方バリバリこなすのは難事である。特に基礎研究と臨床の両者をトップレベルでやるのは不可能だとぼくは思う。「俺はやっている」という人がいればそれは超人級のスーパースターか,単なる勘違いであろう。前者は希少種だ。多くの場合は,「臨床」を見くびっている故に起きる。「週一回外来やってますよ」くらいを「臨床」と思っている輩が犯しがちな間違いで,こういうのが「クリニシアン・サイエンティスト」とかを自称するからとても迷惑なのだ。

 確かに,「ジェネ」と「シャリ」のバランス取りは難しい。しかし,見方を変えてみれば一種の快楽ともいえる。一生懸命ジェネラルにコミットする。その後,少ししおれたスペシャルの方を再復習し,さらなるレベルアップを図る。セッティングによって求められる「ジェネ」と「シャリ」の配分は異なる。

 もちろん,大事なのはセッティングのほうであり,手前勝手に自分の好みを押し付ける訳にはいかない。ある場所では総合診療外来をやり,別のところでは感染管理をやるように。馬術に長けた秋山好古が,日露戦争では馬を降りて歩兵戦を選択したように〔司馬遼太郎『坂の上の雲』(文藝春秋)参照〕。

 そうやって,横の成長に努め,縦の成長に努める。理想的にはジェネシャリの三角形はどんどん大きくなっていくべきだが,しばらくするとシュリンクする部分も出てくるから,よくて「三歩進んで二歩下がる」である。しかし,大事なのはそこではない。常なる動,常なる成長,常なる努力,常なる変化が要求されるジェネシャリの世界では「マンネリ」という言葉はない。いつだってエキサイティングで,サムシング・ニューで,楽しいことこの上ないのだ。

 多くの学生は医学部に入学した時点で勉強をやめる。相当数の医者が国家試験後にやめる。さらに相当数の医者が学位を取った後に学ぶことを放棄する。ジェネシャリは違う。いつまでたっても勉強だ。そこにはマンネリはない。「これでいい」もない。「ここまで」もない。

 三角形は動的で常に未完成なのだ。未完成ということは常にさらなる成長の余地が残されているのだ。退屈している暇はないのだ。

つづく

参考文献・URL
1)荒川創一.週刊医学界新聞.第2980号.
2)CBICのウェブサイト.

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