医学界新聞

連載

2008.05.26

研究以前モンダイ

〔 その(14) 〕
アナロジーに基づく一般化

西條剛央 (日本学術振興会研究員)

本連載をまとめ,大幅に追加編集を加えた書籍『研究以前のモンダイ 看護研究で迷わないための超入門講座』が,2009年10月,弊社より刊行されています。ぜひご覧ください。


前回よりつづく

 前回は「あらゆる一般化は類推をベースとしている」ということを明らかにしました。それを受けて今回は,類推の条件を考えてみたいと思います。その前にまずは一般化と科学性の関係を把握することも兼ねて,前回とはまた違った観点から,なぜ看護学をはじめとする人間を対象とする科学において一般化が必要となるのかを考えてみましょう。

“みなし”が科学を支えている?

 われわれは通常すべての水は完全に同一のH2Oだと思っています。しかし構造主義科学論の提唱者である池田清彦氏が「H2Oも人間がものすごく小さくなったら,同じ形ではなく,ひげが生えていたりといった微妙な違いがみえるかもしれない」と言っているように,原理的に考えれば,それは“同じとみなしている”だけなのです。同じとみなしても齟齬をきたさないため違和感が生じないだけ,ということもできるでしょう。

 実は,程度の差はありますが,この“みなし”という行為があらゆる科学を根底から支えています。

 第7回でもお話ししたように,科学とは現象を上手に説明することができる同一性(構造)を追求する営みといえます。「上手に説明できる」ということは,言い換えれば,「そのようにみなすことで,現象をうまく説明,予測,制御可能になる」ということなのです。その結果,あまりに上手に事象を説明している構造は,あたかも実在しているかのように感じられ,本来“みなし”だった部分はすっかり忘れられて,「H2O」という不変の同一性(コトバ)が外部世界に実在すると思うようになるのです。

なぜ一般化が要請されるのか?

 さて,この話は一般化と関係あるのでしょうか? それが大ありなのです。水を対象とした場合は,日本のH2Oも他国のH2Oも完全に同じとみなして基本的には問題は生じません。

 日本で確認(検証)された化学式は,他の国で通用しなくなるということは,基本的に(それが間違っていなければ)ない,と考えられるわけです。したがって,そのように同じとみなせる程度が高い場合,一般化が問題になることはほとんどありません。

 しかし看護学が対象とする「人間」においては,そう簡単にはいきません。「人間」は物質的存在であると同時に,精神的,言語的,文化的,社会的存在でもあるという多分に曖昧なコトバだからです。したがって,看護学が対象とする「看護行為」をはじめとするさまざまな事象は,それ自体が曖昧さを含む事象であるため,そのコトバがもつ曖昧さに比例して,同じとみなすことが難しくなります。

 例えば,「インフォームドコンセントに関する看護師の意識」とひと言でいっても,時代や国や地域によって,どのような制度下でどのような施設で,どのように働いているのかといったことによっても,当然異なってくるでしょうから,それを一様に同じとみなすことにはどうしたって無理が生じます。まさにそのために,一定の科学的手続きを経て得られた知見であっても,「その知見はどこまで一般化できるのですか」という指摘がなされるのです。

 一般化とは,素朴に同じとみなすことができない人間を対象とする科学において,「その知見がどこまで当てはまるとみなすことができるのかを確認したい」という要請から求められた方法概念ということもできるでしょう。

類推の条件とは何か?

 ここで,前回の最後まで話を戻します。こうしたことからも,看護学(人間科学)においては調べた“その事象”のみならず,他の人や施設等に...

この記事はログインすると全文を読むことができます。
医学書院IDをお持ちでない方は医学書院IDを取得(無料)ください。

開く

医学書院IDの登録設定により、
更新通知をメールで受け取れます。

医学界新聞公式SNS

  • Facebook