医学界新聞

連載

2016.03.21



The Genecialist Manifesto
ジェネシャリスト宣言

「ジェネラリストか,スペシャリストか」。二元論を乗り越え,“ジェネシャリスト”という新概念を提唱する。

【第33回】
評価について:その2 評価一般について

岩田 健太郎(神戸大学大学院教授・感染症治療学/神戸大学医学部附属病院感染症内科)


前回からつづく

前回(第32回/第3162号)は,各論的にジェネラリストに対するスペシャリストの評価について取り上げた。もちろん,同様の問題はスペシャリストに対するジェネラリストの評価についても起こり得るが,その評価は前者に比べて一般化しにくい。要するに,スペシャリストによって評価はさまざまという「当たり前」の現象になるためで,そこには(ほぼ)一貫した,一般化できる構造がない。

 さて,ここでは「評価」という概念一般について考えてみたい。前回のトピックが示唆するように,人の評価というのは妥当でないことも多い。換言するならば,人の評価が妥当である,と信じるに値する根拠は乏しい。評価は不当なものだったり,「上から目線」だったり,無理解や無知から来るものだったり,あるいは単なる偏見に満ちたものだったりするからだ。

 作家・村上春樹が代表例だが,多くの作家は「評論家」の評論を一切読まない。そうした評価が妥当性を担保するものではなく,自分の作品をよりよくするための源泉にはならないと判断したからだ。同様に,多くのスポーツ・プレイヤーやミュージシャンも「人の評価は気にしない」ようだ。妥当性の低い評価――それが絶賛であれバッシングであれ――が,自分たちのパフォーマンスを悪くすることこそあれ,良くするものではないと判断しているからであろう。

 もちろん,評価は一概に悪いものとも言えない。特に量的なデータは,自らのパフォーマンスを高める上では参考になる。サッカーだったらボールキープ率やパスの回数・成功率,走行距離なんかである。しかし,量的吟味が難しい,あるいは不可能なジャンルも多い。小説の量的吟味などはおよそ不可能で,販売部数も投票による多数決も,その小説の価値を高い妥当性で吟味できるとは言い難い。『火花』が歴代の芥川賞作品で一番売れたのは,売れた作者が高名な芸人だったからであり,その作者が芥川賞受賞者史上最高の作品を書いたからではない(もちろん,悪い作品だったと言いたいわけではない)。もちろん,執筆時間や原稿用紙の枚数も,小説の良しあしを吟味する材料にはならない。

 医者のパフォーマンスはどうだろう。医学知識は評価しやすい。診断推論能力や身体診察能力,侵襲的手技のパフォーマンスも割と評価しやすい。しかし,「その先」の評価はけっこう難しい。看護師などを巻き込んだ360度評価などいろいろな試みが行われているが,これなどもろくに医者のパフォーマンスを観察していない師長の独断の偏見だったり,「あの先生,感じワル」みたいな個人の好みを反映させただけの人気投票になっていたりすることもある。

 だいたい,医学教育の専門家たちがこういう評価システムを設計するのだが,こうした専門家たち(特に実践者ではなく,研究者寄りの人たち)は,「データは集めれば集めるほどよい」という信憑に取り憑かれていて,こうした妥当性の低い情報をやたらめったら集めたがる傾向がある。その結果生じるのは,生産性の低い,大量の評価表の山(とそれを扱わねばならぬ現場の苦労)である。

 近年では,そもそも評価をされているという被評価者の受け取り(perception)が大事だという事実も明らかになっている。つまり,評価者による評価が妥当か否かだけではなく,評価された側がそれを正当であり妥当であり,フェアであると感じているかが大事だというのだ。そして,多くの研究が示唆するところによると,多くの被評価者は自分に対する評価を正当で妥当でフェアとは感じていない1)。というわけで,村上春樹のように「評論家の言うことなんて聞く気にはなれない」というエートスが生じるわけだ。

 「プロフェッショナリズム」は日本の医学教育界のはやり言葉である。では,医者のプロフェッショナリズムは正当に評価できるのだろうか。というか,そういうものを評価されているという視線の下での医者の行いは,本当にプロフェッショナルなのだろうか。

 ぼくの恩師の1人,故・マイケル・レッシュは「プロフェッショナリズムとは,誰が見ていないときでも同じように行動できるような,そういう行いを言うのだ」と述べた。言い得て妙だと思う。もし医者のプロフェッショナリズムが他者に評価される評価項目なのであれば,その医者のプロフェッショナルな行いは「他者が見て評価している」という視線の下でのみ発動するような偽りのプロフェッショナリズムと言えないだろうか。そのような視線のない,届かないところでは異なる行動原理が発動するのではないだろうか。要するに「バレなければよい」というメンタリティと裏表の関係にはなかろうか2)

 近年,国内外で偽装,隠蔽の問題が後を絶たない。監視,内外の評価を行うことでこうした偽装や隠蔽に対峙しようとするわけだが,効果は見られない。フォルクスワーゲンの例に代表されるように,監視を逃れるためのやり口は巧妙になる一方だ。

 「誰が見ていても見ていなくてもまっとうな車を作るのが,われわれプロの行いだ」というメンタリティをフォルクスワーゲン社員が持っていれば,巧妙な排気ガス排出基準不正などしようとすら思わなかっただろう。医者のプロフェッショナリズム評価が逆説的に,医者のプロフェッショナリズムを「他者の目」に反応するだけのパッシブで,主体性を欠いた,非プロフェッショナルな人物の養成につながりはしないだろうか。

 ぼくは医学教育専門家(研究者)に比べると,他者の評価の効能については極めて懐疑的である。評価をするな,と言っているのではない。評価を過大評価するな,と言っているのだ。評価の過大評価は自律的なプロフェッショナルの涵養にカウンタープロダクティブだ。それはジェネシャリという主体的な概念から最も外れた在り方とも言えるのだ。

つづく

参考文献
1)Watling CJ, et al. Toward meaningful evaluation of medical trainees : the influence of participants’ perceptions of the process. Adv Health Sci Educ Theory Pract. 2012 ; 17(2) : 183-94. [PMID : 20143260]
2)岩田健太郎.「武士道」のプロフェッショナリズムへの適用可能性と「他者の目」.医学教育.2015;46(4):373-8.

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