医学界新聞

連載

2015.11.16



The Genecialist Manifesto
ジェネシャリスト宣言

「ジェネラリストか,スペシャリストか」。二元論を乗り越え,“ジェネシャリスト”という新概念を提唱する。

【第29回】
ヘルシズムの呪縛から逃れる

岩田 健太郎(神戸大学大学院教授・感染症治療学/神戸大学医学部附属病院感染症内科)


前回からつづく

 健康は大事だ。しかし,大事なのは健康“だけ”ではない。友情とか愛情とか,感動とか美とか,快楽とか達成感とか,冒険とか挑戦とか。とにかく人生には多種多様な価値が存在する。そのどれもが大事だ。

 「どの価値がどの価値より重要だ」と決めるのが,価値観である。価値観は極めて個人的なもので,一般化できない。一般化すると,それは「価値観の押し付け」となる。善良な人ほど,自分の価値観こそが一般化可能だと信じ込みやすい。悪意の人は自分がマイノリティーであることを自覚していることが多いし,自分の価値観が一般化なんてできないと知っている。

 医療者には善良な人が多い。よって,価値観の押し付けをついつい行ってしまう。スペシャリストの価値観は先鋭で,狭い。自分の守備範囲の病気を治す。これが,これだけが与えられたミッションだと信じている。それだけが価値の全てだ,と思い込んでしまいがちだ。目の前にいる患者は単なる病気を抱えた人ではなく,仕事や家族やその他もろもろのいろいろなものを抱えた人だという当たり前の事実をつい忘れてしまう。病人という属性は,その人の属性のほんの一部にすぎないというのに。

 ジェネラリストはこのような患者の社会的背景を大切にしなさい,と教わる。なので,そういう側面には敏感だし,目配りが利いている。しかし,「健康こそが第一の価値だ」という信念そのものが,“揺らいでいない”ジェネラリストは多い。いや,そのような信念が強すぎて揺らがないタイプは,むしろジェネラリストにこそ多いような気がする。

 「ジェネラリストはおせっかいでなければならない」と教えるジェネラリスト指導医も多い。しかし,それは本当だろうか。ぼくはその見解にはわりと懐疑的である。

 ぼくはファイナンシャル・プランナー(以下,FP)の資格を持っている(もっとも実務はやっていないが)。金に関する相談に乗るのがFPの仕事なわけだが,彼らの仕事ぶりを見ていると,実に慎み深いことに気付く。「あなたの財産はこのように運用することも可能です」とか,「こういうやり方もあります」と,個人の閉じた世界観について別の切り口から見解を述べ,選択肢を提示する。問われれば,プロとしての推奨も行う。しかし,特定の金融商品を買えと勧めることはない。というか,それは金融商品取引法で禁じられている。FPが担うのは,あくまでも「世界観の説明」と「可能性(選択肢)の提示」だけなのである。

 FPに比べると,医療者はかなりおせっかいである。さすがに昔みたいに「こうしなさい」と命令口調で話す医者は少数派になった。しかし,「こうするのが正しい」という言い方をする医者は非常に多い。医療の世界に身を置いていると,そのような語り口はあまりに普遍的なので,「皆,そんなもんか」と思いがちだ。しかし,異なる世界から“タコツボ”をのぞき込んでみると――例えばFP目線でそんな医者の言動を眺めてみると――,「えらく押し付けがましいなあ」と感じられる。

 今でも「医者の言うとおりにしなければならない(少なくとも表向きは)」,「医者に逆らったり,口答えしたりしてはならない(少なくとも表向きは)」と信じている日本の患者は多い。そういう空気がますます医者の押し付けがましさを正当化する。国民皆保険制度のおかげで,医者が勧める検査や薬剤の自己負担が相対的に少ないことも,この雰囲気を助長する。全額自己負担だったら,患者も「そんなに払えません」という言い方だってできるはずだ。今後は,分子標的薬に代表されるように医療が高度化・高額化していく中で,「そんなに払えません」という患者が増える可能性が高いけれど。

 健康が他の価値よりも高い価値であるという世界観を「ヘルシズム(healthism)という。もちろん,いい意味の言葉ではない。

 商品には商品の価値に見合った価格が設定される。それを適正な価格だと感じられれば,その価格はその人の主観では「適正価格」である。高いと感じられれば「不適正な価格」となり,安いと感じられれば「お買い得」なのである。

 医療においても,ある医療行為に掛かる費用が高いか安いか,それを医療者側が一方的に決定することは不可能だ。患者側の主観が決めることである。日本の患者で「この薬は飲みにくいから,別のものに変えてくれ」という患者は多い。しかし「この薬は高すぎるからもっと安いのにしてほしい」という患者は少ない。ジェネリック医薬品を希望する患者はいるけれども,それも少数派であろう。処方された薬剤を素直に受け取る患者のほうがマジョリティーなのだ。

 ぼく自身,昔はとてもおせっかいな医者だった。「これが正しい医療」というバイアスに頭がいっぱいになっていたからだ。しかし,一意的に「正しい医療」など,この世には存在しない。医療の外というパースペクティブから見ると存在していないのだ。

 そもそも,医療行為の多くは,絶対的に突出したアウトカムを出すようなものではない。非常に強固なエビデンスと呼ばれるようなものですら,NNT(number needed to treat)が2未満になることはほとんどない。つまり,その治療からアウトカムを得ない人のほうが多いのだ。折れた骨を接ぐ,出ている血を止めるという,“露骨”なアウトカム以上のアウトカムを,ほとんどの現代医療はもたらしていない。

 もちろんぼくは「トンデモ医療」を推奨したいわけではない。そして現代医療を否定しているわけでもない。トンデモ医療はありもしないデマを飛ばす。「○○治療は意味がない」とか。本来,「□□治療にどれくらいの意味があるのか」という情報は,正直に提供しなければならない。また,どのくらいの意味があるのかは医者もちゃんと吟味すべきだ。しかし,吟味した後の「どれくらいの価値があるのか」を判定するのは,一人ひとりの患者のやることである。そうあるべきだ。

 ヘルシズムの呪縛から逃れるには,われわれ医療者が医療者目線を離れ,別の世界から世界を見直してみる「鳥の目」が必要だ。より大きな世界から見れば,ジェネラリストと呼ばれる医者も,医者というスペシャリストなのだ。そのスペシャリストが,より大きな,よりジェネラルな観点から世界をのぞきみる。そういうスーパー・ジェネラリスト的な視点も必要なのだ。(俗に言う)スペシャリストにも,その視点が必要なのは言うまでもないだろう。

つづく

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