医学界新聞

連載

2008.04.21

研究以前モンダイ

〔 その(13) 〕
一般化の本質とは何か?

西條剛央 (日本学術振興会研究員)

本連載をまとめ,大幅に追加編集を加えた書籍『研究以前のモンダイ 看護研究で迷わないための超入門講座』が,2009年10月,弊社より刊行されています。ぜひご覧ください。


前回よりつづく

 今回は一般化について考えてみたいと思います。一般化するとはどういった営みなのでしょうか? 一般化は可能なのでしょうか? あるいは不可能なのでしょうか? そもそもなぜ一般化について考える必要があるのでしょうか?

なぜ一般化が重視されるのか?

 ここでは最後の問いをひっくり返して,一般化について考える必要性を感じないのはどういう人か? という問いを出発点として考えてみましょう。

 例えば,推測統計学を用いた疫学的な研究を行っている研究者が一般化の問題で頭を悩ますことはあまりないと思われます。なぜなら,推測統計学は,母集団から多標本を無作為抽出することなどにより,確率論的に(特定の範囲に)一般化する理路を備えているためです。これを「直接的一般化」と呼ぶことにします(実はこの理路には限界があるのですが,それについては後述します)。

 他方,「それはどこまで一般化できるのですか?」と聞かれて一番困るのは,事例研究を行っている人です。事例研究は,まさに“その事例”について検討するものですから,そこから導き出された知見(構造)がその事例以外に当てはまる保証はどこにもないということになってしまいます。

 西條剛央について調べた構造は,西條剛央にしか当てはまらない可能性があるのと同様に,Aという施設において行われたフィールドワークの結果は,Aにしか当てはまらない可能性が常にある,ということです。

 もちろんそれでも個人的な営みとして考えれば意味はあります。例えば,僕の友人が僕の行動パターンを知ることは,僕の行動の予測や制御につながるため役立つということはあるでしょうし,A施設で働く人がA施設において行われている実践を構造(知見)として捉えておくことで役立つこともあるでしょう。

 しかし通常の研究は,より公共性のある知見を得ることを目的とするため,特定の個人や特定の施設のみに当てはまる知見を得ればそれでよいというわけにはいきません。基本的には,ほかの人間,ほかの関係性,ほかの施設,ほかの医療行為にも一般化できる(当てはまる)知見を,他者が利用可能な学知リソース(資源)として得ることが目的となるためです。

 科学的な研究において一般化が重視される理由はここにあるといえるでしょう。

従来の一般化の原理的不可能性

 それではやはり母集団から多標本を無作為抽出して,推測統計学を適用した疫学的な研究を行うしかないのかというと,そんなことはありません。実は,厳密にいうとそうした研究スタイルを徹底しても,原理的には母集団に直接一般化することは不可能なのです。

 例えば,全国から1万人を無作為抽出したとしても,もう亡くなってしまった方もいますし,これから生まれる人もいるため,すべての日本人に一般化することは不可能です。同様に,世界中から1000万人無作為抽出したとしても,あるいは仮に全数調査が可能だったとしても,その知見を人間全般に一般化することはできない,ということになります。

 さらにいえば,そこで得られた知見が1年後,10年後,50年後に当てはまる保証はありませんから,そうした時間的な観点からも,厳密な意味での直接的一般化は不可能ということになるのです。

どのように考えていけばよいか?

 以上のような「一般化の原理的不可能性」を何か深淵な真理のように掲げているだけでは何の役にも立ちません。しかし,一度突き詰めて考えておくことは,意味があります。逆説的ですが,この“不可能性をあえて出発点とする”ことによって,最終的には,不可能性に回収されずにすむ道が拓けるためです(これを「戦略的ニヒリズム」といいます)。

 さて,ここまでのモンダイを整理しましょう。研究は通常,公共性のある知見を得るために行うものですから,一般化は重要です。しかし,直接的一般化は原理的には不可能です。

 したがって,ここで考えなければいけないのは,従来の一般化の原理的不可能性を踏まえたうえで,一般化を可能にする理路をどうやって整えればいいのか,ということになります。特に,現場で役立つ知見を重視してきた看護学をはじめとする医療領域において,事例研究の意義を損なわないためには,一事例でも一般化を可能にする理路を整備していくことは不可欠といえるでしょう。

 しかし,これは相当な難問であり,誰もこのモンダイに対して明確な回答,すなわち従来の一般化に代わる新たな一般化の枠組みを提起できた人はいなかったのが現状といえます。

 そこで以下,この一般化を巡る最難問を解消するべく議論を進めていきたいと思います。

一般化の本質とは何か?

 この一般化の難問を解消するためにはまず,“一般化を根底から支える営み”について考えていきましょう。さて,それは何でしょうか?

 ヒントを出すと,それは日常的に誰もがやっていることです。

 答えは……「類推」です。

 実は「既知のAは新奇の事象Bにも当てはまるのではないかと類推する心の営み」が,一般化の本質といえるのです。このような類推(アナロジー)とは,ある対象(B)を理解しようとした際に,すでに知っている事柄(A)をてがかりにすることにより生じるものです。

 例えば,2000年に日本の病院から無作為抽出した1000人の看護師の意識調査を行い,一般化できたとみなされる「統計学的に有意な知見」を得たとします。

 先に述べたように,しかしこの結果は,あくまでも「その時点」の「日本の病院で働いている看護師」についての知見でしかありません。したがって,この知見は隣国の韓国や,スウェーデン,アメリカといった他国の病院で働く看護師に当てはまるかどうかはわからないということになります。また,調査終了後から研究結果が何らかの形で公刊されるまで早くても半年から数年以上の時間を要しますので,時間的観点からいってもやはり一般化できるかどうかの保証はないわけです。

 すなわち,あらゆる知見の一般化可能性は常に「その時点のAについての知見は今のBにも当てはまるかもしれない」という類推によって支えられているといえるのです。“類推が一般化を根底から支えている”ということの意味はここにあります。

一般化する主体は誰か?

 このことは,ある母集団に統計学的に一般化できた知見も,他の範囲に適用するときには,その適用先の情報について知り,それが本当に適用できるのかどうかということをその都度,検討しなければならない,ということを意味します。すなわち,知見を一般化可能なものとして活用するということは,研究の内部で自己完結するものでは原理上あり得ないということです。

 ここで忘れてはならないのは,類推し,一般化する主体は誰なのか? ということです。もうおわかりだと思いますが,実際に一般化するのは新たな対象を理解しようとする当人にほかなりません。したがって,多標本を無作為抽出し,推測統計学を適用した研究の知見も,一事例に基づく質的研究の知見も,それを活用しようとする人が,自身の類推に基づいて活用しているという点ではまったく同じということになります。

 ここまでの議論によって,数量的研究,質的研究のいずれも,研究法として権利上等価に位置づけることができ,新たな一般化の枠組みの下地となる理路を整備できたといえるでしょう。

次なる課題

 しかしながら,まだ一般化のモンダイをすべてクリアできる理路が完成したわけではありません。あらゆる一般化が類推をベースとしているとすれば,どのような条件を満たせば,類推は働きやすくなるのでしょうか? また類推に基づく一般化は,研究実践にどのように組み込み,活用すればよいのでしょうか?

 次回は,そうした観点から検討していき,新たな一般化の枠組みを提示してみたいと思います。

この項つづく


西條剛央氏 関連情報
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